琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

それでも、「努力すれば報われる」


「努力すれば報われる」の罠(はてな匿名ダイアリー)

小さい頃から、努力すれば報われると教えられてきた。
実際、受験も部活動も、恋愛も、すべてが一定以上に報われてきたと思う。
でも、社会に入ってからはそうじゃないと知った。
「努力しても報われない」どころか、
「努力さえさせてもらえない」「努力そのものを全否定される」なんてのはザラだ。
「何について努力するか」を選ぶことや「努力より考えが重要」と言われた。
いきなり180度態度を変えてくる。
話が違うじゃないか、と思ったが、社会人から言わせると
「それはお前が努力すると報われるぬるま湯の世界から出て、現実を見ようとしなかったせいだ」
と言うことになるらしい。親父も大体同じようなことを言っていた。

僕は学生時代から、「部活動や恋愛では、自分でどんなに努力しているつもりでも報われなかった」ので、少なくとも人間関係や自分の適性がない方面に関しては「努力をすれば報われる」なんて嘘だと思っていました。
そんななか、勉強に関しては、まあそれなりの適性があった+自分なりにかなりの「努力」をしたので、なんとか資格をとっていまの仕事に就き、自分では向いていないなあ、と感じながらも、とりあえず「食べたいときに食い放題じゃない焼肉屋で食べたいだけ食べられる」くらいの生活をしています。
学生時代、とくに中高生くらいのときに抱えていたのは、「自分みたいに運動音痴でルックスが不自由な人間は、勉強でもやって生活の糧を得ないと生きていけない」という絶望的な危機意識だったのです。

僕なりに「努力」をしてきたつもりで、社会人になってみたのですが、僕はどうも他人のことにあまり興味を持てない性格みたいで、正直いまでも「めんどくさいなー」とばかり考えてしまうんですけどね。
そして、僕が受験勉強をして大学に入り、社会人になって思い知らされた「現実」ってやつは、けっこう残酷でした。
僕は自分がずっとそれなりに「勉強している」つもりだったんだけど、より高いレベルを目指せば目指すほど、上へ行くための道は険しく、細くなっていくのです。
高校では、「夕方から夜まではそれなりに勉強していた僕」を尻目に「朝から晩までずっと勉強していた連中」が東大に行き、職場では、23時くらいに休憩室で「今日はちょっと疲れたから帰ろう」としていると「これから文献調べなくっちゃ」と真っ赤な目で机に向かおうとする奴等がいる。
「僕は、ある程度『手段』として割り切って勉強できるけど、勉強そのものが好きなわけじゃない人間なんだな」ということを、何度も痛感させられ、打ちのめされました。
世の中には、テレビゲームや映画やゴルフやセックスよりも勉強が好き、勉強が楽しくてしょうがない、っていう人間がいるんだよ本当に。
あるいは、「自分のポジションを上げていくために、他のすべてを犠牲にして勉強することを厭わない」人間も。
ほとんどの「努力して上を目指す人間」にとって、人生は、「挫折を約束された死の彷徨」みたいなものなんじゃないかな。

この増田さんは、たぶん、ものすごく頑張っている人なんじゃないかと思います。
世の中の多くの若者は、

「何について努力するか」を選ぶことや「努力より考えが重要」

なんて言われる前に、「まずやってみてからものを言え!」って一喝されているはず。
「努力している」ことを認知されているだけでもすごいものだよ。

「それはお前が努力すると報われるぬるま湯の世界外から出て、現実を見ようとしなかったせいだ」

なんていう「知ったかぶりの大人」に対しては、「それはお前らが自分の怠惰を『努力しても報われないことがあるのだから』と自分に言い訳しているだけだろ?」と言いたくもなるんですけどね。
「努力すればするだけ報われる世界」は、「ぬるま湯」なんかじゃなくて、ごく少数の人にとっては「天国」で、残りの人間にとっては「地獄」だよ。

僕はこの人に、ぜひ↓の話を読んでみてもらいたいのです。
「苦労」してるのを「努力」してると思ってる人(活字中毒R。)

自分で「努力」していると思っているときこそ、逆に「苦労を努力と勘違いしている」「努力することそのものが目的になってしまっている」「努力したから結果がダメでもいいや、と納得してしまっている」ものだから。


そして、僕はひとつ、この増田さんに言っておきたい。
僕は「努力って大事だ」から「努力したって、大部分の人間は、結局どこかで壁にぶち当たるだけなのだから虚しい」というプロセスを経てきて、いまは、「やっぱり努力はしたほうがいいんじゃないかな」と思うようになりました。

