琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

ある村上春樹ファンによる、エルサレム賞受賞スピーチ全文和訳

参考リンク:「わたしは常に卵の側に立つ」(琥珀色の戯言)

村上春樹さんのエルサレム賞受賞スピーチ(の草稿)の全文が『HAARETZ』紙に掲載されていますので、それを僕なりに訳してみました。
もともと英語は苦手なのですが、この文章に関しては、可能な限り自分で近づいてみたかったので。

『HAARETZ』紙に掲載された村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチ(の草稿)全文


村上春樹: 常に卵の側に(はてな匿名ダイアリー)
村上春樹スピーチ全文和訳Ver.1.2(しあわせのかたち)
以下の日本語訳は、上記の2つのエントリを参考にさせていただきました。
……というか、参考どころか、「そういうふうに訳すのがベストだ」と判断した際には、そのまま使わせていただいています。ありがとうございました。

あと、この訳文についていくつか。
(1)かなり意訳になってしまっていて、あまり「テキストに忠実」ではありません。翻訳者としての村上さんや柴田元幸さんが読んだら、間違いなく「もっとテキストに沿って訳すように」と仰るはずです。とりあえずこれが僕の語学力の限界。内容が明らかに間違っているところがあれば、御指摘ください。「細かい文法ミス」は、大目にみていただけると助かります。
(2)「全文読まなきゃ」って言っている人も多いのですが、「日本人にとっての英語」というのは、それだけで「100%ニュアンスまで理解するのは困難なシロモノ」だと僕は考えています。
(3)以前、米原万里さんが、翻訳者のピットフォールとして、「自分の考えと正反対のことを言っている人の話は冷静に訳せるが、自分に近い考えの人の話は、ついつい、「自分の意見に引き寄せて訳してしまうことがある」と仰っていました。この訳にもその傾向があるかもしれません。


いつも卵の側に

By Haruki Murakami


僕は小説家として今日エルサレムに来ました。
小説家として、というのは、プロの嘘つきとして、ということでもあるのですけど。

もちろん、小説家だけが嘘つきなのではありません。
みなさんも御存知のように、政治家もまた嘘をつきます。
外交官や軍人も時と場合によって、彼らの職務に応じた嘘をつきます。
中古車セールスマンや肉屋、建築家もそうですね。
ただ、小説家の嘘がその他の職種の人たちの嘘と違うのは、小説家は嘘をついても不道徳だと責められないことです。
実際に、より大きく、質の良い嘘であればあるほど、小説家は読者や批評家たちから称賛されるようです。
どうして小説家の場合は、嘘が称賛の対象になるのでしょうか?

僕の答えはこうです。
よく練られた嘘(読者に、そこにある真実だと思わせるような物語)を創り出すことにによって、作家は「真実(実際にそこにあるもの)」にいままでとは違う位置づけをして、新たな角度から光を当てることことができるから。
多くの場合、「いま、実際にそこにあるもの」をそのままの形で正しく認識し、具体的に描くことは非常に困難なのです。
そういうわけで、私達は、隠れ家から真実をおびき出し、それを虚構に転換し、物語という形式に変えることで、その尻尾だけでも捕まえようとしているのです。
しかし、これを執り行うためには、まず、私達に内在している真実のありかを確かめなければなりません。
これは、良質の物語を創るための要件なのです。

でも今日は、嘘をつくつもりはありません。できるかぎり正直であろうと思います。1年のうちに嘘をつかない(小説家としての仕事から離れる)のは数日しかありませんが、今日はその日のうちの一日なんです。

それでは、本当の話をしましょうか。
かなり多くの人々が、僕に、イスラエルエルサレム賞を受け取らないほうがいいよ、とアドバイスしてくれました。
もし僕がここで賞を受けたら、僕の著書のボイコット運動をすると警告してきた人たちさえいました。
この理由はもちろん、ガザで荒れ狂っていた激しい戦いでした。
千人以上の人々が封鎖されたガザで命を落としたと、国連のレポートにはあります。
彼らの多くは、子どもや高齢者を含む一般市民だったのです。

