琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

きのうの神様 ☆☆☆☆


きのうの神さま

きのうの神さま

内容(「BOOK」データベースより)
『ゆれる』で世界的な評価を獲得し、今、最も注目を集める映画監督が、日常に潜む人間の本性を渾身の筆致で炙りだした短編集。『ディア・ドクター』に寄り添うアナザーストーリーズ。

映画『ディア・ドクター』は、近所に公開館が無く、僕があまり「医療ドラマ」を好まないのとあいまって、まだ未見です。テレビで断片的につまみ食いしながら医療ドラマにツッコミを入れるのは嫌いじゃないのですが、あまりに「感動的な医療現場や献身的な医者」が描かれているのを観ると、自分と比べて落ち込んだり、こういうのを期待されているのかと憂鬱になったりするので。
この『きのうの神様』、先日発表された第141回直木賞候補になったこともあり(受賞は北村薫さんの『鷺と雪』、この『きのうの神様』もかなりいい線までいっていたようです)、200ページくらいで比較的すぐ読めそうだったので、書店で見かけて購入。正直、ボリュームとしては税別1400円はちょっと厳しいのではないか、とは思いましたが、内容には満足できました。

いくつかの感想を読んでみると、この5篇の短編集は、映画『ディア・ドクター』の登場人物たちの、「映画で描かれる前の出来事や人生」を描いたもので、映画を先に観た人にとっては、「あの人物は、こういう背景があって、ああいう人になったのか」と理解できる内容になっているようです。
でも、映画未見の僕にとっても十分愉しめる小説でしたし、あくまでも「登場人物たちのサイドストーリー」なので、こちらから先に読んでも「ネタバレで、映画がつまらなくなる」という問題はなさそう。
ただし、登場人物への感情移入度を考えると、順番としては、映画を観る予定の方は、映画が先のほうが良いかもしれません。
僕はこの『きのうの神様』を読んで、『ディア・ドクター』も観に行こうかな、と思ったのですけど。

ちょっと前置きが長くなってしまいましたが、これを読みながら僕がずっと考えていたのは、「西川美和さんは、自身が医者か、親が医者という環境で育ったのだろうか?」ということでした。
たぶん、綿密な取材によって、この作品に出てくる「医者やその家族」の内面は描かれているのでしょうが、いったい誰がこんな話、自分自身の心をえぐり出すような話を西川さんにしたのだろう?こんな話、恋人にでもなければ、しないんじゃないだろうか?
西川さんは、医者や医者の家族の「小さなプライド」と「人間としての消耗」を過不足なく書いておられます。
「お医者様」とまつりあげることもなければ、「医者なんて患者のことなど何も考えていない」と全否定することもなく。
そして、「医療の世界、とくに、地域医療の世界の特殊性」を描いている一方で、普遍的な「中途半端なエリートたちの哀しみ」みたいなものも伝わってきます。

 こんなところを男の病院の同僚たちに見られては、とんでもないことになる。時間外に詐病に近い呼び出しを受けた医者が、自ら患者の体を拭いてやり、延々話に付き合って、寂しさを紛らせてやるようなことは、普段だったらあり得ない。男の実際の日常は、患者一人のためにそんなことまでする気にはとてもなれないし、またする義務もない、医療業務に限定された多忙極まるオートメーション的な作業の連続である。それを日々、耐えて遂行するために一切の青臭さをかなぐり捨て、何の自己陶酔もなく、トラブル回避のためだけに覚えた柔らかい言葉を舌先三寸に使って、気づけば自分の診た患者に頭を下げて礼を言われても、ほとんど何の実感も感慨も持てなくなってしまった。医師になりたい、と最初に思い立った遠い日の記憶など、いっそ忘れてしまいたい。あの時の自分がいなければ今の自分もないが、今の自分は、あの時の自分がなろうとした男とはまるで違う。けれど、それが悪いか。青坊主の過去の自分に、非難などさせない。俺は、来た球を打っている。それも確実に、当てていっている。流れに巻き込まれて一度青臭さを棄てた自分がいまさら青臭くなれるはずはなく、今日のこのことも、自分にとっては今後繰り返されることのない非日常であるからこそだ。

