僕は基本的に、コメントに対して返信するのを好みません。
泥沼化しがちだし、本来の論旨とは違った、揚げ足のとりあいみたいになりがちなので。
ですから、idコールやトラックバックに対しても、ほとんどスルーしています。
でも、このid:PledgeCrewさんのコメントについては、きちんとお答えしておこうと思いますので、ひとつエントリを使わせてください。
村上春樹さんの「エルサレム賞」受賞に、一ファンとして言っておきたいこと(琥珀色の戯言(2009/1/27))
↑のエントリのコメント欄より。
PledgeCrew
2009/01/29 07:18
こんにちは。ブクマからIDコールを送らせてもらったものです。上の方は、今回の授賞が、村上春樹の作品がイスラエルの多くの人の心に響いたことを示すものだとおっしゃっていますね。彼の作品は、世界中で読まれていますから、イスラエルにもおそらく多くの読者はいることでしょう。日本人もイスラエル人もパレスチナ人も、「読者」としては等価なのもその通りです。
おそらく、今回の授賞を決めた人々も、彼がイスラエル国内に多くの読者を持っていることを考慮したのだろうと思います(詳しいことは知りませんが)。しかし、授賞を決めたのは、あくまでも「選定委員会」の人たちであって、一般の読者ではないでしょう。
それがどういう人たちなのかは知りません、またどういう過程で、彼への授賞が決まったのかも知りません。しかし、政治的なことも含めて、そこにいろいろな思惑があるのではと推測することは、必ずしも邪推ではないのではと思います。かつて、ソンタグのような例があったとすれば、なおのことです。
ブクマにも書きましたが、言葉によって行うスピーチは、言葉を武器とする作家にとっては、けっして無意味なものではありません。授賞式でのスピーチは、単なる即席の記者会見でもパフォーマンスでもありません。「大逆事件」の判決に対する抗議として徳富蘆花が行った「謀叛論」という講演などは、むしろ彼の「小説」以上に有名であり、今日でも読まれています(作家としてはあまり名誉なことではないかもしれませんが)。
むろん、作家の中にも、そのように直接聴衆に語りかけるのは苦手だという人はいるでしょう。それは分かります。しかし、彼が自己の意思で授賞式に出席するなら、そのことから逃げるわけにはいきません。ガザで現に振るわれている暴力に対して、たとえ明示的ではないとしても、自分の姿勢を明らかにすることは、けっして避けて通れない、また避けてはいけないことだと思います。
おそらく、そのことは世界中の多くの彼の読者らも見守っているのではないかと思います。問題は、「パレスチナ問題」に関する政治的アピールでも、政治的立場の表明でもありません。世界の中で現実に振るわれている人間性に対する暴力に対し、文学者としてどういう立場を取るのかということが問われるのだと思います。
むろん、それはソンタグのような激烈な弾劾演説である必要はありません。文学者に即効的な影響力を期待すべきではないのもそのとおりです。しかし、今現に暴力にさらされている人たちに対して、何らかの勇気や希望を与えることができるのなら、彼がそのような言葉を発することを私は望みます。
ちなみに、私は彼の作品はほとんど読んでいます。もっとも、どちらかというと息子の方がファンのようですが。
PledgeCrew
2009/01/29 08:06
すみません、一点だけ追加です。今、世界のあちこちで暴力に晒され、最も希望を必要としている人たちというのは、海外で翻訳され出版されている村上春樹の「作品」を手に取り、読むような余裕などない人たちがおそらくほとんどでしょう。むろん、ガザの人々もそうです。
だからこそ、授賞式典でのスピーチのような機会には、そういう人たちにも伝えることができる言葉が求められるのだと思います。
PledgeCrewさん、はじめまして。真摯なコメント、ありがとうございました。
非常に興味深く読ませていただきましたし、勉強にもなりました。
『エルサレム』という名前とその土地の「意味」を考えると、この賞を受けることの意味について、考えざるをえませんね……
ただ、今回の受賞に関しては、おそらく事前に村上さん側に打診があったのではないかと思いますし、それを「拒否」ではなくてあえて受けることにされたのは、村上さんにもなんらかの考えがあるのではないでしょうか。
いちばん無難なのは、「受賞拒否」であることは間違いないですから。
村上さんは、何年か前に「フランツ・カフカ賞」を受賞されたとき、「もともと文学賞なんてものには興味がないけど、敬愛するカフカの名前がついた賞なのでいただくこととしました」と仰っておられた記憶があります。そのときには、「これで『ノーベル文学賞』もいけるのではないか」と、にわかに世間も盛り上がっていましたね。
そんな村上さんが「エルサレム文学賞」なんて「厄介な」賞を受けることを決められたのは、単に「もらえるものはもらっておけ」というような理由ではないはずです(村上さんの奥様やスタッフは、たぶん積極的にイスラエル行きに賛成はされなかったでしょうから)。
おそらく、「村上春樹として受賞することの意味」を考えつくしての決断のはず。
もちろんそれは、「選定委員会云々」という要素も含めて、です。
僕は村上さんが現地でスーザン・ソンダクのようなスピーチをするとは予想していませんし、そういうのを「強要」する人には不快感を抱いています。人にはそれぞれ自分にあったやりかたがあるはずですから。
村上さんは村上さんのやりかたで何かメッセージを発信されるでしょうし、それを確認してからリアクションを起こしてもいいじゃないですか。
作家というのは、いろんな「願い」や「期待」を投影される存在であることは間違いありませんし、それはひとつの「宿命」みたいなものでしょう。そういうものを背負えない人は、作家としては生きていけない。
でも、「願い」や「期待」と、「○○しなければお前は大量殺戮の共犯者だ」などと「恫喝」あるいは「脅迫」されるのは別です。
僕が「長澤まさみさんと結婚したいっ!」と悶えるのは「ファンとしての権利の範疇」ですが、長澤さんに「僕と結婚してくれないと、あなたは殺人犯だと認定するっ!」というのは、「行きすぎ」でしょう?
