- 作者: 阿部彩
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2008/11/20
- メディア: 新書
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内容(「BOOK」データベースより)
健康、学力、そして将来…。大人になっても続く、人生のスタートラインにおける「不利」。OECD諸国の中で第二位という日本の貧困の現実を前に、子どもの貧困の定義、測定方法、そして、さまざまな「不利」と貧困の関係を、豊富なデータをもとに検証する。貧困の世代間連鎖を断つために本当に必要な「子ども対策」とは何か。
404 Blog Not Found:まさかここまでひどいとは - 書評 - 子どもの貧困
↑で紹介されていたのをみて購入。
僕は自分で子どもを持つまで、「日本の子どもの貧困」なんて、考えたこともありませんでした。
だって、日本で「物乞い」をしている子どもを見かけたことはないし、『ポケモン』もあんなに売れている。
でも、この本を読んで、「貧困」には2つの定義があることを知りました。
OECDや欧州連合(EU)などの国際機関で先進諸国の貧困を議論するときに使われる貧困基準も、日本の生活保護法によって決められている生活保護基準も、「相対的貧困」という概念を用いて設定されている。相対的貧困とは、人々がある社会の中で生活するためには、その社会の「通常」の生活レベルから一定距離以内の生活レベルが必要であるという考え方に基づく。つまり、人として社会に認められる最低限の生活水準は、その社会における「通常」から、それほど離れていないことが必要であり、それ以下の生活を「貧困」と定義しているのである。なぜなら、人が社会の一員として生きていくためには、働いたり、結婚したり、人と交流したりすることが可能でなければならず、そのためには、たとえば、ただ単に寒さをしのぐだけの衣服ではなく、人前にでて恥ずかしくない程度の衣服が必要であろうし、電話などの通信手段や職場に行くための交通費なども必要であろう。これらの「費用」は、その社会の「通常」の生活レベルで決定されるのである。
これに対する概念が、「絶対的貧困」である。絶対的貧困とは、人々が生活するために必要なものは、食料や医療など、その社会全体の生活レベルに関係なく決められるものであり、それが欠けている状態を示す。絶対的貧困は、その概念を打ち出したのが20世紀初頭のイギリスの貧困研究者シーボーム。ロウントリー(1871−1954)であり、彼が貧困を「労働能力を維持するための、最低限」の「食費」を基とする方法で定義したため、「衣食住」を最低限満たす程度の生活水準以下と解釈されることが多い。発展途上国で飢える子どもや、終戦直後の日本など、一般の人々がイメージしやすい貧困は、「絶対的貧困」の概念ということができる。
この「相対的貧困」と「絶対的貧困」について、著者の阿部さんは、こんな例を挙げて説明されています。
これを説明するのに、筆者がよく使う例は「靴」である。いま、仮に、靴が買えず、裸足で学校に行かなければならない子どもが日本にいたとしよう。日本の一般市民のほとんどは、この子をみて「絶対的貧困」の状態にあると考えるであろう。しかし、もし、この子がアフリカの農村に住んでいるのであれば、その村の人々は、靴がないことを必ずしも「絶対的貧困」とは思わないかも知れない。つまり「絶対的貧困」であっても、それを判断するには、その社会における「通常」と比較しているのであり、「相対的観点」を用いているのである。
現在では、OECDやEUなど、先進諸国の貧困を論じるときには、「相対的貧困」を用いることが多い。これは、ロウントリーが定義したような「絶対的貧困」は、先進諸国においてはほぼ撲滅されているという前提で貧困が論じられているからである。
「日本には、ストリートチルドレンや飢え死にする子どもはいない。だから、日本は恵まれた、『総中流』の国である」
そんなふうに考えている人は、けっして少なくないと思います。僕もそうでした。
ところが、この本は、経済協力開発機構(OECD)の報告では、日本の子どもの「相対的貧困率」は、OECD諸国のなかでアメリカに次ぐ第二位であり、貧困率は14%である、という「現実」が示されています。
1クラスが40人とすれば、5〜6人は「相対的貧困の状態にある子ども」になってしまうわけです。
この『子どもの貧困』は、けっして「読みやすい本」でも「楽しい本」でもありません。
ここに示されているのは、「いかに日本の子どもは貧困であるか」「日本の政治は子ども(と子どもをもつ親)に対して冷淡なのか」という客観的なデータの積み重ねです。だからこそ、印象論や精神論よりも、はるかに「重い」わけですが。
先進国における子どもの貧困率を「市場所得」(就労や、金融資産によって得られる所得)と、それから税金と社会保険料を引き、児童手当や年金などの社会保障給付を足した「可処分所得」でみたものである。税制度や社会保障制度を、政府による「所得再分配」と言うので、これらを「再分配前所得/再分配後所得」とすると、よりわかりやすくなるかも知れない。
これをみると、十八カ国中、日本は唯一、再分配後所得の貧困率のほうが、再分配前所得の貧困率より高いことがわかる。つまり、社会保障制度や税制度によって、日本の子どもの貧困率は悪化しているのだ!
