琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

レスラー ☆☆☆☆


参考リンク:『レスラー』公式サイト

あらすじ: かつては人気を極めたものの今では落ち目のレスラー、ランディ(ミッキー・ローク)。ある日、ステロイドの副作用のために心臓発作を起こし、レスラー生命を絶たれてしまう。家族とはうまくいかずストリッパーのキャシディ(マリサ・トメイ)にも振られ、孤独に打ちひしがれる中で、ランディは……(シネマトゥデイ

 地元の映画館では上映されてなかったので、ちょっと遠出して観てきました。
 ネットなどでの観た人の評判はかなり良いみたいなのですが、公開から時間が経っていることもあり、すでに1日1回、18時からの上映のみになっていました。日曜日の18時からの観客は20人程度。

 僕が子供のころは、タイガーマスクの登場から、長州力の「俺は藤波のかませ犬じゃない!」の軍団抗争、そしてアントニオ猪木の夢・IWGPと、まさに新日本プロレスの黄金時代。毎週20時45分に猪木の延髄斬りが炸裂して試合が終わることに違和感を抱きながらも、当時の僕たちは、プロレスの幸福な観客でいられたのです。小学校の教室で、よく「サソリ固め」とかをかけあっていたものでした。『キン肉マン』もプロレスブームを後押ししていましたし、梶原一騎原作の『プロレス・スーパースター列伝』も夢中になって読んでいたものです。
 高校生になったくらいから、プロレスそのものが、より細分化し、「読むプロレス」になってしまい、僕もだんだんプロレスとは疎遠になってしまったんですけどね。
 その後、まともに観たプロレスの試合は、猪木の引退試合くらいだったような気がします。
 大仁田の「電流爆破マッチ」は、一度観に行こうという話を部活の後輩とした記憶があったなあ、そういえば。

 この『レスラー』、公開と三沢光晴さんの突然の死が重なってしまったこともあり、僕にとっては、「観たいけど、平常心では観られない映画」なのではないかな、と思っていました。でも、ちょうど時間ができたこともあり、やっぱりいま、映画館で観ておくことにしたのです、プロレス少年だった僕としては、なんとなく、「見届けておくべき作品」だとも感じていたので。

 医者としては、なんというか、「主人公のプロレスラー・ランディが自分の患者だったらイヤだよなあ……」と考えずにはいられない映画ではあったのですが、ひとりの「人生の折り返し点を過ぎた人間」としては、ランディの「自分でもわかっているのに、リングへの未練を断ち切れないせつなさ」が痛いほど伝わってきました。
 ほんと、「諦められたら、ラクになれる」のだろうけど。
 最盛期に比べたら、明らかに人気もレスラーとしてのパフォーマンスも落ちてしまっている。でも、どんなに小さな会場でも、サインを求めてくるファンがいるし、歓声も上がる。
 ランディくらいの成功者であれば、いつまでも「現役」にこだわらなくてもいいはずです。現に、プロレスラーから実業家に転身して成功している人もたくさんいます(失敗している人も、かなりたくさんいそうですが)。
 うーん、ああいうふに「舞台」に一度立ってしまうと、人というのは、その魔力から逃れられなくなってしまうのだろうか……

 ランディは、(たぶん)「平凡な常識人」である僕からすれば、「なんでそんなダメになるのがわかりきった『選択』をするんだ……」と言いたくなるようなバカバカしい行為を、自分に対しても、周囲の人たちにも繰り返します。娘との約束を破る場面なんか、「何やってんだよ!」と言いたくてしょうがなかった。
 それでも、「そういうバカバカしいことを、人生の大事な場面で、ついついやってしまう人間」というのは確実に存在していて、実は「プロレスラー」に対して求められているのって、「リングの上での素晴らしい技の応酬」だけではなく、そういう「常識をあざ笑うような人生そのもの」だったりするわけです。
 アントニオ猪木は、まさにその「人生をプロレスにしてしまった人」なわけで、プロレスラーとしての業績だけでなく、事業の大失敗や政治家への転身、私生活のスキャンダルも含めて、「猪木」なんだよね。猪木の私生活が品行方正であれば、あんなに叩かれることはなかっただろうけど、こんなカリスマにもなっていないはず。
 僕たちは口をそろえて、「猪木ってバカだよなあ……」と遠い目をしてつぶやきながらも、猪木みたいな生き方ができる自分を想像せずにはいられない。

 プロレスっていうのは、基本的には、「リングの上でお互いの技を見せるもの」です。
 三沢さんが亡くなられたとき、多くの人が、「死んでしまうまで、プロレスをやらなくてもよかったのに」と言っていました。
 でも、ひとりの観客としての本音を言わせてもらうと、僕は、「こんな試合をやっていたら、死ぬぞ!」と怖くなるようなプロレスが好きだったんです。もちろん、実際に「誰かが死んでほしい」なんて思いはしませんが、「死んじゃうよこれじゃあ……」という「死の予感」が漂わないプロレスに、僕はそんなに惹かれないと思う。
 そこに「シナリオ」があるのだとしても、絶対安全な、傷ひとつないレスラーたちがやる「きれいなプロレス」って、たぶん、ものすごくつまんないんじゃないかな(「ハッスル」みたいに芸能人を出してネタ化してしまうという手はあるのかもしれませんが、あれはあくまでも「ちゃんとしたプロレス」があればこそ存在が許されるものです)。

 ……せっかく助かった命を無駄にするな、と「普通の人間」である僕は思う。
 惣菜コーナーでお愛想ふりまいて、なんとか食べていくのも人生だし、それは全然悪いことじゃない。生きていれば、それなりに楽しいことだってあるでしょう。
 でも、「普通の人間」である僕でさえ、「こうやって日々の糧を得て、生き延びるためにいろんなものを我慢しても、人より500年くらい長生きできるわけでもないよな」とも感じます。
 将来、自分が死ぬとき、「いろんなものを我慢して、長生きしてよかった」と納得できるのだろうか?
 そもそも、どんなに健康的な生活を送っていても、人というのは、死ぬときは死ぬものです。もちろん、気をつけておいたほうが、長生きできる確率は高くなるけれど。

 僕はこの映画を観て、「マスコミは『三沢さんは疲れていた、引退しようとしていた。リングに上がっていたのはノアという会社のため』というような話ばかり伝えているけど、やっぱり好きで、というか、リングを離れたくなくて、最期までああして闘っていたんじゃないかな」と思いました。
 もちろん、お金のことやテレビ放映を失って厳しい状態にあったことは事実でしょうが、人生で同じ場面をリピートできるとしても、三沢さんはあの日、同じようにリングに上がるのではないかなあ。
 あの「四角いジャングル」には、それだけの魅力があるのでしょう。

 そういう「蛮勇」を称賛するのは間違ったことなのかもしれません。
 だけど、「そういう生き方を選ぶ人がいる」ことと、「そういう生き方を選ぶ人を観ることによって、救われている『平凡にしか生きられない人たち』がいる」ことは、間違いないはず。
 「プロレス」は人生であり、「プロレスラー」とは、職業ではなく、生きざまである。
 『週刊プロレス』みたいになってきましたが、そんなことをあらためて考えさせられる映画でした。


 ラム・ジャム! ラム・ジャム! ラム・ジャム!!

 ミッキー・ロークも、本質的には「プロレスラー」なんだろうなあ、きっと。

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