琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

「読書」についての覚え書き


ネットに時間を使いすぎると人生が破壊される。人生を根底から豊かで納得のいくものにしてくれる良書25冊を紹介(分裂勘違い君劇場(2008/11/18))

速読で本が楽しめるのかという疑問(狐の王国(2008/11/18))

↑のような刺激的な「読書」関連のエントリが挙がっているので、便乗して、最近僕がいままで触れてきた「読書」についてさまざまな人が語った言葉を御紹介しておきます。並んでいる順番にあまり意味はありません。



村上春樹ノルウェイの森』の登場人物・永沢さんについて。

彼は僕なんかははるかに及ばないくらいの読書家だったが、死後三十年を経ていない作家の本は原則として手にとろうとはしなかった。

そういう本しか俺は信用しない、と彼は言った。


勝間和代『読書進化論』より。

 私の場合、どんな本が私を進化させてくれたかと考えてみると、やはり翻訳書や洋書の原書が多いのです。私が読んできた本の割合は、半分以上が翻訳書または洋書です。私がお薦めの本のリストを出すと、8割方翻訳書になってしまいます。なぜ翻訳書や洋書を選んでしまうのかと考えると、企画の「分母」が違うからなのだろうと思います。日本にある本で、世界のマーケットに出て行って洋書として通用する本というのは、おそらく50冊に1冊あるかどうかでしょう。それに対して、洋書というのは、翻訳で内容の価値が下がってしまうこともあるのですが、それを考慮に入れてもそれなりのレベルの内容の書籍がそろっています。


糸井重里著『はたらきたい。』で紹介されていた言葉。

 以前、ある雑誌で、社長さんや、それなりの肩書きのある人に百冊の本を挙げてもらう、というインタビューをやったんです。そこでいちばん多く挙がったのが「デカルト」でした。なかでも『方法序説』。原理的なものや、普遍的なものって、古ければ古いほど「使える」んですよ。

                                     永江朗(書評家)


『一個人』2008年10月号(KKベストセラーズ)の「もう一度、読み返したい本〜人気作家10人がお勧めする究極の3冊」という記事の森博嗣さんの項から。

「基本的に再読はしないので読んだ本はとっておかないんです。だから、本棚もありません。雑誌には数十冊ほど目を通しますが、小説は年に3、4冊しか読めないんですよ。一冊読むのに2〜3週間はかかりますから、書くのと同じくらいの時間がかかっていることになります」
 一度しか読まない代わりに、どのページに何が書いてあるかということが思い出せるくらい丹念に読む。繰り返し読むことはないのに、1日2時間で20ページほどしか進まないのだそうだ。
「だって、書いてある文章から世界を頭の中で構築しなくちゃいけないわけですから、すごく大変じゃないですか。むしろ、みんながどうして小説を早く読めるのかわからないですよ。僕は一度読んだストーリーは絶対忘れないし、自分の経験と同じくらい鮮明に覚えています。その点、頭の中にあることを書き留めるのは楽ですよね。小説を書くということは僕にとって頭の中の映像をメモするような感覚ですから」

ちなみに、森さんは埴谷雄高の『死霊』を「例外的に3回読んだ」のだそうです。



『そして私は一人になった』(山本文緒著・角川文庫)

 私はだいたい月に7〜8冊の本を読む、本の世界と関係ない人や、特に本好きでない人から見たら多いかもしれないけれど、私が属している世界の中では、年間100冊というのはそう多い方ではない。
 でもそれは、ずっと昔からのことではなくて、大人になってからのことだ。今は小説を書くことも読むことも大好きだけれど、十代の頃は読書なんかちっとも好きじゃなかった。
 いや、今思うと本が嫌いだったわけじゃなく、若い頃は何を読んだらいいのか全然分からなかったのだ。以前知人が「たまには何か本を読もうと思っても、たくさんある本の中でどれを選んだらいいか分からない」と言っていた。まさにそれである。
 分からないから、例えば本屋の店先に積んであるベストセラーを読む。でも、つまらない。雑誌に紹介されていた本を読んでもみる。でも、つまらない。友人が面白かったと勧めてくれた本を読む。でも、つまらない。そうなると、本っていうのはつまらないものだという結論が出てしまうことになる。
 そこで諦めずに、何でもいいから自分が面白そうだと思う本にチャレンジしていくうちに、”自分にとって面白い本”というのが絶対見つかるのだ。私はそうやって、いい歳の大人になってからやっと、自分が面白いと思える本に出会うことができた。一冊見つかれば、後はもう簡単である。同じ作者の本を探したり、その作者が勧める本を読んだり、作者が違っても同じジャンルの本を読んだりすると、また好きな作家が見つかる。小説に限らず、ノンフィクションも学術書も同じことである。
 昔は私も、”本を読む”ということを難しく考えていたことがあった。読書は立派なこと、偉いこと、勉強なんだと構えていたからいけなかった。
 今は私にとって、本を読むのは音楽を聴いたり映画を見たりするのと同じである。文学的価値があろうがなかろうが、そんなことはどうでもいいことなのだ。売れていようと売れていまいと、まわりのひとが皆つまらないと言っても、自分さえ面白ければそれでいい。自分さえ夢中になれればそれでいいと思っている。
 冊数だってそんなに重要なことじゃない。時々こんなに私は本を読んでいると自慢する人もいるけれど、冊数をのばすだけなら誰でもやろうと思えばできることだ。その中で何冊心に響く本があったか、一冊でも人生を変えるような本に出会ったのか、その方がよっぽど重要なことだと思う。
 私も何度か読んだ本に人生を変えてもらったし、私自身も本を書いて生計を立てている。読んでは書いて、書いては読んで、そうやって一日が終わり、一週間が終わり、月日が過ぎていく。
 しあわせだなあ、と心から思う。
 いつまでも、このしあわせが続きますようにと、ベッドの中で眠くなって本を閉じるときにそう思う。