dankogaiさんも引用されているこの部分など、「なんじゃこりゃ!」と悶絶するばかり。
「社会保障」どころか、「弱いものからさらに搾取する」のがいまの日本という国。
同じように「子どもの貧困率」が高かったイギリスが、その現実を国民に周知し、政府をあげて対策を行っているのとは全然違う。
「少子化対策」として出てくるのは、「子どもを持つ親の就労支援」ばかりなのですが、そうして働きに出ても賃金は安く、子どもとふれあう時間もない。母子家庭の場合はなおさら。
「お前らどんどん子どもを産め、そして産んだら安い賃金でこき使われて、ギリギリの生活でまともにふれあうこともなく子どもを育てろ。それが日本のためだ!」
……太平洋戦争って、終わったんじゃなかったっけ?
いや、冷静になればなるほど、「子どもなんか怖くて産めない社会」だよ本当に。
逆に、「それでもこれだけ子どもが生まれる」という事実のほうが、むしろ異常なのかも。
とくに、この新書のなかで紹介されている「母子家庭」の現状の酷さには絶句してしまいました。
最後に、ある母子世帯の母親の以下の言葉をもって、この章の締めくくりとさせていただきたい。
「子どものために早く死にたい」と、母親に言わせる社会は許されるべきではない。子供の大学進学を控えての経済的不安。派遣のため収入の増える見込みがないので自分の老後の蓄えをするよゆうがない。将来働けなくなったら、すぐ死んだほうが子どもにめいわくをかけないで済むのではないかと考える。(母42歳、第一子15歳)
僕はいままで「子どものために別れない夫婦」というのは「かえって子どもに悪影響を与える」と思っていたけど、この新書を読んで、ちょっと考え直しましたよ。
でもまあ、こんなふうに憤る一方で、これを読みながら、ある種の「ギャップ」も感じずにはいられなかったのです。
僕は仕事でいろいろな人と関わってきました。
病院というのは本当に多種多様な人たちが集まるところなのですが、そこで働いているうちに、
「貧しい人はすべからくかわいそうな存在であり、社会が手をさしのべてあげなければならない」
という「理想」に対する違和感も抱くようになってきました。
そんなに体がきつそうには見えないのに「病気で働けないから、診断書を書け!書かなかったらどうなるかわかってるんだろうな……」と訴える(?)人。
「薬代が高くて、飲みたくない。減らしてくれ……」と言いながら、待合室ではずっとパチンコの話ばかりしている人。
夜中に酔っ払って来院し、「ここは市民の税金でやっている病院だろ、入院させろ!」とスタッフに怒鳴り散らす人。
正直、「貧困にあえいでいる人」が、みんな『フランダースの犬』のネロみたいな人だったら、僕だってもう喜んで出せるものは出します。
でも、現実は必ずしもそうじゃない。
「自己責任じゃないのか?」と言いたくなるような事例にも、「貧困」であれば援助すべきなのか。
彼らは「貧困」から脱出できれば、「まっとうな人生」をおくれるのか?