授賞の報せから、何回自分に問いかけたことでしょうか。
こんな時にイスラエルを訪問し、文学賞を受け取る事が適切なのか?
紛争当事者の一方につく印象を与えるのではないか?
圧倒的な軍事力を行使することを選んだ国の政策を是認する事になるのではないか?
こんな印象を与えることを、もちろん僕は望んでいません。
僕はいかなる戦争にも賛成しませんし、どんな国も支援しません。
もちろん、自分の本に対するボイコット運動が取り沙汰されるのも勘弁してほしいのですけれども。

よく考えに考えた末、最終的に、僕は、ここに来ることを決心しました。
その理由のひとつは、あまりにも多くの人々が私に、そうしないように勧めたことでした。
おそらく、多くの他の作家のように、僕は、「あまのじゃく」なんです。
「そこに行かないでください」「それをしないでください」と言われると、僕は、「そこに行きたく」なり、「それをしたく」なる。
僕はそういう人間なんです。そして、「小説家ってそういうもの」なのかもしれません。
小説家というのは、「普通じゃない」人種なのです。
自分の目で見たものか、自分の手によって触れたものだけしか、心から信頼することができないのです。

そういうわけで、僕はここにいます。
僕は、遠く離れた場所にいるよりもここに来ることを選んだのです。
見ないよりも、自分の目で見て、確かめることを選んだのです。
沈黙することよりもあなたたちに語りかけることを選んだのです。

政治的なメッセージを伝えるために、僕はここに来たんじゃないのですよ。
「正しいこと」と「間違っていること」についての判断を示すのは、小説家のもっとも大事な役割のひとつだから来たんです。

しかしながら、こうした判断をどのように他の人に示すかを決めるのはそれぞれの作家の領分です。僕自身は、その判断を物語の形で示すのを好みます(現実には起こりそうもないものになりがちですが)。ですから、今日みなさんの前で、直接的な政治に関するメッセージをお話するつもりはありません。

にもかかわらず、ひとつのとても個人的なメッセージをお届けするのをどうかお許し下さい。
これは僕が小説を書く時にいつも心に留めている事です。努力目標としてこれみよがしに壁に貼るようなことはしたことがありませんが、これは、僕の心に深く刻み込まれていることなんです。

「高く堅固な壁とひとつの卵があって、壁にぶつかっていった卵は割れる。そんなとき、僕はいつも卵の側にいる」

どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側にいます。正しいこと、まちがっていることを決める必要がある人もいるのでしょうが、おそらく、それを決められるのは時間か歴史だけでしょう。
いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、そんな作品に何の価値があるのでしょうか?

この隠喩の意味は何ですか?
いくつかのケースにおいては、それはとても単純かつ明白です。
爆撃機と戦車とロケットと白リン弾はその高く、固い壁です。
卵は、それらによって押しつぶされ、焼かれ、撃たれる、武器を持たない一般市民です。
これらは、この隠喩の意味のひとつです。

でも、それがすべてじゃありません。
もっと深い意味があるんです。
こういう方法で考えてみてください。
私達は、それぞれ多少の違いがあるにせよ、ひとつの卵です。
そして、壊れやすい殻に包まれた唯一無二の、かけがえのない存在です。
これは、僕にとっての真実であり、みなさんそれぞれにとってもそのはずです。
そして、壁そのものに多少の違いはあるとしても、それぞれが高く固い壁に直面しています。その壁には名前があります。それはシステムです。システムはもともと、私たちを護るためのものですが、ときにはそれ自身が意志を持ち、私たちを殺したり、私たちが他者を殺すための理由となったりし始めるのです。冷酷に、効率的に、組織的に。

僕が小説を書く理由はひとつだけです。
人間ひとりひとりの尊厳を描き出し、それに光をあてる事です。
物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、警報を鳴らし続け、システムを検証し続ける事です。
僕は小説家の役割について、物語(それは生と死の物語であったり、愛の物語であったり、悲しみや恐怖や笑いを生み出す物語をであったりします)を創り出すことによって、唯一無二の存在である、人間ひとりひとりの尊厳を明らかにすることだと確信しているのです。
だから、僕たち小説家は、真剣に、虚構である物語をつくり続けているのです。

