琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

『あたし彼女』を読んでみた


あたし彼女(第3回日本ケータイ小説大賞受賞)

第3回日本ケータイ小説大賞・源氏物語千年紀賞の発表と表彰式が24日、東京都内のホテルで行われ、大賞にkikiさん(23)の「あたし彼女」が選ばれ、賞金200万円が贈られた。同作はTSUTAYA賞、JOYSOUND賞にも選ばれ、トリプル受賞となった。

 「あたし彼女」は今時の若者言葉を多用した今までにない文体で、切ない恋心をつづった。審査委員長を務めた作詞家、秋元康さんは「言葉のリアリティーがすごい。こんな小説は読んだことがない」と絶賛。また、ケータイ小説が好きという卓球選手の福原愛さんが登場し、大賞受賞者に花束を渡した。(毎日jp.)

あたし彼女
プロローグ

                                                  • -

アタシ

アキ

歳?

23

まぁ今年で24

彼氏?

まぁ

当たり前に

いる

てか

いない訳ないじゃん

みたいな

彼氏は

普通

てか

アタシが付き合って

あげてる

みたいな


今さらながら、『あたし彼女』を全文読んでみました。
全部で1時間くらい。

まあ

内容は

どっかで読んだケータイ小説

というか

話題になってるから

最後まで読んであげた

みたいな


というふうに、マネしてみたくなる文章ではあるんですよねこれ。
正直、内容に関しては、つまらない、というか、「こいつらこのくらいでケンカばっかりしてたら、長続きするわけねーだろ!」「そんな親切な医者はいねえ!守秘義務違反!」としか思いませんでした。いや、いくら見た目が似ててもこのキャラじゃかえってイヤになるんじゃないのか、と。

本田透さんの『ケータイ小説はなぜ売れるのか』という本の中に、こんな記述があります。

 若者たちは物語を解体するばかりで新しい物語を構築すしようとしないリベラル派知識人の言葉を信じなくなり、代わりに保守主義……古びたはずの過去の物語が台頭した。

 『Deep Love』の登場は、「終わりなき日常」=物語なきニヒリズムの生を生きてきたはずの少女たちもまた、保守的な価値観に回帰することを欲した結果なのだと筆者は考える。

 ケータイ小説では「7つの大罪」が描かれる。

 売春(援助交際)、レイプ、妊娠、薬物、不治の病、自殺、真実の愛。

 それらは全て、現代……極限まで進化した資本主義社会において現実に繰り返されているイベントの反復であり、少女たちのパーソナル・エリア内で思い浮かぶ限り全てのイベントであり、それが限られた種類しかないということは彼女たちの人生には「これくらいしかイベントがない」ということでもある。

 そして、これらのイベント自体には何の意味もない。

大きな物語」はすでに崩壊しているから、我々はパーソナルな物語、「私の物語」を編纂しながら自分の無意味な生に意味を付与して生きなければならない。

このフォーマットでいくと、「売春」≒「不特定多数との肉体関係」とすれば、『あたし彼女』は「7つの大罪」のうちの3つしか使われていませんから、比較的シンプルなつくりではあるんですよね。「サービス精神」という意味では、『恋空』の足元にも及ばない。

しかしながら、この作品を読んでいて、僕はこの話を思い出しました。

ダ・ヴィンチ』の2005年7月号に掲載されていたものです(『活字中毒R。2005年6月15日

「持ち込みですか、もちろん歓迎ですよ」
 開口一番、力強く言い切ってくれたのは、小学館出版局の菅原朝也(文芸副編集長)さんだ。同社が小説に本腰を入れ始めたのは1997年頃から。自社文学賞を持っていなかったから、どうすれば原稿を持ち込んでもらえるか頭を悩ませたほどだった。実際、菅原さん担当の文芸作品として最初のヒットとなった松岡圭祐氏の『催眠』は、知人を介して持ち込まれた原稿だったそうだ。
「その後、嶽本野ばらさんの本を出すとき、帯に原稿募集と入れてみたんです。この本に興味を持つ人なら、という読みですね。けっこう反響がありましたよ」
 そのなかには、後の大ヒットにつながる反響もあった。帯を見た市川拓司氏が、この本の編集者に読んでもらいたいと、既刊本を送ってくれたのだ。それを読んだ菅原さんがホレ込んで手紙を出し、『いま、会いにゆきます』へとつながっていったというから、本が持ち込みの役割を果たしたことになる。
「持ち込みで見るのは文体なんです。作家としての生理を持っているかが第一で、技術は二の次。こっちもプロですから、数枚読めばだいたいわかります。音楽プロデューサーがデモテープを聴くときに似ているかもしれない。楽曲ではない部分が決め手になるという意味で」

あたし彼女』を読んでいて、最初は「くだんねーなこれ」と思いながらも、けっこうすらすらと読めたんですよね。
ところが、アキが「本当の恋」に目覚めてしまったくらいから、読むのがどんどん辛くなってきました。そして、トモ側からの章は、本当に「流し読み」。
僕が男なので、男視点の文章に嫌悪感があるのかとも考えたのですが、どうみても、この『あたし彼女』の魅力は『文体』なんですよね。というか、それしかない。そして、その文体で「だらだらととりとめもなく自分のどうしようもないオンナっぷりを吐露しているところ」だけが面白い。
あたし彼女』というのは、もう「7つの大罪」に飽き飽きした読者に対して、「文体を工夫して、リズムで読ませる作品」のように思われます。そして、この作者は、明らかにこれを「狙って」やっている。この人が23歳っていうのは絶対フィクションだよ。
だって、23歳が

居間で

ニャンニャン

なんて書くわけないって。
「ニャンニャン」がサッと出てくるのって、絶対に30代以降!

僕はこれ、「純文学くずれの30代後半」が「ケータイ小説のパロディとして」書いたものなんじゃないかと思っているのです。

いや、そもそも最近の「純文学」って、内容より文体、形式重視なんですよね。
川上未映子さんとか町田康さんとか。
そもそも、「内容が斬新な小説」なんて、そう簡単には書けないとうことに、みんな気づいてしまっているんじゃないかと。
愛とか人間関係とか生きづらさとか、「小説、とくに非エンタメ系の作品」については、もう「ストーリーのバリエーションは使い尽くされてしまった」のかもしれません。
「純文学」と「ケータイ小説」の最大の違いは、同じような内容をどんなふうに言葉にするか、要するに「文体」なのではないかと思います。そして、「純文学」と「ケータイ小説」っていうのは、「内容、舞台設定」への依存性の低さからすれば、「純文学」と「エンターテインメント作品」より、はるかに垣根が低いように感じるのです。

さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。気怠げに見せてくれたりするしね。

↑を例示して、「綿矢りさケータイ小説も似たようなもんじゃない?」って書こうと思ったのですが、あらためて読んでみると、やっぱりこのリズムと言葉の選びかたは凄いや。これは「純文学だから」じゃなくて、「綿矢りさ個人のポテンシャルの高さ」なんだろうけど。

あたし彼女』は、もしかしたら、『ケータイ小説』と『純文学』の垣根(だと僕たちが思っていたもの)を取り払うきっかけとなる作品なのかもしれません。実際にネットで「大人たち」にこれだけ受け入れられているのは、ひとつの証拠なのではないかと思います。

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