琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

子どもが、笑わなくなった。


一昨日の夜、妻の実家から帰ってきた妻と息子。遅い夕食のあと、妻がこんな話をしてくれた。

「あのね、今日気づいたんだけど、うちの子、なんだかここ数日、笑わなくなってたんだよ。おばあちゃんが『○○く〜ん!』って近づいてきたときにはニコニコしてるのに、私が抱っこして話しかけたり、絵本を読んだり、歌をうたったりしても、なんだか全然笑ってくれなくて。
それで、どうしてなんだろう?って、ずっと考えていたんだけど、どうも、先週末から赤ちゃん向けの教材をはじめてから、ちょっと違うような気がする。たぶん、山のような教材を見て、私が「いろんなことを早く教えなきゃ、追いつかない」って焦っていたのが伝わったんじゃないかなあ。
いろんなものに興味を持って、じっと見つめていることが多いから、いままでも、身の回りのものの名前を指差して教えたり、好きな絵本を読んであげたりしていたんだけど、同じ絵本でも、「教材」であることを意識してしまうと、「一日のノルマをこなさなきゃ」っていう感じになってしまって、私も楽しめてなかったんだと思う。
おばあちゃんは本当に○○が好きで、『とにかくこの子がかわいい!』ってだけで、何のプレッシャーも感じずに接しているから、この子も笑っていたんだね、きっと」

「親バカ」だと笑われるかもしれないが、僕たちは日々いろんなものを吸収していく息子を見るのが楽しみだったし、この子が「世界」に興味を持ち、「新しい知識を得ることに喜びを見出すタイプ」だと信じていた、いや、いまでもそう信じている。
妻とちょっと前に話したのは、「われわれの子だし、スポーツで生きていくのは難しいだろうから(僕たちは揃って運動音痴なので)、少しでも『知ることの喜び』を教えてあげて、それで人生を切り開いてもらいたい」ということだった。
どんな職業に就かせたいとかじゃなくて、「学ぶことに貪欲な人間」になってもらいたいのだ。

それで、「どうせ子どもと遊んであげるのなら、遊び道具を『効率の良いもの』にしよう」ということで、けっして安くはない教材を購入し、つい最近はじめたばかり。
そんなに経済的に余裕があるわけでもないのだが、そういう「機会」を子どもに与えてあげないと、あとで自分たちが後悔するかもしれない、という気持ちもあって。

自分が子どもを持つまでは、「教育ママ」を嘲笑していたのだが、親になってみると、「僕の子どもだから、勉強も全然できなかったら、何のとりえもない、まともに生きていけない人間になるかもしれない」なんて不安に駆られてしまう。
それに、4ヶ月の赤ん坊にとっては、「知ること」「学ぶこと」と「遊ぶこと」って、そんなにクリアカットに分けられるようなものでもないような気がするし。

今回「子どもが笑わなくなった」ことに、妻はひどくショックを受けていた。
「自分では、『一緒に楽しんでいるつもり』だったのに、いつのまにか『教えること』『教材のノルマをこなすこと』に追われてしまって、子どもの顔が見えていなかった」って。
自分が4ヶ月の赤ん坊だったら、もっとも近くにいる人が「親」じゃなくて「先生」の顔をしていたら、やっぱり辛いよね、笑えないよね。
そんなことはわかりきっているはずなのに、当事者になると、つい、「自分の気持ち」が先に立ってしまって、相手がそれをどう受け止めているのかが見えなくなってしまうのだ。
「これはこの子の将来のためだから」って。

そのことに2日で気がついたので、結果的には、今後の僕たちにとってはプラスになったのではないかと思う。
でも、どのくらいが「子どもとの適正な距離」なのかは、正直、まだよくわからない。
延々と「かわいいねー」って言いながらミルクをあげたり抱っこしていればいいってわけでもないだろう。

こういうのって、スカウターで計測できるようなものじゃないし、ずっとずっと、試行錯誤していくしかないのだろうなあ。

子どもの顔には、たぶん、親の顔が映っているのだ。
まずは、僕たちがもうちょっと力を抜かなくっちゃね。
先生のかわりはいても、親のかわりはいないのだから。

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