- 作者: 西原理恵子
- 出版社/メーカー: 理論社
- 発売日: 2008/12/11
- メディア: 単行本
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内容紹介
西原理恵子が「カネ」を通して自らの生き様と理念を語る初の自伝的エッセイ登場!
故郷での貧しさゆえの八方ふさがりの生活。東京に出てきて学校に通いながら自分の絵を出版社に持ち込み次第に認められて行く。そしてギャンブル、アジアへの旅で出会った貧しい子ども達、大切な家族の事。
「お金」について考える事は人間関係・仕事関係、つまり自分と世界との関わりにつながっていくのです。
漫画で描かれた西原ワールドがより深く・よりリアルに迫って来る1冊。
西原ファンならずとも納得・感動の1冊です!
僕はずっと、「金にこだわる人生は汚い」というような価値観を持って(なのか、刷り込まれて、なのかはいまとなってはよくわからないのですが)、生きてきました。
父親が飲み屋での散財自慢をしたり、外車を乗り回したりするのが嫌で嫌でしょうがなかった。
「成金」ってみっともない、と思っていました。
そんな僕が「金」について、考え直すきっかけになったのは、高校時代に寮で貪るように読んだ本の最初のほうに書かれている、こんな言葉でした(いま手元にその本がないので、記憶で書きます。概略はこんな感じだったと思うのですが)。ある父親が自分の息子に言った言葉。
「お金は必ずしも卑しむものではない。お金さえあれば嫌なやつに頭を下げなくて良いことも多いのだから。」
ちなみに、これを言った人は、ヤン・タイロン。言われた人は、のちの「不敗の魔術師」ヤン・ウェンリー。
お金というのは、「拝金主義」に陥ったり、「お金の力で他人を抑圧」したりすることにつながる、と思っていた当時の僕にとって、これは、すごくインパクトがある言葉だったのです。
たしか、ヤン提督には、のちに養子のユリアン・ミンツに、こんなことを言っています。
(新婚のヤンの元を離れて、地球に潜入することにしたユリアン。ヤンからの餞別を「お金なんていりませんよ」と断るユリアンに)
「あって邪魔になるものじゃないし、お金があれば避けられるトラブルっていうのはけっこうあるんだ。ユリアン、私が親としてお前にしてやれることはこのくらいだから、もらってくれないか」
僕は『銀河英雄伝説』にハマっていた頃の自分を「中二病」だったように語ってしまうことが多いのだけれど、『銀英伝』が僕に教えてくれたものは、けっして少なくないのですよね。
そういえば、いまでも誕生日になるたびに、「何の悪いこともしていないのに、なんで3●歳にならなきゃいけないんだ!」とか思うしなあ。いつの間にか、僕もヤン提督より長生きしてしまっていることよ。
いまから考えると、当時の僕はそのくらいのこともわからない「子供」であり、両親は僕を「保護」してくれていたんだなあ、と気恥ずかしくなるのです。
この西原さんの『この世でいちばん大事な「カネ」の話』を読みながら、そんなことを考えずにはいられませんでした。
この本を書店で最初に見かけたとき、僕は購入するのをちょっとためらったんですよね。
それは、この本にはたくさんルビがふってあって、明らかに「子供向け」に見えたから。
実際に読んでみると、「子供向け」というよりは、「とくに子供のときに読んでほしい」という西原さんの気持ちが伝わってきました。
読んでいて、いろいろと言いたいことはあるんですよ。
やっぱりこれは、「成功者・西原理恵子」の「努力自慢」なのではないか、麻雀にハマってすごい金額を失い続けたときの話も、「結果オーライ」なだけではないか、とかね。
『西原理恵子の言葉』(レジデント研究資料)
この世でいちばん大事な「カネ」の話(幻想の断片)
この世でいちばん大事な「カネ」の話(ザウエリズム 【Zawerhythm】)
この本には、↑に挙げたような素晴らしいレビューがたくさんありますので、僕が言うべきことは、もう残っていないのではないかと思います。
でも、ひとつだけ僕の心に強く響いたところを御紹介しておきます。
貧乏人の子は、貧乏人になる。
泥棒の子は、泥棒になる。
こういう言葉を聞いて「なんてひどいことを言うのだろう」と思う人がいるかもしれない。でも、これは現実なのよ。
お金が稼げないと、そういう負のループを断ち切れない。生まれた境遇からどんなに抜け出したくても、お金が稼げないと、そこから抜け出すことができないで、親の世代とおんなじ境遇に追い込まれてしまう。
負のループの外に出ようとしても「お金を稼ぐ」という方法からも締め出されてしまっている、たくさんの子どもたちがいるんだよ。前にも言った。「貧困」っていうのは、治らない病気なんだ、と。
気が遠くなるくらい昔から、何百年も前から、社会の最底辺で生きることを強いられてきた人たちがいる。
屋台をひいて、子どもたちを養っているお父さんとお母さん。ふたりが一日中、必死で働いても、稼ぎからその屋台の「借り賃」を払ったら、残りはほんのわずか。そのわずかなお金でできることと言ったら、その日その家族が食べる、一食ぶんのご飯を手に入れることだけ。それでおしまい。
それじゃ、いつまで経っても貧乏から抜け出せるわけがない。それで何代も何代も、貧しさがとぎれることなく、ずーっとつづいていく。
そうなると、人ってね、人生の早い段階で、「考える」ということをやめてしまう。
「やめてしまう」というか、人は「貧しさ」によって、何事かを考えようという気力を、よってたかって奪われてしまうんだよ。