日本に限った話かもしれないが、親や社会人は、子供が心の底では憎いのではないか。
子供が、自分以上の可能性を持っていることを許せないのではないか。
言うことを聞いたら、一時だけ幸せになれる、逆らうと痛い目にあわされる。
いつの間にか「言われたことを拒否する」ことを怖がる犬状態にさせられる。
あるいは、馬の鼻先にニンジンをぶら下げて壁にぶち当たるまで走らせ、
馬が気付かないで必死に走る様を外から眺めて笑っているようなものだ。
学歴や資格を追いかけてに奔走している私を見て嘲笑っていたのだ。


イチロー選手が、糸井重里さんとの対談で、こんなことを言っています。

「キャッチボール〜ICHIRO meets you」(「キャッチボール〜ICHIRO meets you」製作委員会著・糸井重里監修)

イチローこれね、大事なことなんですよ。
 僕がよく小さい子に言うのは、「野球がうまくなりたかったら、できるだけいい道具を持ってほしい。そしてしっかりとグラブを磨いてほしい」ということと、「宿題を一生懸命やってほしい」ということ、なんですね。
 宿題をやる意味は、宿題そのものだけではないんですよ、実は。
 なんでぼくがそれを大事だと思っているかというと……大人になると、かならず上司という人が現れて、何かをやれ、と言われるときがくると思うんですね。
 子どもにとっていちばんイヤなことは、勉強することなんです。
 よっぽど勉強が好きな人はおいておいて、キライなことをやれと言われてやれる能力っていうのは、後でかならず生きてきますよ。
 ぼくが、宿題を一生懸命やってよかったなと思うのは、そこなんですね。
 プロ野球選手という個人が優先される場所であっても、やれと言われることがものすごくあるわけです。だったら、一般の会社員になって、そんなことは毎日のことのはずです。だから、小さい頃に訓練をしておけば、きっと役に立つと思うんです。
 やれと言われたことをやる能力を身につけておけば、かならず役に立つ。
 「自分は野球が好きだからそれだけやっていればいいや」といって宿題を放棄してしまったら、おそらく、後で大変な思いをすると思うんですよね。

 さっき、「苦労」と「努力」の話を紹介しましたが、僕は少なくとも子どもにとっては、「苦労」も無意味じゃないと思うのです。
 人が「生き延びる」ためには、「やりたくないことをやれる忍耐力」が絶対に必要だから。
 ある意味、いまの僕の人生なんて、「惰性」なわけです。
 いまさら教授になったり、世界的大発明をしたりする可能性はありえない。
 「歴史に名を遺す」というような「野望」は涸れ果て、いまの僕に残された「ささやかな幸福」というのは、十代の頃にさんざんバカにしてきた、「家族といる幸せ」とか「美味しいものを食べられる喜び」みたいな「小さなもの」ばかり。
 でも、僕はこうして生きてる。毎日仕事をして、ブログを書いて。

 この年になってようやくわかったのだけれど、年長者が若者に「努力」を教えるのは、「努力すれば報われる」からじゃなくて、「努力するということをトレーニングして身につけておかないと、ちょっとしたことで生きるのをやめてしまったり、あらゆるキツイ状況下で『逃げる』ことか『自暴自棄になる』ことしかできなくなってしまったりするから」、なのではないかと思うのですよ。
 「努力したことによる成功体験」を持つことによる「それでも、頑張ればいいことあるかもしれない」っていう小さな希望が、いかに多くの人の「生きるための杖」になってきたことか。
 そして、生きていれば、この世界という砂浜に一個くらい転がっている「幸福」という小石を見つけることだって、たまにはあるのです。

 「努力することしかできない人間」は不幸だと感じるかもしれないけれど、「努力することに希望すら持てない人間」は、もっと不幸です。
 考えてみれば、それこそが今の「希望格差社会」ってやつなのでしょうね。


僕は自分の人生を「努力が足りなかった」と思ってる。でも、「自分なりにやれることはやってきた」とも思ってる。
その程度のことだけど、それなりに「納得」できるようになったのは、まがりなりにも「努力してみたから」じゃないかな。
子どもには「(苦労じゃなくて)努力は大事だ」って言うよ、嫌われても。
そして、言うだけじゃなくて、少しでも「こんなオッサンでも努力しているところ」を見せてやる。

……まあ、偉そうなこと書いてますけど、実際は愚痴まみれの毎日なんですけどね。
いや、オッサンだって「努力」してるんだよ、それこそ「苦労」なのかもしれないけどさ。

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