琥珀色の戯言

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MURAKAMI―龍と春樹の時代 ☆☆☆☆


MURAKAMI―龍と春樹の時代 (幻冬舎新書)

MURAKAMI―龍と春樹の時代 (幻冬舎新書)

かつて“W村上”などという呼び方をされた時期もあったが、龍のファンは春樹が苦手で、春樹のファンは龍が嫌いだったりすることが多い。しかし、二人の作品を時代ごとに対比させると、両者とも「アメリカ」「戦争」「セックス」「バブル経済」「崩壊の予兆」「十四歳」など、根っこの部分で驚くほどテーマがつながっていることがわかる。両MURAKAMIの物語によってあぶりだされた私たち自身の時代を振り返る、今までにない鮮烈な試み。

【目次】
第1章 
反逆からの出発-一九七六‐一九八五(“アメリカ”の洗礼-『限りなく透明に近いブルー』VS.『風の歌を聴け
日本という壁-『海の向こうで戦争が始まる』VS.『1973年のピンボール
がまんの仕方-『コインロッカー・ベイビーズ』VS.『羊をめぐる冒険
欲望の行く先-『中国行きのスロウ・ボート』VS.『悲しき熱帯』)

第2章 
関係のありかた-一九八六‐一九九五(僕とオレ-『村上朝日堂』VS.『すべての男は消耗品である』
泡の正体-『愛と幻想のファシズム』VS.『ダンス・ダンス・ダンス
セックスの底-『ノルウェイの森』VS.『トパーズ』
転がる石のように-『イビサ』VS.『国境の南、太陽の西』)

第3章
大人になるということ-一九九六‐二〇〇五(崩壊の予兆-『ねじまき鳥クロニクル』VS.『五分後の世界』
この国で何が起こっているのか-『アンダーグラウンド』VS.『JMM』
十四歳の境界-『希望の国エクソダス』VS.『海辺のカフカ
新しいゴールをめざして-『アフターダーク』VS.『半島を出よ』)

1970年代の後半から、「日本文学」を(少なくとも興行面では)リードし続けている、「W村上」の年代別の代表作を比較・検討し、「彼らはお互いに影響を与え合いながら、同じようなテーマについて書いている」と論じた本。
少なくとも、「W村上」の作品史としては、それなりに有益だし興味深い内容でした。
著者の清水良典さんには、『村上春樹はくせになる』という著書がすでにあり、村上春樹自身、そして作品についてのエピソードはものすごく豊富なので、「春樹派」にはけっこう楽しめるのではないでしょうか。
その一方で、「龍派」の人たちにとっては、情報量としても、作品への掘り下げにしても、やや物足りない内容かもしれないな、とも感じます。
著者はなるべく公平・公正に語ろうとしてはいるみたいなのですが……

「W村上」については、以前、

僕にとって、村上春樹は「自分に言い訳をし続ける文学」で村上龍は「他人に自慢をし続ける文学」という印象がある。
そして、僕は村上春樹のほうが好きなのだ。

と書いたのだけれど(もう5年くらい前の話です)、村上春樹村上龍の読者はあまり重ならないというか、「春樹好きは龍の押し付けがましさにに辟易し、龍好きは春樹の自己完結性に意味を見出せない」という印象を僕は持っていたのです。
そして、春樹さん、龍さん自身も、「あまり仲が良くもないのに同姓のおかげで間違われたりして不快なのだけど、知らんぷりもできない同級生」みたいに、お互いにはあえて言及しないルールを作っているのだと考えていたのです。
でも、この本を読んで、少なくともデビュー後しばらくは、春樹さんと龍さんには直接のつきあいがあって、両者の対談が雑誌に掲載されたり、その対談集が本になったりしていたということを知りました(『ウォーク・ドント・ラン』1981年・講談社)。

『ウォーク・ドント・ラン』で二人は、けっこう率直に自分のことを語りあっている。特に、国語の教師であり浄土宗の僧侶でもある父親に関して、ほとんど語らない村上春樹が、ここでは意外な打ち明け話をしている。父から受けた影響で、子供のころから欲望を捨てて生きていかなきゃいけないという考え方を植えつけられたところがある、と語っていたりする。また父が平家物語徒然草を暗記しているような人で、食卓の話題に万葉集が出るような家庭環境だったために日本文学がすっかり嫌いになったと話している一方で、文章の好きな作家として、春樹ファンにはおなじみのフィッツジェラルドカポーティ、チャンドラーと並べて、意外なことに上田秋成の名を挙げていたりするのだ。ストイックな性格や、怪奇やファンタジーに向かう村上春樹の想像力のベースが窺えて、このあたりはとても興味深い。