なんかもう、キリキリしますよ、こういうのを読んでしまうと。

僕は最近、「いい先生」って患者さんに言われるのが怖いのです。できれば、「とくに印象が残らない、誰だか忘れられてしまうような医者」として認識されたい。
十数年この仕事をやってきましたが、深入りすればするほど、人間の感情の「好感」というのは「嫌悪感」と一体のものだと感じますし、「誰かのことを簡単に大好きになれる人」というのは、「ちょっとしたきっかけで、裏切られたと思う人」であることが多いから。
医療の世界では、「愛されること」のメリットに比べて、「嫌われること」から起こるトラブルの危険があまりにも大きい。
患者さんの治療がうまくいったときの喜びよりも、無難にひとつの仕事が終わったことへの安堵感のほうが、年々強くなってきています。
こうしている一時間後に、血まみれになってカメラを操作しているかもしれないし、明日、自分でも信じられないようなミスをして、人生が終わってしまうかもしれない。

 兄の絶望の種は、ほんの些細なことである。身を焦がすほどあこがれた父から、一度も「お前も医者になりなさい」と言われなかったということだ。ぼくの幸運が、兄には悲運だった。
 その晩母は、兄のもとへ行って、父を補足した。
「ねえ、聞いて。お父さんね、一昨日患者さんを亡くしちゃったのよ。まだ29歳の若い男の人で、すい臓がんで、お腹を開けてみたけど、もうどうにもならなかったんだって。あかちゃんが産まれたばっかりで、残されちゃった奥さんに泣かれたの。どう思う?」
「ひどい」
「うん」
「何て言っていいか分かんないよ。かわいそうで」
「そうよね」
「何なの」
「お父さんのことを話すわよ」
「……」
「お父さんも、その奥さんが気の毒だと思うし、どうすれば死なせずにすんだか、他に手はなかったのか、とは延々考えるの。でも、それ以上はぼんやり霧がかかったようで、何とも思わないんですって。感じないの。もちろん涙も出ない。お医者になる前は、人が死ぬっていうことをどんなにふうに感じていたのか、もう、思い出すことも難しいんですって。万が一、お母さんやあなたたちが自分より先に死んだりするようなことがあった時、もしも何も感じることができなかったら、って――もちろんそうじゃないとは信じたいのよ――でも、時々ものすごく怖くなるらしいの。それがお医者の宿命なのかもしれないけれど、お父さんは、あんたたちに、そういうふうになられるのが、たまらないと思ってるの」
 それを聞いた兄貴は何て言ったの、どんな顔をしたの、といくらたずねても、母はぼくに教えてくれようとはしなかった。

僕は正直、この話を読んで、「この”兄貴”が羨ましいなあ」と思ったのです。僕の親は、「医者になれ」とストレートに言うことはなかったけれど、「それを望んでいる雰囲気」を濃密に漂わせていたから。僕は文系科目のほうが得意で、小学生の時に観ていた『ひまわりの歌』の宇津井健に憧れていたので、弁護士に憧れていたのです。
でも、高校時代の模試で志望校を「法学部」にしていたら、模試の成績は悪くなかったのに父親の機嫌がものすごく悪かったという話を聞かされたんですよね。結局は、医者なら医学部に入れればまずなれるけど、それなりの大学の法学部に受かっても、弁護士には司法試験という高い壁があるから……とも考えて、いま、ここにこうしています。
とりあえずなんとか食べていけているし、「間違った選択ではなかった」とは思ってる。でも、これでよかったのかな……と考えずにはいられない夜もある。「向いてない」と自分でも感じることが多いしね。

僕は息子に「医者になる必要なんてない、むしろ、お前はならないほうがいい。というか、もっと他の面白そうな人生を見つけてほしい」と言いたい。
でも、結局のところ、「親が医者(あるいは、世間から「あなたもお父さんと同じ仕事をするんでしょ?」と言われる職業)であること」そのものが、子供にある種のプレッシャーを与えるのです。
「医者になれ」も「医者になんかなるな」のどちらが正しいか、なんてことはわからないし、「好きなことをやれ」と言われたとしても、「親が医者である」という現実は、子供のスタート地点に影響を与えずにはいられない。


また脱線してしまってすみません。
この『きのうの神様』、西川美和さんと「医者に憧れる人」「医者が大嫌いな人」にオススメしておきます。
『ディア・ドクター』も観てみようかな。

アクセスカウンター