コミュニケーション能力という幻想 - ハックルベリーに会いに行く(2008/12/21)
↑のエントリを読んだことをきっかけに、「コミュニケーション能力」について思いついたことなどあれこれと。
最初に頭に浮かんだのは、押井守監督のこんな言葉でした(押井監督の著書『凡人として生きるということ』より)
僕には友達と呼べる人はいないし、それを苦にしたことはない。年賀状にしても、こちらから出すのは毎年ふたりだけ。師匠ともうひとり。さすがに出さないと失礼と思われる大先輩のふたりを除いて、年賀のあいさつを出す相手もいない。
だから、正月にうちに配られる年賀状はどんどん減ってきた。それでもいいと僕は思っている。他人とのコミュニケーションは、こんな僕でも大事だ。いや、多くの人の才能に支えられて映画を作る僕のような人間には、コミュニケーションほど大切なものはない、と言ってもいいだろう。
だが、それはあくまでも映画を作るという目的があってのことだ。もしも僕がたったひとりでも映画を作ることができるなら、ひとり家にこもって誰とも交わらず、黙々と作業をするだろう。
だが、実際にはそんなことはできるはずもない。だから、僕は他人を必要とする。他人を必要とするから、他人と一晩でも二晩でも、相手に自分の考えを納得してもらえるまで、とことん話す。
その過程で、その人とどんなふうに付き合えばうまくやっていけるかを真剣に考える。仕事仲間になるのだから、映画を作る数年の間は、その人とうまくやっていきたいと自然に思うから、そうするだけのことだ。
逆に、話す必要もない相手とは話さない。僕は別にお友達がほしいわけじゃないからだ。友人なんてそんなもの、と思ってみれば、友人関係であれやこれやと悩むこともバカらしくなってくるはずだ。
だから、若者は早く外の世界へ出て、仕事でも見つけ、必要に応じた仲間を作ればいいと、僕は思っている。ただ、そばにいてダラダラと一緒に過ごすだけではない仲間がきっと見つかるはずだ。
損得勘定で動く自分を責めてはいけない。しょせん人間は、損得だけでしか動けないものだ。無償の友情とか、そんな幻想に振り回されてはいけない。
そうすれば、この世界はもう少し生きやすくなる。
「中島らもの特選明るい悩み相談室・その2〜ニッポンの常識篇」(中島らも著・集英社)より。
(「上司に『君の顔は営業向きでないから、なんとかしなさい』と言われて困っている」という女性の悩みに対する答えの一部です。中島さんの「自分は相手の言いなりにすぐなってしまって、営業マンとしてはダメだった」という述懐のあとに)
ただ、自分以外の優秀な営業マンは、たくさん見て知っています。
たとえば「関所破りのK」と異名を取った営業マン。普通、得意先の担当者と会うためにはアポイントメントが必要ですが、このKさんはアポもとらずにどんな会社でもずいずい入っていって担当者をつかまえてしまうのです。受付嬢を笑わせるのがコツだそうです。
「やってあげましょうのT」さん。普通の営業マンは「仕事をくださいよ」と頼み込む人が多いのですが、このTさんは逆です。どんと胸をたたいて、やってあげましょう、やってあげようじゃないですか、と相手に迫り、いつの間にか仕事を取ってしまいます。
「脂汗のS」さん。この人は少しでも緊張すると顔中から脂汗が噴き出します。汗はあごを伝って、得意先の机の上にぽたぽたとしたたり落ちます。口だけ達者な営業マンの中で、この脂汗の効果は大きいのです。Sさんにはいかにも「実」があるように見えてしまうのです。
要するに、優秀な営業マンとは、自分のスタイルを確立した人のことをさすのです。
『経験を盗め〜文化を楽しむ編』(糸井重里著・中公文庫)より。
(「おしゃべり革命を起こそう」というテーマの糸井重里さんと御厨貴さん(オーラル・ヒストリー(口述記録)の研究者・東京大学教授)、阿川佐和子さんの鼎談の一部です)
御厨貴:僕が10年来経験を重ねてみてわかったのは、聞く時には「自然体」が一番いいということです。こっちが「聞くぞ」と意気込んでると、向こうもなんとなく「答えないぞ!」みたいに構えますから。
阿川佐和子:力を抜く?
御厨:最初から自分は何でも知っているという姿勢で臨むのではなく、知らない、よくわからない、だから聞きたいというスタンスですね。
阿川:ニコニコなさる?