『書店員タカクラの、本と本屋の日々。…ときどき育児』(高倉美恵著・書肆侃侃房)より。

 呉智英氏は「季刊 本とコンピュータ」春号で
「人が本を読む理由は、娯楽のためか何かを知るためのふたつに尽きるが、じつはそれを超えた《業》のような一面が存在する」
と、言っています、そして、業としての読書はこれから500年や1000年のあいだはなくならないと結んでいますが、同じことは本屋にも言えると思います。なぜなら、本屋というごった煮のような空間にわざわざ訪れて本を買う、その行為にも先に述べた《業》があるからです。
 そこで、淘汰されずに残る方の本屋になろうと、もがいているのが現在のわたしたちです。本を読むという業と本屋に来る業を抱えた読者<客>を、本を売るという業を抱えてしまった本屋は、真摯に迎え続けるしかないのだと思っています。


『たぶん最後の御挨拶』(東野圭吾著・文藝春秋)より。

わからないといえば出版界の先行きだ。本当にもう本の売れない時代になった。不況の影響はもちろんあるだろう。書籍代というのは、真っ先に倹約するのが可能なものだからだ。図書館に行けば、ベストセラーだって無料で貸してくれる。レンタル業なんかも登場しつつある。どういう形にせよ、読書という文化が続いてくれればいいとは思う。しかし問題なのは、本を作り続けられるかどうか、ということだ。本を作るには費用がかかる。その費用を負担しているのは誰か。国は一銭も出してくれない。ではその金はどこから生み出されるか。じつはその費用を出しているのは、読者にほかならない。本を買うために読者が金を払う。その金を元に、出版社は新たな本を作るのだ。「読書のためにお金を出して本を買う」人がいなくなれば、新たな本はもう作られない。作家だって生活してはいけない。図書館利用者が何万人増えようが、レンタルで何千冊借りられようが、出版社にも作家にも全く利益はないのだ。だから私は「本を買ってくれる人」に対して、これからもその代価に見合った楽しみを提供するために作品を書く。もちろん、生活にゆとりがないから図書館で借りて読む、という人も多いだろう。その方々を非難する気は全くない。どうか公共の施設を利用して読書を楽しんでください。ただし、「お金を出して本を読む人たち」に対する感謝の気持ちを忘れないでください。なぜならその人たちがいなければ、本は作られないからです。


「吾輩ハ作者デアル」(原田宗典著・集英社文庫)より。

 しかしながら、やがて私は自分の読書の方法に疑いを抱くようになりました。ひとつには自身でも、ものを書くようになったせいもありましょう。自分は何のために読書をしているのだろう? 読了の日付けとサインを記すため――つまりは一冊の本を最後まで読み終えるために、読書をしているようなものではないか。と、そんなふうに思ったのです。いつのまにか私は、誰もが陥りやすい誤解に陥っていました。それは、
「一冊の本を最後まで読み終わらなければ、読書ではない」
 という考え方です。おそらく普通は国語の宿題などで、読書感想文を書かなければならない必要に迫られたりすることから、この「読了の義務感」が生じてくるのでしょう。だから私を含め、多くの人たちが、難解だったり、面白くなかったりしても、何とかして一冊の本を最後まで読もうとします。そして途中で断念したりすると、「自分は頭が悪い」とか「自分は読書が苦手だ」と思い込んで、本から離れていってしまうのです。
 しかしよく考えてみてください。一冊の本を最後まで読み終わることが「読書」なのでしょうか? 違います。本を開いて、読んでいる時間こそが「読書」ではありませんか。長さは関係ありません。5分でも10分でも、本を読みさえすれば、それはもう「読書」です。もちろん最後まで読む必要だってありません。読了できなかったからといって、廊下に立たされるわけではないし、劣等生の烙印を押されることもないのです。読み始めたその本が難しくて分からなかったり、つまらなかったりするのは、読者に責任があるのではなく、作者の責任です。
 ずいぶん大胆なことを言うな、と思われるかもしれませんが、私がこういう考え方に到ったのには、きっかけがありました。20代の半ばにたまたま読んだ随筆の中に、
 「本は必ずしも最後まで読む必要はない。つまらなくなったら中途で放り出して、別の本を読めばいい」
 というような一文があるのに出食わしたのです。書いたのは英文学者で、名文家としても名高い福原鱗太郎でした。
 「世の中には一生を読書に捧げても読み切れないほど沢山の本がある。だから我々は面白い本だけを読むべきであって、つまらない本を無理して読むなんて時間の無駄である」
 そんなふうに書いてあるのを読んで、私は目から鱗が落ちる思いを味わいました。まったくその通りだ、と一瞬にして納得がいったのです。同時に私は、最後のページに日付けとサインを誇らしげに記したいばかりに、つまらない本も斜め読みして読了した気になっていた自分を、恥ずかしく思いました。


