琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

彼女がスケッチ大会で「特選」を獲った絵


才能のない子にどうやって美術への進路を思いとどまらせるか(はてな匿名ダイアリー)
↑のエントリを読んで、ちょっとモヤモヤしていたことなど。


 最近ある女性に聞いた話。
 彼女は子どものころから絵を描くのが好きで、学校のスケッチ大会では、いつも賞をもらっていたそうだ。
 でも、彼女の絵は、「入選」どまりがほとんど。写実的に、その場にあるものをあるがままにリアルに描くという彼女の「作風」は、学校の先生たちにあまりウケがよくなかったらしい。同級生たちには、「Aちゃんの絵はあんなに上手いのに、なんで特選にならないんだろうね」といつも言われていたとのこと。
 そんな彼女の絵が、一度だけ「特選」に輝いたことがあった。
 スケッチ大会の日、彼女はお城の風景を描いていたのだが、途中でとりかえしがつかないミスをして、修正液で間違ったところを消そうとした。
 ところが、その「修正」した部位には、上から絵の具がうまく乗らなくなり、その絵は明らかにその修正部が目立つようになってしまったのだ。
 もう時間もないし、困り果てた彼女は、先生に相談した。
「うーん、何か上からベタッと塗ってごまかしちゃうしかないんじゃないかな……」


 その絵は、彼女の小学校生活唯一の「特選」に輝いた。彼女自身にとっては、「最悪」の出来だったにもかかわらず。
 あとで、担任の先生が、こっそり教えてくれたそうだ。
「お前、今度の『特選』は、あの修正液のおかげだぞ。お前があれを塗りつぶしてごまかすために描いた雷が、ものすごく他の先生たちに好評でなあ。『ここにいきなり雷がでてくるなんて、子供らしい自由な発想だ!』ってさ」

 少なくとも小学校レベルでの先生たちの「絵を見る目」というのは、この程度のものなのだ。そういえば僕も、明らかに自分より上手い絵が「銀賞」で、自分のヘタクソな絵が「金賞」だったときには、「なんで?」と思ったものなあ。
 どうも、子どもの作品というのは、「子どもらしさ」とか「自由な発想」というような、「大人が押し付けた、あるべき子供像」みたいなもので評価されがちな傾向があるらしい。
 そんな評価基準しか持たない先生たちに、「才能の有無」なんてものが本当にわかるのだろうか?

 まあ、大人の作品だって、正直「作品そのものよりも、それをうまく意味付けするための言葉の巧みさ」みたいなもので評価されているんじゃないかな、と思うことが多いんだけど。


いい機会なので、最近読んだ「国語教育の問題点」の話も御紹介。
参考リンク:ところで、「感想文を評価する側」はどうなのよ?(不倒城 (2009/4/13))
↑はすごく考えさせられるエントリなのですが、以下に参考になりそうな話を二つ挙げておきます。
プラハのソヴィエト学校での「国語」の授業の話(活字中毒R。2007年8月30日)
「それであなたは何と思ったのかな?」という「文学的指導」の嘘(活字中毒R。2006年4月22日)

「才能がある」「ない」って言うけれど、とくに芸術の世界では、子供の作品をみて「才能の有無」を見抜けるレベルの「指導者」って、実際はほとんどいないのではないでしょうか。
見抜いてくれる人がいなかったがために埋もれてしまったり、見る目のない人に発掘されてしまったばかりに方向性を誤った「才能」というのは、けっして少なくないはず。

アクセスカウンター