御厨:いえいえ、それはあまりやると向こうが嫌がるからしない。現場に行って、先に来ちゃったから、部屋でボケッと座っているような感じです。
糸井重里:あっ、その「ボケッと座ってる」という言い方、すでに好感持っちゃうな。
阿川:以前、城山三郎さんにインタビューした時、城山さん、まさに先に座って、ボケッとしていらしたの。「申し訳ございません。お待たせして」と言うと、「いやいや、前の仕事が早く終わってね」とニコニコ。その後ですよ、聞き手なのに、私が2時間しゃべりまくってしまったのは。最初のたたずまいから始まって、何聞いても「おたくは?」なんて具合だから、「聞いてください!」とばかりに私がガーッとしゃべる。終始、「どうして?」「それから?」「いいねぇ、おかしいねぇ」くらいしかおっしゃらないんだけど、これこそが究極の聞き上手だと思いました。
糸井:「ボケッと座っている」ことの中には、多くのことが入っているんですね。
阿川:つまり、「あなたを受け入れるよ」という態勢ですよね。
御厨:自然体という表現でいいのか、あまり「図らなく」なってから、僕は前ほど疲れなくなりました。
阿川:自然体も大事なんだけど相槌も大事じゃないですか。知り合いの男性編集者は、「あー、そうスかぁ」というのが癖らしくて、「ごめん。原稿が遅れそう」と言うと、「あー、そうスかぁ」。申し訳ないから「この間、ケガしちゃって」と説明しても、「あー、そうスかぁ」……何だか寂しくなってきちゃって、「それは癖?」と私が聞いたら、「何がですか?」と言うんで、「『あー、そうスかぁ』っていつも言うじゃない」「あー、そうスかぁ」と答えるの(笑)。逆に相槌のうまい人は、相手を話しやすくさせますね。
御厨:相槌でも、「なるほどね」というのは賛否両論あります。相手が精いっぱい話している時に「なるほど」と相槌が入ると、「あ、そうですか。じゃあ次は?」と急かされているような気になる。非常に苦労した話をしている相手に、「なるほど」と簡単に言ってしまうと、「おまえにわかんねえだろうが」と思われたりね。
(中略)
阿川:自分がしゃべる側に立った時、「この人は誠意を持って、本当に私の話を面白がって聞いてくれる人なのか」というのは、ちょっとしゃべればわかりますね。自分に対して、愛情を持ってくれていることを感じるというか。
御厨:その思いやりにも通じますが、僕が話を聞く時に、絶対にやらないようにしていることが一つあります。それは相手の話をまとめないこと。相手は一所懸命にしゃべろうとしているけど、言いたい内容にふさわしい言葉がなかなか出てこなくて、ああでもないこうでもないと話が行きつ戻りつしている。それを、利口な人はまとめようとするんですね。
「要するに、あなたの言いたいことはこれでしょう」と。
糸井:ヤですねえ。
御厨:これをやられると、話し手はがっかりする。「まあ、君がそう言ってるんだから、そうだろ」と納得のいかないまま、話を終わらせることもある。とにかく僕は、相手が言い終わるまでずーっと聞くようにしています。
糸井:相手のペースに自分を委ねる――それができれば、誰でもが聞き上手になれると僕も思いますね。
阿川:私の基本は、できる限りその人に関心を示して、「聞きたい」という誠意を尽くすこと。それから、話してくださったことが面白ければ、自分が次に何を質問しようかと考えるより先に、まず「面白い!」と反応する。
僕は日頃仕事をしているときに、自分に言い聞かせていることがあるのです。
「愛想だけで仕事をするな、それはすごく危険だ」
僕は正直、必要最低限しか口を開きたくないし、初対面の人と会うときにはお腹を壊してしまうくらいなんですけど、それでも、「ここは、『いやあ治りますよ絶対、僕に任せておいてください、あはははは!」みたいなことを言いたい衝動に駆られてしまうことがあるんですよ。そのほうがラクだったりするしね。
世間には、そうして「評判の名医」になっているけど、実際にやっている治療は……というケースもあるわけですが、普通の患者さんは、治療の内容の優劣を判断することは難しいです。
でも、そうやって「その場しのぎ」を繰り返していくうちに、どんどんやっていることのレベルが下がり、いつか大きなミスをするのではないかという気がします。
突き詰めれば、もし僕がブラックジャックだったら、「コミュニケーション能力が最低」でも、多くの人が僕のところにやってきて、「手術料は3千万円!」なんて宣告されても、なんとか僕とコミュニケーションをとろうとするはずです。