「2006年度版・このミステリーがすごい!」(宝島社)より。「半落ち」「クライマーズ・ハイ」などの作品で知られる、作家・横山秀夫さんのインタビュー記事の一部。

 仕事、そして組織をテーマの中核とする作品を多数出している現在を見れば、その考えも納得がいく。
 では、横山氏が新聞社へ入社したキッカケはなんだろう。やはり多くの作家と同様、物を書き、書を読むことに傾倒した少年時代を過ごしてきたのだろうか。

横山「とくにマスコミに強い関心があったわけではないんです。ただ、子どものころから文章を書くのが好きで、本もよく読んでいました。小学校時代には誰よりも図書館で本を借りる子どもで、”図書館王”などと呼ばれて。実際に書いてもいて、たとえば『フランダースの犬』の結末がどうしても許せず、犬を生き返らせるために物語の続きを自分で書いたりしていました。中学、高校、大学となると、陸上やサッカーなど、部活のほうに熱中してしまい、いったん読書から離れてしまうのですが、小学生のころはまぎれもなく本の虫でしたね」

では、そこまで読書に傾倒するキッカケとなったものは何か?

横山「それがですね、小学校の低学年のときに駄菓子屋で万引きをして、それが学校や親にバレてしまって(笑)。周囲の子どもの親たちが。”横山君と遊んじゃいけない”という空気になり、友達が全然いなくなってしまったんです。遊ぶ相手がいないから、本を読むしかなかった(笑)。ホームズやルパンから入って、世界文学全集のようなものまで片っ端から読みました。
SFも大好きでせっせと読んで、ひたすら空想の中に生きてましたね」


村上春樹さんが書かれていた「小説の役目」について。
『約束された場所で』というオウム信者たちへのインタビュー集を読んだ読者からの、「オウム信者の人たちは、この世の中に『忘れられた人々」であり、オウムというのは、彼らにとっての『自分たちだけの入り口』だったのではないか?」と問いに対する回答。

村上春樹さんの回答>

 我々はみんなこうして日々を生きながら、自分がもっともよく理解され、自分がものごとをもっともよく理解できる場所を探し続けているのではないだろうか、という気がすることがよくあります。どこかにきっとそういう場所があるはずだと思って。でもそういう場所って、ほとんどの人にとって、実際に探し当てることはむずかしい、というか不可能なのかもしれません。
 だからこそ僕らは、自分の心の中に、あるいは想像力や観念の中に、そのような「特別な場所」を見いだしたり、創りあげたりすることになります。小説の役目のひとつは、読者にそのような場所を示し、あるいは提供することにあります。それは「物語」というかたちをとって、古代からずっと続けられてきた作業であり、僕も小説家の端くれとして、その伝統を引き継いでいるだけのことです。あなたがもしそのような「僕の場所」を気に入ってくれたとしたら、僕はとても嬉しいです。
 しかしそのような作業は、あなたも指摘されているように、ある場所にはけっこう危険な可能性を含んでいます。その「特別な場所」の入り口を熱心に求めるあまり、間違った人々によって、間違った場所に導かれてしまうおそれがあるからです。たとえば、オウム真理教に入信して、命じられるままに、犯罪行為を犯してしまった人々のように。どうすればそのような危険を避けることができるか?僕に言えるのは、良質な物語をたくさん読んで下さい、ということです。良質な物語は、間違った物語を見分ける能力を育てます。


まあ、要するに「本の読み方」に絶対的な「正解」なんてない、ということなのでしょう。
僕が最近意識しているのは、

(1)なるべく古い本を読んでみる。
(2)「いまさら定番の本を読むこと」を恐れない。
(3)翻訳書(本当は原書のほうがいいんでしょうけど)を敬遠せずに読んでみる。
(4)でも、「愉しむための読書」を否定しない。

ということです。
それにしても、もし中高生の自分にアドバイスできるとしたら、「デカルトとかニーチェとかトルストイとか、いまのお前くらいの年齢のときにちゃんと読んどけ!」って言いたいよなあ……たぶん無視されるだろうけど。

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