琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

「そうですよね、私、おかしいですよね」

昨日のエントリの続き、みたいな話になってしまうのだけれども。

お母さんと子ども(空中キャンプ 2008/3/18)

↑は1年近く前に読んだ話なのだけれども、当時は、「なんかヒステリックなお母さんだなあ」という印象ばかりが残ったような記憶がある。
今回、あらためて読み直してみると、このお母さんの気持ちがあまりにもよくわかるので自分でも驚いてしまった。
このお母さんだって、たぶん、仕事や育児で疲れはてながらも、子どもたちを喜ばせようとプールに連れてきたのだろうと思う。
にもかかわらず、子どもたちは親の愛情に何の感謝もみせず、「プールには入りたくない」と言い放つのだ。
親としては、たぶん、「そんなふうに他人の愛情を踏みにじるような人間にしてはいけない」という「公的な理由」と、「せっかくの休みを潰して連れてきてあげたのに」という「私的な怒り」が入り混じって、こんな反応になってしまったのではないだろうか。
他人目線では、「親っていうのは子どものためにあれこれしてあげるのが当たり前」なのかもしれないが、こういうのは本当につらいし、嫌になっちゃうだろうな、と考えずにはいられない。
そして、困ったことに、僕自身もこんなふうに「親の愛情を踏みにじることが自分の権利だと思っていた子ども」なんだよなあ。
外食に行くという親に「行きたくない」と駄々をこね、店についても「やっぱり車で待ってる」と反抗。
ああいうときの親の心境をいま想像すると、よくそんな子どもに対して寛容でいてくれたものだ、と驚かずにはいられない。

この「お母さんと子ども」の話を読み返していて思ったのだけれど、これは、「子育ての大変さ」についての話であるのと同時に、「子育てに煮詰まったときに、どうすればいいのか?」というヒントにもなるのではないかなあ。

「そうですよね、私、おかしいですよね」

僕は思う。
「間違っていること」をやっている人には、2種類ある。
ひとつめは、「それが正しいこと」だと信じてやっている人」、そして、もうひとつは、「自分でも間違っているとわかっていても、歯止めがきかなくなっている人」。
このお母さんは後者であり、僕が自分の子どもに感じる「苛立ち」も、たぶん後者だ。
「相手は子ども、泣くのが当然」だと理屈ではわかっていても、目の前で延々と泣かれていると、「もういいかげんにしてくれ!」という衝動に駆られてしまう。いまのところ、それは僕の心をチラリとよぎるだけで、行動には反映されていないけれど(ただ、僕が苛立っているときには子どもはさらに大声で泣くので、伝わってはいるのだろうな、とは思う)。

うちではそんなとき、嫁が僕にさらりと一声かけるのだ。とくに強い調子でもなく。
「あなた、いま、イラッとしてるでしょ?」
その言葉を聞くと、僕は催眠術から醒めたみたいに正気に戻る。ああ、そうか僕は苛立っているんだな、そう見えているんだな、と。

『空中キャンプ』の「お母さんと子ども」の話でも、id:zoot32さんは、「あの、すいません。そのー、娘さんもね、こんなにいやがっていることですし、プールに入れるのは、かんべんしてあげたらどうでしょうか」とお母さんに言葉をかけている。こういうときに、お母さんを直接責めるような言葉を使わない、というのは、ものすごく大人らしい対応だ。
こういう「自分でも間違っていることをやっていると思いながら、そこから抜け出せないとき」って、外から責められると、「人の家庭のことに口出ししないでください!」とか、かえって反発してしまうものなのだ。
いや、同じようなケースでも、10人のお母さんに声をかければ、2〜3人は、「逆ギレ」されるのではないかとは思うけど、残りの7〜8人は、「誰かが自分を止めてくれたこと」に安堵するはず。

世間で起きている「子育て」に関するトラブルの多くは、こんなふうに「危険なタイミングで、自分を客観的に振り返ることができる言葉をかけてくれる人」がいないことによって起こっているのではないか、と僕は思う。
「私がおかしいこと」が理性ではわかっていても、心というのは暴走しだすと止められないこともあるのだ。
クールダウンするタイミングを逸してしまったら、もうどうしようもない。

重症化してしまったら、専門家に相談しなければならないだろう。
でも、そうなる前に、「みんなそれぞれ違うけど、みんなそれぞれ似たようなものなのだ」ということさえわかれば、少しはラクになる場合もあるんじゃないかな。
そして、「子育てにひとりでも多くの人が関わること」というのは、お互いの危険な状態を察知し、歯止めをかけることができるというだけでも、ひとりだけでの子育てより、はるかにリスクを軽減できるはず。

僕はこのブログにいろんな声を寄せてもらえることにすごく感謝しているし、「昨日、子供が生まれた」のエントリと励ましてくれた人たちの言葉をときどき読み返しては、「もうちょっとがんばってみようかな」と小さな決心を繰り返しています。

ああ、いま思ったんだけど、これって、「子育ての話」だけじゃないよねきっと。
ちょっとした一声で救われる命や人生って、けっこうあるのかもしれない。


最後に、柴田元幸さんの『アメリカ文学のレッスン』という新書から、こんな言葉を紹介しておきます。
『白鯨』を書いたハーマン・メルヴィルの『ピエール』という小説の一節だそうです(訳は柴田元幸さん)

なぜなら、途方もない窮地に至った者の魂は、溺れかけている人間のようなものだからだ。危険のただなかにあることは自分でもよく承知している。危険の原因もよく承知している。にもかかわらず、海は海であり、溺れかけている人間は溺れるのだ。

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