僕の父は、昨年90歳で死にました。
彼は引退するまでは学校の先生で、実家の寺の住職としての仕事も時々やっていました。
彼は大学院在学中に徴兵を受け、中国に派兵されました。
戦争の後で誕生した子供である僕は、毎日朝食の前に、仏壇の前で長く深い祈りを捧げている彼を見ていたのです。
僕は彼に、どうしてそんなことをするのかと尋ねたことがあるのですが、彼は僕に、戦争で死んだ人々を供養しているのだと言っていました。
自分の国と同盟国、敵国のすべての戦死者たちを等しく供養しているのだ、と。
仏壇の前でひざまずいた時の彼の背中を見つめていると、僕は、彼の周りに漂っている死の影を感じずにはいられませんでした。

父は死に、彼自身の記憶と、僕が決して知ることができなかった彼の心のうちは、もう手の届かないところに行ってしまいました。
それでも、彼につきまとっていた死の存在感は、僕の記憶にとどまっています。
それは、私が彼から受け継いだいくつかのもののひとつであり、最も大事なもののひとつでもあるのです。

僕が今日みなさんに伝えたかった事は、ひとつだけです。
私たちは誰もが人間であり、国籍・人種・宗教を超えたひとりの人間、個人です。そして、私たちはシステムと呼ばれる強固な壁の前にいる壊れやすい卵です。どうみても勝算はなさそうです。壁は高く、強く、あまりにも冷酷です。もし勝つための方法があるとすれば、それは自分自身と他者の生が唯一無二であり、かけがえのないものであることを信じ、お互いを尊重しあうことによって得られたぬくもりから得られるものでしょう。

ちょっと考えてみて下さい。私たちはそれぞれ、目に見え、手で触れることができる、生身の人間です。
システムはそんなものではありません。
ですから、システムが私たちをないがしろにするのを許してはいけません。
システムが暴走するのを許してはいけません。
システムが私たちを作ったのではないのです。
私たちがシステムを作ったのです。

僕の話はこれでおしまいです。

エルサレム賞をいただき、感謝しています。
世界の多くの地域で僕の本が読まれた事にも感謝しています。
そして、今日みなさんにお話できる機会を頂いて、とてもうれしく思っています。


拙訳お目汚しでした。

こうして、原文を僕なりに読んでみて、2つ驚いたところがあったのです。

そのひとつめは、この文章の重要なポイントのひとつである、以下の部分。

This is not all, though. It carries a deeper meaning. Think of it this way. Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall. The wall has a name: It is The System. The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others - coldly, efficiently, systematically.

拙訳では、

でも、それがすべてじゃありません。
もっと深い意味があるんです。
こういう方法で考えてみてください。
私達は、それぞれ多少の違いがあるにせよ、ひとつの卵です。
そして、壊れやすい殻に包まれた唯一無二の、かけがえのない存在です。
これは、僕にとっての真実であり、みなさんそれぞれにとってもそのはずです。
そして、壁そのものに多少の違いはあるとしても、それぞれが高く固い壁に直面しています。その壁には名前があります。それはシステムです。システムはもともと、私たちを護るためのものですが、ときにはそれ自身が意志を持ち、私たちを殺したり、私たちが他者を殺すための理由となったりし始めるのです。冷酷に、効率的に、組織的に。

としたところです。

僕が驚いたのは、ここで村上さんが、

The wall has a name: It is The System.