本当は、こういう「一般市民の心の狭さ」「他人と自分を比べずにはいられない気持ち」こそが、「日本政府が貧困対策をやらずにすんでいる理由」なのかもしれないんですけどね。
「生きづらさ」について(琥珀色の戯言)
↑の本の紹介のなかで、僕はこんな文章を引用させていただきました。
萱野:下へ下へと向かう圧力については、フランスにも似たような現象があります。
たとえば、まえにもお話しましたが、フランスで移民排斥を唱える極右政党の支持者の多くは、移民と同じ地域に住み、同じような生活環境のもとで暮らしている貧困層です。
貧困層にとってみれば、生活保護などの社会保障は唯一の頼みの綱ですよね、でも、日本と同じようにフランスでも福祉や社会保障の予算はどんどん削減される傾向にあって、年々、受給資格は厳しくなるし、受給額も少なくなっています。貧困層にとっては厳しい現実です。しかし彼らは、そうした現実を移民のせいだと考えてしまう。自分たちがもらうべき社会保障を、本来はもらう権利のない外国人の移民たちが不当に横取りしている、だから自分たちがもらう分が減っているんだ、と。
つまり彼らは、自分たちの生活を守るために、移民という、より不利な立場におかれている人たちを排除することに向かうわけです。
ちなみにフランスの場合、いまの時代をよくあらわしていると思うのは、そうした移民排斥が「セキュリティをむしばむ外国人」というイメージとむすびついているところです。日本でもしばしば「治安が悪化したのは外国人犯罪の増加のせいだ」というようなことがいわれますが、フランスではそれが社会保障の問題にもかかわっているのです。(中略)
2005年の秋にフランスで大規模な暴動が起こりましたよね。そのとき車がたくさん燃やされました。でも、あの燃やされた車のもち主って、隣に住んでいる貧困層なんですよ。
雨宮:ベンツなどの高級車ではなく。
萱野:そう。中古の中古みたいなものを何年ものローンでやっと買ったのに、それが暴動で燃やされてしまった。
雨宮:そこの町全体が貧困地域ということですね。
萱野:そうです。燃やされてしまったほうが、いきおい移民に反感をもちますよね。で、治安(セキュリティ)を守るために移民を排斥せよ、という声が貧困層からさらに強く出されるようになる。
ただこれはちゃんと確認しておいたほうがいいのですが、あのときの暴動って、フランス全体で見ると白人系のフランス人もかなりそこに参加していて、「移民の暴動」と考えるのは本当はまちがいなんですよ。でも現実には「移民の暴動」というイメージが流布し、それが貧困地域における「白人」対「移民」という人種的な対立へと帰着してしまった。
「どうしてあいつらだけが……」という感情を超えるのは、本当に難しいものなんですよね。
この新書のテーマである「子どもの貧困」に対しては、僕の経験からくるそういった葛藤はあまり感じずにすむのです。
子どもに罪は無い……たぶん。
そして、大部分の親たちにも。
結局のところ、「社会を安定させる」という意味での「貧困対策」は僕も必要だと思います。
自分の身を護るために。
それでも、東大で「貧困」の研究をして、社会悪を告発している人たちの気高い理想に、僕はちょっと「浮世離れした」ものも感じるんですよ。「そもそも、当事者たちは岩波新書なんて読まないだろ」とか、どうせ親がパチンコに使っちゃうんじゃないの?とか(念のために書いておきますが、阿部さんは、「そういうふうに親に使われないための子どものための貧困対策」にもちゃんと言及されています)。
とはいえ、自分の子どもが通う学校の教室は、なるべく「幸せな子どもたち」で満たされていてもらいたい。親としてそう思う。
僕にとっては、それが「子どもの貧困問題」にコミットメントする最大の理由なのです。
ぜひ、ひとりでも多くの人に読んでみていただきたい本です。
とくに、子どもを持つ親には。