だから僕は、「村上春樹に受賞スピーチでいま、イスラエルで起こっていることについて訴えてほしい」と願っている人たちには、何の違和感も嫌悪感もありません。僕の「そういうのは村上さんらしくない」という気持ちも、ひとつの「願望」であるという点では全くの等価ですから。
すみません、一点だけ追加です。
今、世界のあちこちで暴力に晒され、最も希望を必要としている人たちというのは、海外で翻訳され出版されている村上春樹の「作品」を手に取り、読むような余裕などない人たちがおそらくほとんどでしょう。むろん、ガザの人々もそうです。
だからこそ、授賞式典でのスピーチのような機会には、そういう人たちにも伝えることができる言葉が求められるのだと思います。
これは本当に重要な指摘ですし、「文学の無力」を僕もよく感じます。
いま、ガザで虐げられている人たちには、「村上春樹の小説」は、「高等遊民の玩具」でしかないのかもしれませんね、というか、たぶんそうなのではないかと。
村上春樹の小説の世界を噛み砕く余裕があるのは、というか「娯楽あるいは教養として本を読む」というのが可能な立場にある人は、世界的にみれば、まだまだ「恵まれた階層」なのでしょうし。
それでも、僕はそういう「高等遊民」からでも、村上作品のエッセンスが世界に広まっていくのは、プラスになると信じているんです。
少なくとも、それが存在しないよりは。
そして、スピーチの件なのですが、これについての僕の考えは、「スピーチで本を読まない人たちにも伝わる」というのは、諸刃の剣だと思うんですよ。
「日頃村上作品を読まない人たちに伝わること」は、「そのスピーチの内容だけで、村上春樹という人を認識させてしまう」というリスクを伴っています。麻生さんの演説でもそういうことがありましたが、スピーチというのは、映像として配信される際の編集次第で、全く正反対の内容になってしまう可能性を持っています。村上さんの著作を読んでいる人なら誤解しなくても、全く無関心だった人は、その編集された内容だけで、「村上春樹はこういう人間だ」と思ってしまうかもしれません。
村上さんが政治家であれば、そういうリスクも甘んじて受け入れざるをえないのでしょうが、村上さんは小説家です。人は、「大事なことは、自分にとっていちばんやりやすい、自信がある方法で伝えたい」と考えるのがもっとも自然でしょうし、それは、村上さんにとっては「小説」なのではないかと。
村上さんは、「言葉の怖さ」を十分に理解している人なので、スピーチという「自分にとって不十分な方法」で大事なことを語るのは、本意ではないと思います。
最後にひとつ。
これは一ファンとしての気持ちなのですが、僕は本当は村上さんにイスラエルに行ってほしくないんです。だって、危ないから。
スーザン・ソンタグは無事に帰国できたようですが、戦争状態の国で、その国の政策を批判するというのは、どう考えてもリスクが高い。
村上さんはそれを覚悟の上で「何か」を伝えるためにイスラエルに行こうとしているのに、「イスラエルでわかりやすい抗議行動をやって見せないと許さない!」って後ろから銃をつきつけるのって、あまりに非情な行為ではないでしょうか。村上春樹さんだって、同じ人間ですよ?何の権利があって、そんな危険な行為を他人に強要できるのか。
僕にとって村上春樹さんは大事な人なので、そんな「政治的な主張」のためにイスラエルに乗り込むよりも、安全なところ(では、どこが安全か?というのは議論が分かれるところでしょうが)で新しい小説をどんどん書いていてほしいです、本音としては。