と、明言されたことでした。

おそらく、いままでの村上春樹であれば、そこに作者がどんな意味をこめていようとも、The wall is wall.”だったと思うのです。
ここまで親切に、キーワードの「説明」をする村上さんを、僕は見たことがありません。
自分の作品世界を「解説」したり、読者に先入観を与えるのを嫌う作家だというのが僕のイメージだったので。

読者以外の人にも届くことを想定してなのかもしれませんが、これはとても「村上春樹らしくない」姿勢だと感じています。
でも、そのことを僕は批難するつもりはなくて、そこまで「理解されようという努力をしている村上春樹」の変化に驚きましたし、感慨深くもあったのです。
「これまでの文学的なポリシー」を捨ててまで、ここで「少しでも伝わるように語ること」を選んだのか、と。

しかしながら、この「The System」については、わかりやすいがゆえに、(意図的に、あるいは無意識に)狭い意味でしか解釈されなかったり、誤解されたりしているところもあるように思われます。
最初にニュースで流れたときには、これは「制度」だと訳されていました。
それはもちろん「誤解」ではないのですが、「制度」というのは、この「The System」に含まれるさまざまな要素のうちのひとつでしかありません。
もちろん、イスラエルという国やその軍隊は、「The System」のひとつです。
でも、村上さんは「もっと深い意味がある」と仰っておられます。
(「深い」という言葉を使うと、イスラエルの問題は「浅い」のか?という方々がいらっしゃると思うので、ここは「深い」ではなく「広義の」という訳のほうが適切かもしれませんね)

以下はいままでの村上作品を読んできた上での僕の解釈なのですが、この「The System」というのは、国家であり、その制度(社会制度・政治制度)であり、その「民族性」であり、ある種の集団による「同調圧力」であり、もっと広くいえば、「世間の常識だと考えられているもの」でもあります。
ですから、これは国家による政治的・軍事的な「弾圧」に限定した話ではないのです。
個人に対して、集団で「○○しないヤツは敵だ!」「人間なら××すべきだ!」と圧力をかける「壁」も世の中にはたくさん存在しています。
もうひとつ大事なのは、村上さんは、「The System」を全否定しているわけではない、ということです。
それが「わたしたちを護るもの」であることもまた、村上さんは認めています。
「システムだけが暴走して、個人の意思や尊厳が踏みにじられていくこと」を懸念しておられるのです。
「国家」というのはひとつのシステムですし、戦争というのもまたひとつのシステムです。
システムの怖さというのは、それに一度組み込まれてしまうと、自分の意思を失ってしまう、あるいは、システムこそが自分の意思であると思い込んでしまうところにあります。
以前、ブックマークコメントに、「ガザで戦闘に加わったイスラエル人には、村上春樹の読者はいなかったのか?」と問いかけてきた方がいらっしゃいました。
そのときは、「こんな愚問につきあってやるほど暇じゃねえや」と思って無視したのですが、良い機会なので答えておきます。
イスラエルでの村上春樹の人気を考えたら、読者がひとりもいないほうがおかしい」ですよ。

レマルクという有名なドイツの作家がいます。
彼は1929年に『西部戦線異常なし』という戦争小説を書きました。
この作品は「反戦小説」として読まれ、世界中で大ベストセラーになったのです。
でも、世界はその後、第二次世界大戦へと向かっていきました。

第二次世界大戦に参加した兵士たちには、この『西部戦線異常なし』を読んだ者はひとりもいなかったのか?
そんなわけありません。
じゃあ、彼の作品は「無意味」だったのか?
僕はそうは思わないのです(というか、そう信じています)。

どうも誤解したり曲解したりしている人がいるみたいだけれども、どんな戦争においても、一兵卒のレベルでは、「戦争なんてイヤだ」という人が、たくさんいるはずです。そりゃあ、勝っている側のほうが負けている側よりは少しはマシなのかもしれませんが、それでも、「好きこのんで人殺しをしたい人」なんてそんなにいないはずですよ。
でも、殺されるのが怖いから、臆病者だと指差されるのに耐えられないから、彼らは「戦わなければならない」。
考えなくてはならないのは、『西部戦線異常なし』を読んで、戦争なんてイヤだと思っている一般市民が、それでも戦場に行って人殺しをしなければならない「世界の仕組み」のこと。
その「仕組み」こそが、暴走した「The System」なのです。
それは、国やその政策だけではなく、マスコミや近所の噂話までを内包しているものです。

もうさんざん引用しているので、このブログをずっと読んでくださっている方々は聞き飽きたと思うのですが、村上春樹さんは、「小説の役目」について、こんなふうに仰っています。