極論すれば、圧倒的な能力、余人には替え難い能力を持てば、相手のほうから、あなたに近づいてくるわけです。
「そんな力があったら苦労しないよ!」
ごもっとも。
でも、「そういう解決法もある」ということは、知っておいて損はないはずです。
僕は「自分がコミュニケーション上手だと思いこんでいる人」は、基本的に信用していません。
そういう人の多くは、「コミュニケーション能力」って、「他人と楽しそうに話せる力」や「飲み会で空気を読んで盛り上がれる力」だと考えているのですが、そういうのが「能力」として評価されるのは、学生時代と『釣りバカ日誌』の中だけです。
「コミュニケーション」っていうやつほど、曖昧なものってないから。相性もあるしね。
大事なのは、「自分が伝えたいことをなるべくシンプルに話すこと」と「相手の話を真摯に聞くこと」だけだと思うんですよ本当に。
それができなくて、苦労の連続ですが。
毎回太平洋戦争の話からはじまる患者さんの「病歴」を真摯に聞くのは、やっぱり難しい。
よく、「恋人との電話は1時間でも一瞬だが、歯医者の診察台の上では5分間も永遠に感じる」なんて言います。
「相手を好きになること」ができれば、コミュニケーションは8割方「勝ち」なのかもしれません。
僕は本当に人間が嫌いで苦手で……と自分では思っているのですが、ある日妻に「なんのかんの言っても、人間が書いた本や人間がつくったゲームにあれだけ熱心に接しているんだから、そんなに嫌いだとは思えない」とツッコミを入れられてしまいました。
最初に紹介したエントリで触れられていた「30歳で死のうと思っている人」も、「これを読むであろう誰か」を誰一人信じられないのだったら、たぶん、ああいうことは書けなかったんじゃないかな。
ただ、そういうのって、僕にとっては、すごく美しいものじゃなくて、人間の業というか妄執のように感じられることもあるのです。
谷川俊太郎さんの「やわらかいいのち〜思春期心身症と呼ばれる少年少女たちに〜」という詩のなかに、こんな章があります。
あなたは愛される
愛されることから逃れられない
たとえあなたがすべての人を憎むとしても
たとえあなたが人生を憎むとしても
あなたは降りしきる雨に愛される
微風に揺れる野花に
えたいの知れぬ恐ろしい夢に
柱のかげのあなたの知らない誰かに愛される
何故ならあなたはひとつのいのち
どんなに否定しようと思っても
生きようともがきつづけるひとつのいのち
すべての硬く冷たいものの中で
なおにじみなおあふれなお流れやまぬ
やわらかいいのちだから
この詩は、ある人に教えてもらったものなのですが、僕はこれを読むたびに、ものすごくあたたかい気持ちと、ものすごくいたたまれないような居心地の悪さを感じてしまうのです。
人は結局、「愛されることからも逃れられないのか」と。
どんなに自分ひとりの力で生きているつもりでも、誰かが作ったパンを食べ、誰かが作ったパソコンのキーボードを叩き、誰かが作ったケーブルを使ってネットをしている。
それは「愛」なのか?と思われるかもしれないけれど、たぶんそういう「生きていくためのつながり」みたいなものが「愛」なんだよ。少なくともパンに毒は入っていないし、僕が「C」のキーを押せば、画面には「C」が表示されます。
「誰からも愛される人間」っていうのがいないのと同じように、「誰からも愛されない人間」なんて存在しない。
でも、そうやって、孤独にすらなれないということに、僕にとっては、ときどきすごく行き詰まりを感じるし、自分の無力に泣きたくもなるのです。
「愛される」というのは、ある種の「業」みたいなものなのかもしれないな、と感じることがあります。
そんなものがなければ、そんなことにこだわらなければ、もっとラクに生きられるのに、って。
それはたぶん、ものすごく「贅沢な閉塞感」ではあるのだろうけれど。
大概の人と人との関係には「良い」も「悪い」もなくて(あるいは、「良い」と「悪い」が入り混じっていて)、いわゆる「非コミュ」というのは、「人間関係における完全主義者」なのかな、とも感じます。
最後に、あまりうまくいってはいないのですが、いままで僕がやろうとしてきたことを書いておきます。
最初に紹介したエントリに、こんな文章があります。