村上春樹さんは、プライベートなインタビューのみならず、作品のなかでも「親」あるいは「親子の絆」について語ることが非常に少ない作家なので、村上龍さんとこういう話をされていたというのはちょっと驚きました。
国境の南、太陽の西』という作品は、村上春樹さんの作品のなかで、僕にはなんとなく「異質」なものなのです。それは、あの作品のなかでは主人公の「妻の父親」についてかなり饒舌に語られているからかもしれないな、というようなことを、このくだりを読みながら思いました。

作家というのは、「けっこうみんな同じようなことばかり書いている」し、「その時代によってテーマの流行がある」ので、この2人の作品のテーマに類似点があるとしても、「この2人だけがシンクロして、他の作家とは違うテーマを提示している」わけではないはずです。この本を読んでいて、それは、あまりに過大評価であるように感じます。

それでも、僕はいままで毛嫌いしてきた村上龍さんの作品を、あらためて読んでみようと最近考えているのです。
2年前の芥川賞の選評で、村上龍さんは、こんなことを書かれていました。

「現代における生きにくさ」を描く小説はもううんざりだ。そんなことは小説が表現しなくても新聞の社会欄やテレビのドキュメンタリー番組で「自明のこと」として誰もが毎日目にしている。

少なくとも、村上龍さんには、「時代を切り開こうという意思」を感じます。
そして、この時代に『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を訳した村上春樹さんも、まったく別の形で、ただ「生きづらい」というだけではなく、みずから「木鐸」であろうとし、「世界の破綻を未然に防ごうとしている」ように思われます。
(この話は長くなるので、このエントリを読んでいただけると助かります。内田樹先生の受け売りなんですけど)
たぶん、「そういうこと」を意識して書いている作家って、そんなにいないのではないかと思うんですよね。
多くの作家にとって、「生きづらさ」は「自分自身にとっての生きづらさ」でしかなく「家族の解体と再生」は「家族の構成員のあいだの問題」でしかない。

そういう「観ている世界のスケール」において、「W村上」は、「他に誰もいないような高み」に存在しているのかもしれません。
お互いが目指している「頂上」は違うのだとしても。

この本は、「春樹」と「龍」は、そんなに遠いところにいるわけではないのだ、ということを伝えてくれますし、圧倒的春樹派だった僕も「村上龍の作品をもっと読んでみようかな」と思いました。
「龍派」の人も、おそらく「たまには春樹も読んでみるか」と感じるはず。
そういう意味では、どちらかのファンで、もうひとりは敬遠していた、という本好きにとっては、ちょっとしたきっかけを与えてくれるのではないかと。

最後に、この本で紹介されていた、村上春樹さんのエピソードをふたつ。

 のちに村上春樹川本三郎のインタビューに答えて、このデビュー作(『風の歌を聴け』)の文体はもともとうまく書けなくて困っていたのを、いったん英語で書き直し、それを「翻訳」したときに出来上がったものだということを明かしている(「『物語』のための冒険」『文学界』1985年8月号)。

 村上春樹自身は『全作品』の付録解説「自作を語る」で、この作品(『ノルウェイの森』でやろうとしたことの一つは、「徹底したリアリズムの文体」の試みだったと述べている。そして「100パーセントの恋愛小説!」という言葉を本の帯に入れてもらったのは、「これはラディカルでもシックでもインテレクチュアルでもポストモダンでも実験小説でもないただの普通のリアリズム小説です。だからそのつもりで読んでくださいね」という意味合いだったと書いている。

いろんな意味で、村上春樹ほど「著者の意図と読み手のスタンスの乖離」がみられる作家というのは、少ないのかもしれませんね。
読者にとっては、『ノルウェイの森』を分析的に読むことが「幸福な読書」にはつながらないでしょうし、春樹さんも読者のイマジネーションを限定するつもりはないのでしょうけど。


ウォーク・ドント・ラン―村上龍vs村上春樹

ウォーク・ドント・ラン―村上龍vs村上春樹

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