『約束された場所で』というオウム信者たちへのインタビュー集を読んだ読者からの、「オウム信者の人たちは、この世の中に『忘れられた人々」であり、オウムというのは、彼らにとっての『自分たちだけの入り口』だったのではないか?」と問いに対する回答。

村上春樹さんの回答>

 我々はみんなこうして日々を生きながら、自分がもっともよく理解され、自分がものごとをもっともよく理解できる場所を探し続けているのではないだろうか、という気がすることがよくあります。どこかにきっとそういう場所があるはずだと思って。でもそういう場所って、ほとんどの人にとって、実際に探し当てることはむずかしい、というか不可能なのかもしれません。

 だからこそ僕らは、自分の心の中に、あるいは想像力や観念の中に、そのような「特別な場所」を見いだしたり、創りあげたりすることになります。小説の役目のひとつは、読者にそのような場所を示し、あるいは提供することにあります。それは「物語」というかたちをとって、古代からずっと続けられてきた作業であり、僕も小説家の端くれとして、その伝統を引き継いでいるだけのことです。あなたがもしそのような「僕の場所」を気に入ってくれたとしたら、僕はとても嬉しいです。

 しかしそのような作業は、あなたも指摘されているように、ある場所にはけっこう危険な可能性を含んでいます。その「特別な場所」の入り口を熱心に求めるあまり、間違った人々によって、間違った場所に導かれてしまうおそれがあるからです。たとえば、オウム真理教に入信して、命じられるままに、犯罪行為を犯してしまった人々のように。どうすればそのような危険を避けることができるか?僕に言えるのは、良質な物語をたくさん読んで下さい、ということです。良質な物語は、間違った物語を見分ける能力を育てます。

「小説」そのものが戦争を防ぐことは難しいのだと思います。
でも、「良質の小説に触れることによって、暴走したシステムが造り出す『危険な物語』を判別できる人」が増えれば、破綻を未然に防ぐことができるのではないかと僕は考えています。というか、その可能性を信じたい。


そして、もうひとつ僕が驚いたのは、「村上春樹が、自分のルーツのひとつとして『父親』のことを語った」ことでした。
村上さんの小説は、よく「父親不在」だと言われます。
たしかに、村上さんの小説の登場人物には、「父親」が存在するものが極めて少ない。
海辺のカフカ』には出てきますが、「敵役」としてです。

村上さんのお父さんは国語教師で、村上さんもその影響で三島由紀夫川端康成などの日本の文学作品もかなり読まれたそうです。
ところが、「僧侶であり、国語教師だった父親」を持つ村上春樹が「自分の居場所」として選んだのは、アメリカ文学の世界でした。
そこにはある種の「屈折」を感じますし、その一方で、父親から受け継いだ「死者への親しみ」は村上春樹の重要なモチーフでもあるのです。
いままで、公の場でほとんど御両親のことを語らなかった村上さんが、こうして「父親のこと」を率直に語っておられたのは、僕にとってはすごく意外なことでした。
そして、父親に親しみとわだかまりを併せ持つ人間である僕にとっては、「壁と卵」の話と同じくらい、心を揺り動かされる話だったのです。
ご尊父が亡くなられたこともまた、「村上春樹の心境の変化、世界とのコミットメントのやりかたの変化」に影響しているのかもしれませんね。

僕はここで、村上さんがご尊父のことを指して使っている”he”を「彼は」と訳しました。
そのほうが「村上春樹らしい」と思ったから。
でも、あらためて考えてみると、このスピーチに関しては、素直に「父は」と訳してもよかったのかな。


こんなに長い文章を、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
最後にひとつだけ、僕からも個人的なメッセージを。
僕がこうして僕なりに力を尽くして村上春樹という人の作品を紹介したり、スピーチを訳したりしているのは、それが僕のとっての「世界を変えるためのささやかな闘い」だからなのです。
そう見えない人には見えなくてもしょうがないし、自分でそんなことを言葉にするのも恥ずかしいのですが、ここであえて言及しておくことをお許しください。

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