アメリカという国そのものの礎を築いたベンジャミン・フランクリンは、自分のつたない話し方が長年のコンプレックスだったらしいが、長じるに連れ、「むしろつたない話し方の方が多くの人が丁寧に聞いてくれることに気付いた」と言っている。そこから、人前で話すのが億劫ではなくなったそうだ。
この話、「つたない話だから聞いてくれる」というふうに解釈するべきではないと思うんですよ。
他人は「つたないだけの話」なんて聞きません。
僕の想像なのですが、ベンジャミン・フランクリンは、自分の話し方に自信が持てなかったから、少しでも内容を良くしようと吟味したり、面白く聞いてもらえるように工夫をしたはずです。あるいは、かれが語る経験そのものが、当時のアメリカの人たちにとってはすばらしく価値があるものだったのでしょう。
僕はすごいアガリ症を30余年やってきて、自分なりにわかったことがあるんです。
アガリ症の人間が「緊張しないように努力する」のはムダなことで、「緊張した状態でうまくやれるように下準備をしておく」ことこそが大事なんだと。
僕はいまでも人前で話すときには原稿をきちんと書いて何度も練習しますし、これは無理だ、と思ったら原稿を見ながら話します。
どんな質問をされても答えられるように、下調べを入念すぎるくらいやります。
緊張して100の力のうち50しか出せないのなら、あらかじめ200の準備をしておくしかないんですよ、アガっちゃう人間は。
なんか話があちこちにとんでしまって、しかも偉そうなことを書きなぐって終わるというのは最低だと思いつつ、もう眠いのでそろそろ寝ます。最後にもうひとつ興味深い文章を御紹介しておきますね。
『月刊CIRCUS・2008年3月号』(KKベストセラーズ)の特集記事「春の転職シーズン到来・採用責任者はココを見ていた!〜人事部長に訊け」より。
(『エンゼルバンク―ドラゴン桜外伝』の作者である、漫画家・三田紀房さんが語る「入社後を見据えた『ドラゴン桜』式転職術!」の一部です)
私自身は「転職は非常にリスクの高い行為だと思っています。転職について、取材や情報収集をしていて感じることは、ほとんどの人の転職理由は、本当は「人間関係」なんですよ。「給料が安い」とか「職場環境が悪い」とか、みんなそれなりの理由を言うんですが、よくよく本音を聞いてみると、人間関係をきっかけに辞めようと考える人がほとんどなんです。
確かに良好な人間関係があれば、よそで一から始めようという決心はしにくい。人間というのは、酷い状況下でも、仲間の存在があれば我慢できるんですね。逆にどんなに給料が良くても、仲間に恵まれないと辞めたくなるんです。
そしていったん辞めたくなると、自分の可能性を試したいとか、チャレンジしたいとか、成長したいとか、ポジティブな理由を後付けして、決意を固めていくんです。
でも本音は人間関係です。そこを認識しないまま、次の職場に行っても、自分の理想の人間関係が築けるという保証はどこにもない。次の職場でもギクシャクすれば、また辞めたくなる。それが職場を転々と替える原因になっているようです。
でも、辞めたいものは、辞めたいですよね(笑)。だから転職は絶対ダメだとは言いませんが、辞める前にもう一度自分を見直してみる必要はあるんじゃないかな。単純に人間関係が理由なら、良好な関係になるよう努力してみるのもひとつの考え方だと思います。
人間関係のトラブルの原因って、ちょっとした生活習慣なんです。
机が汚いとか、時間にルーズとか、つき合いが悪いとか。世間一般が共有しているルールから外れると、急激におかしくなる、自分が気づいてない部分で人に不快感を与えてるかもしれません。そこを改善するだけでも人間関係って変わりますよ。
これは本当に身につまされる話ですし、知っておいて損はないんじゃないかなあ。
散らかりまくった机の上のパソコンでこんなことを書くのは、恥ずかしくってしょうがないんだけどさ。
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あと、以下の2冊の本は、「コミュニケーションに悩んでいる人」にとって、すごく心に響くのではないかと思います。
- 作者: ランディパウシュ,ジェフリーザスロー,矢羽野薫
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- 作者: 山田ズーニー
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おお、われながら「書評ブロガー」みたいだ!