琥珀色の戯言

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【読書感想】猫を抱いて象と泳ぐ ☆☆☆☆☆

猫を抱いて象と泳ぐ (文春文庫)

猫を抱いて象と泳ぐ (文春文庫)


Kindle版もあります。

 唇が閉じたまま生まれ、切開手術を受けた後も寡黙な少年に育った主人公。架空の友人といえば、体が大きくなりすぎて屋上動物園で生涯を終えた象の「インディラ」と、壁の隙間(すきま)にはまって出られなくなった女の子「ミイラ」だ。7歳で巨漢の師匠にチェスを習い、チェステーブルの下にもぐって熟考する特異なスタイルで天分を発揮、「盤上の詩人」と謳(うた)われた天才アリョーヒンの再来として「盤下の詩人」と呼ばれるまでになるが……

大傑作。僕にとってはいままでの小川洋子作品のベスト1でした。
この小説、たぶん、『博士の愛した数式』ほど、「万人向け」ではないと思うんですよ。
主人公はものすごく内向的な少年だし、彼に影響を与える人たちも、「すばらしいもの」を持っている一方で、世の中をうまく渡っていくための「何か」が決定的に欠けてしまっています。
主人公・リトル・アリョーヒンにチェスを教えてくれた「マスター」は、「チェスを愛すること」にかけては最良の人間であり、盤上で見事なダンスを踊ることができるけれど、現実世界では、仕事も自己管理もまともにできない人物です。

僕は小学校のころ、将棋にものすごくハマっていたのです。
「将棋入門」や「詰将棋問題集」を買い漁り、仕事から帰ってきた父親をつかまえては、対局をせがんでいました。
家のなかにはほかに将棋を指せる人がいなかったため、ひとりで先手後手の役割を決めて指していたものです。先手は矢倉、後手は中飛車、という設定にしたりして。
「そんなの面白いの?」と言われたら言い返せないところではありますが、「それしかなかった」んだよね当時は。
結局小学校高学年になってからは「テレビゲームの創世記」に居合わせてしまったがために、プロ棋士になるよりも「ゲームデザイナー」になりたいな、と思うようになっていったのですけど。
もし、いまみたいにネットでいろんな人と対局できる時代であれば、僕はもっと真剣に「棋士」を目指していたかもしれません。
昔、某有名棋士が、「俺は頭が良いから将棋指しになったけど、兄は頭が悪かったから東大に行った」と言っていたというエピソードを聞いて、「カッコイイ!」とか思っていましたしね。

かなり脱線してしまいましたが、そんなわけで、僕はいまでも将棋が好きですし、棋士が書いた本や棋士についての小説もよく読みます。
もちろん、「チェス」と「将棋」というのは似て非なるゲーム(という言い方は不適切なのかもしれませんけど、あえてこう言わせてください)なのですが、この2つのゲームにおけるプレイヤーたちの「美学」みたいなものは、洋の東西にかかわらず、共通している部分が大きいのではないかと思うのです。
将棋やチェスは、その行為そのものには何の生産性もありません。食べられるわけでもないし、人の目や耳に無理やり飛び込んでくるようなものでもない。
でも、「現実的な意味をもたない」からこそ、そこには「純粋な知的悦楽」があるような気がします。

この小説の「あらすじ」を読んだとき、僕は、「ああ、これは”リトル・アリョーヒン”という変わった天才チェス・プレイヤーが、奇行を繰り返しながら、難敵をバッサバッサとなぎ倒していく『月下の棋士』みたいな話なのかな」と想像していました。将棋界もそうですが、チェスの世界でも、そういう「チェスの天才たちの奇行」がたくさん知られています。
(例:ボビー・フィッシャー(Wikipedia))
まあ、名人というのは、ある種の「正規分布から外れた人」なのですから、そこにわれわれからみた「常識人」の枠組みをあてはめることそのものが間違いなのかもしれません。

ところが、この『猫を抱いて象と泳ぐ』の主人公は、そういう「自分が奇人であることにすら気づかないレベルの超越者」ではなく、むしろ、「社会で推奨されている『役に立つこと』に人生の意義を見いだせない引きこもり」であるようにすら思われます。彼はチェスに魅せられたけれど、それは、ある種の「現実逃避」のようにも感じられるのです。
ただ、僕は彼のそういう「弱さ」が、読んでいてとても愛しくてしょうがなかった。
だって、そこにいたのは、現実や学校や勉強が嫌で、本とゲームの世界にだけしか生きがいを感じられなかった、あの頃の僕そのものだったから。
リトル・アリョーヒンほどの才能も集中力もなかった僕は、こうして世界の「普通」の端っこになんとかすがりついて生きているけれど、僕はこういう人生を望んでいたのだろうか?といまでもときどき思うのです。
正直、ここで小川さんが語られている、リトル・アリョーヒンの人生は、起こった事実だけを年表みたいに並べてみれば、本当に「せつなくて、いたたまれなくて、周りの大きな力にもてあそばれてばかり」のものでしかありません。
にもかかわらず、彼の人生は、すごく静謐で、優しくて、美しい。
小川洋子さんは、読者からすると「登場人物をそんな目にあわせるなんて」というような話を、とても温かい目線で見つめていながらも、「でも、人生はそういうものだから」と冷静に書き切ってしまう「残酷な作家」だと思います。
外見も話しぶりがものすごく穏やかな印象があるだけに、「人の心のなかに秘められたもの」について、考えさせられることが多い人なんですよね。

「チェスを指していると、いろいろ不思議な気持を味わうよ」
 少年は言った。
「心の底から上手くいってる、と感じるのは、これで勝てると確信した時でも、相手がミスをした時でもない。相手の駒の力が、こっちの陣営でこだまして、僕の駒の力と響き合う時なんだ。そういう時、駒たちが僕が想像もしなかった音色で鳴り出す。その音色に耳を傾けていると、ああ、今、盤の上では正しいことが行われている、という気持ちになれるんだ。上手に説明できないけど……」
「ああ、分かるよ、よく分かる」
 マスターは親指を立て、OKサインを出した。
「つまり、最強の手が最善とは限らない。チェス盤の上では、強いものより、善なるものの方が価値が高い。だから、坊やの気持は正しいんだよ」

ある有名な棋士が、「将棋指しとしての最大の目標は、タイトルを獲ることではなくて、後世に遺るような棋譜を生み出すことだ」と書いていたのを読んだことがあります。
もちろん、勝てなくてはプロになれないのですが、選ばれた者には、「勝ち負けを超えた何か」が見えているのかもしれません。

あと、この作品を読んでいてあらためて感じたのですが、「小説」ってズルい。
「ひとりひとり違う、心のこもった棋譜」についての小川さんの文章を読んだだけで、チェスの駒の動かし方くらいしか知らない僕も、「チェスの世界の深さを垣間見たような気分になれる」のだから。
もし、これが本物の「棋譜そのもの」であれば、たぶん、理解できる人はごく少数だろうし、「この棋譜じゃ感動できない」という人もいるはずです。
小説のなかには「誰にとっても絶世の美女」が存在しても、現実にはそういう人間は存在しないのと同じ。
だからこれはまさに「小説でしか描けない世界」なのでしょうね。

長々と書いてしまいましたが、早くも2009年ベストワン候補

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