貧困の底で、人は「どうにかしてここを抜け出したい」「今よりもましな生活をしたい」という「希望」を持つことさえもつらくなって、ほとんどの人が、その劣悪な環境を諦めて受け入れてしまう。
そうして「どうで希望なんてないんだから、考えたってしょうがない」という諦めが、人生の教えとして、子どもの代へと受け継がれていく。
西原理恵子さんと『100万回生きたねこ』(『活字中毒R。』2007年8月16日)
↑で引用させていただいた『ダ・ヴィンチ』のインタビューのなかで、西原さんはこんなことを仰っておられます。
そして、鴨志田さんの生き方は、『100万回〜』のラストとも重なる気がするのだという。
「とらねこが”負のスパイラル”を絶って死んでいった、とも読めるんですよね」
アルコール依存症だった鴨志田さん。一度は離婚して家を出たが、施設に入り、克服。亡くなるまでの半年間はもう一度、西原さんと子供たちと共に暮らすことができた。
「家に戻ってきたときは、『子供に渡すことなく自分の代で、アルコール依存症のスパイラルを絶つことができた』ってすごく喜んでいましたね。ちゃんと人として死ねることがうれしいって。鴨志田の親はアルコール依存症だったから。負のスパイラルについては、ふたりでよく話し合っていた。生い立ちが貧しいっていう自覚がお互いにあって。また貧困家庭を作ってしまうんじゃないか、と私もずっと心配だった。だから、とにかく仕事をしてお金を稼ごう、とずっと思っていた」
西原さんは、「お金を稼ぐこと」によって、自分の人生の「負のスパイラル」と必死に闘ってきたのだなあ、と、あらためて考えさせられます。
この本のタイトルは、『この世でいちばん大事な「カネ」の話』だけれど、西原さん自身は、本当はそう思ってはいないはず。
でも、「世の中カネじゃない」って信じられるのは、「カネがある人間」の特権なんだよね。「カネ」がなければ、本当に大事なものを守りたくても守れないことが多すぎるから。
そして、人間が「生まれつきの階層」みたいなものから逃れるための、いちばんの力が、「カネ」であることは間違いないと思う。
そういえば、うちの父親は落武者が住んでいたとかいう山奥の寒村の生まれで、「お前が医者になるために、親父は土地を売ったんだ」と兄弟にずっと言われ続けていたそうだ。
医者になってから、外車を乗り回し、ギャンブルや飲み屋で散財して「成金」を演じていたのは、結局のところ、自分の「階層」みたいなものから抜け出したくてもがいていたんじゃないか、という気がする。それが「正しいこと」かどうかは別として。
いわゆる「上流階級」の人たちは「成金」をバカにするけれど、いまの日本で、いや世界で、自分が生まれた階層から逃れるには、「カネ」というのは、もっとも手っ取り早い道具なのだ。
そもそも、よっぽどスポーツや芸能の才能に恵まれないかぎり、「カネ」以外の「蜘蛛の糸」は無いのかもしれない。
幼年時代から苦労を重ねたこともあり、Aは人情家であった。若い者が訪ねてくると、Aは決まって「メシを食ったか」と尋ねる習慣があった。少年・青年時代、満腹感を抱くことが少なかったAだからこその、温もりのある言葉である。Aが人望を集め、高い人気を誇ったのは、その根拠に血の通った人間臭さがあったからであろう。
Aの人身掌握術は天性のものだったかもしれないが、苦労によって磨きもかけられた。一方、Aの官僚操縦術は、昭和20年代に数々の議員立法を手がけたことによって習得されたものだといえる。昭和30年の国会法改正前までは、議員は1人でも法案を提出することができ、その数はきわめて多かったが、実際に成立したものは少ない。しかし、Aはみずから政策の勉強を重ねて低学歴のハンディキャップを克服し、先輩・同僚議員や官僚への根回しを行いながら、道路三法など実に30本以上の法律を成立させている。
もちろん、人心を掌握するため、人一倍、カネも使った。正確にいえば、苦労人のAにとり、カネこそみずからの気持ちを表現する数少ない手段のひとつだったのかもしれない。首相に就任したとき、ある祝賀会で小さな女の子から花束を贈呈されて感激したAは、すぐにその場で財布から一万円札を取り出して渡したという。周囲は驚いたが、それが「A」であった。「政治は数であり、数は力、数はカネ」との台詞からも、「A」が透けて見える。
この「A」って、誰のことだかわかりますか?
そう、この「A」は、故・田中角栄元総理。
子供の頃の僕なら、この話を「カネの亡者の哀れな話」として笑い飛ばしたかもしれません。
でもね、あれだけの苦労人が、最後に「切り札」として認めたのが「カネ」だったという現実は重いものだと思う。
いま、これを書きながら、僕が「成金」の父親を嘲り、「世の中カネじゃない」と信じることができるような子供時代を送ってきたことは、実は、親としては「本望」だったのではないか、という気がしてきたのです。
それは、「階層」をひとつ上った、ということの象徴なのだろうから。
息子にも、いつかさりげなく読ませたい本です。
でもなあ、僕がこれを素直に読めるのは、『恨ミシュラン』『はれた日には学校をやすんで』『怒涛の虫』くらいから、ずっと西原理恵子という人をリアルタイムで見てきたからで、そうではない子供に「伝わる」のか、僕には正直よくわからないのだけどさ。
最後にひとつ、すごく考えさせられたエントリを御紹介して終わりにします。「親から子供に受け継がれるもの」について。
私ががんばったんじゃない,親がよかっただけだ(invisible-runner 2008/12/25)