琥珀色の戯言

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一九八四年[新訳版] ☆☆☆☆

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
“ビッグ・ブラザー”率いる党が支配する全体主義的近未来。ウィンストン・スミスは真理省記録局に勤務する党員で、歴史の改竄が仕事だった。彼は、完璧な屈従を強いる体制に以前より不満を抱いていた。ある時、奔放な美女ジュリアと恋に落ちたことを契機に、彼は伝説的な裏切り者が組織したと噂される反政府地下活動に惹かれるようになるが…。二十世紀世界文学の最高傑作が新訳版で登場。

村上春樹さんの『1Q84』が大ベストセラーになったことで、あらためて注目されている、この『1984年』。未読だったので、僕もこの機会に読んでみました。
本当は、『1Q84』の前に読んでおきたかったのだけど。
同じように考えている人は、やはりたくさんいるみたいで、7月に出たばかりの、この「新訳版」は、発売後すぐに3万部を超えるベストセラーになり、まだまだ売れ続けているようです。

BIG BROTHER IS WATCHING YOU.

戦争は平和なり

自由は隷従なり

無知は力なり

ただ、正直なところ、いまの時代に読んでみると、1949年に出版されたこの作品の「イデオロギー」的な部分には、やっぱりすでに「古いなあ」あるいは、「よくまとまってはいるけれど、そんなことはみんなわかってるだろ……」という気分にはなってしまうんですよね。
出版当時の『1984年』は、オーウェル自身の見解はさておき、「来るべき共産主義社会の恐怖」を描いた作品として世間に認知され、ビッグ・ブラザー=スターリン、ゴールドスタイン=トロツキーと解釈されていたようです。
そういう意味では、「共産主義社会が本当に来るのではないかとみんなが考えていた1949年の人たちが読んだ『1984年』と、この「共産主義国家の失敗を目の当たりにした2009年の僕たちが読む『1984年』」は、同じ作品でも、受け手にとってのインパクトは全く異なるものなのかもしれません。
やっぱり、「ああ、1949年の人たちは、こんなことを考えていたんだなあ」というような「歴史」として評価してしまいます。

しかしながら、この作品、そういう「歴史の流れによって過去の歴史となってしまった部分」以外にも、さまざまな「読みどころ」があるんですよね。
物語後半での「洗脳」と、それを受けた人間の意識の変化、そして、根源的な人間の「身勝手さ」は、ジョージ・オーウェルは、どうやってこれを書いたんだ?まさか実際にこんな拷問を受けたことがあるわけじゃないだろうし……と考えずにはいられない迫力です。
これを読みながら、村上春樹作品のなかで、『1984年』の影響を受けたのは『1Q84』だけではないのだな、と僕は感じていました。
ねじまき鳥クロニクル』の「皮はぎボリス」のシーンの目をそむけたくなるようなリアリティは、まさに、この『1984年』の後半がモチーフだったのではないかと。

そして、『1984年』のビッグ・ブラザーに対して、『1Q84』には、リトル・ピープルという「世界を見守るもの」が描かれていますが、これは、「共産主義の死」=「ビッグ・ブラザーの死」ではなかった、ということなのでしょう。
現代には、ひとりの人間の姿をした、わかりやすい記号としての「ビッグ・ブラザー」は存在しない。
でも、「ビッグ・ブラザー的な存在」は、死んだわけではない。

以下は、『エルサレム賞』受賞後に『文芸春秋』に掲載された村上春樹さんのインタビューの一部です。

 ネット上では、僕が英語で行ったスピーチを、いろんな人が自分なりの日本語に訳してくれたようです。翻訳という作業を通じて、みんな僕の伝えたかったことを引き取って考えてくれたのは、嬉しいことでした。
 一方で、ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思うのは、ひとつには僕が1960年代の学生運動を知っているからです。おおまかに言えば、純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残り、自分の言葉で誠実に語ろうとする人々が、日和見主義と糾弾されて排除されていった。その結果学生運動はどんどん痩せ細って教条的になり、それが連合赤軍事件に行き着いてしまったのです。そういうのを二度と繰り返してはならない。
 ベトナム反戦運動学生運動は、もともと強い理想主義から発したものでした。それが世界的な規模で広まり、盛り上がった。それはほんの短い間だけど、世界を大きく変えてしまいそうに見えました。でも僕らの世代の大多数は、運動に挫折したとたんわりにあっさり理想を捨て、生き方を転換して企業戦士として働き、日本経済の発展に力強く貢献した。そしてその結果、バブルをつくって弾けさせ、喪われた十年をもたらしました。そういう意味では日本の戦後史に対して、我々はいわば集合的な責任を負っているとも言える。

僕は、こういう「無名の人たちが、ネットなどで『おかしなことを言うと炎上させるぞ』という圧力をかけている状況」が「正論原理主義」であり、そういう「世間の雰囲気」が、「リトル・ピープル」なのではないか、と考えているんですよ。彼らは、ビッグ・ブラザーのような、「わかりやすい個としてのイメージ」を持たない。だからこそ、逆に「打倒することが難しい」。
共産主義は敗北して、「自由」が勝った、ということになっているけれど、今の世界は、そんなに「自由」なのだろうか?
(まあ、こういうことを書いても思想警察が来ないというくらいには「自由」ではあるのでしょうが)

 党は、オセアニアは過去一度としてユーラシアと同盟を結んでいないと言っている。しかし彼、ウインストン・スミスは知っている。オセアニアはわずか四年前にはユーラシアと同盟関係にあったのだ。だが、その知識はどこに存在するというのか。彼の意識の中にだけ存在するのであって、それもじきに抹消されてしまうに違いない。そして他の誰もが党の押し付ける嘘を受け入れることになれば――すべての記録が同じ作り話を記すことになれば――その嘘は歴史へと移行し、真実になってしまう。党のスローガンは言う、”過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする”と。それなのに、過去は、変更可能な性質を帯びているにもかかわらず、これまで変更されたことなどない、というわけだ。現在真実であるものは永遠の昔から永遠に真実である、というわけだ。実に単純なこと。必要なのは自分の記憶を打ち負かし、その勝利を際限なく続けることだけ。それが<現実コントロール>と呼ばれているものであり、ニュースピークで言う<二重思考>なのだ。

この『1984年』ブームのなか、先日聴いたラジオ番組で、「日本オーウェル協会」の前会長という人が、こんなことを仰っていました。

「イギリスの高校生にいちばん読まれている小説は、この『1984年』なんです。なぜかというと、『統一テストに出やすい』から。オーウェルは、英語の文学の世界では、名文家として認知されているんです。


日本でいえば、『こころ』とか『徒然草』といったポジションなのでしょうか、この『1984年』が!
こんな「特定の思想に偏っており、内容も簡単ではなく、性的・残酷な描写も少なくない小説」が「課題図書」的な存在であるイギリスっていうのは、ある意味すごい国だと思います。
日本では、ちょっとありえない話です。


ちなみに、この話には続きがあって、この新訳版の訳者の高橋和久さんによると、イギリスでの「読んだふり本」(実際は読んだことがないのに、「読んだ読んだ!」って、つい言ってしまう本)の第1位が、この『1984年』なのだそうですけどね。
なんだか、それを聞いてちょっと安心しましたよ僕は。


新訳にはなりましたが、けっして「読みやすい本」ではありません。少なくとも日本人にとっては、『1Q84』よりもはるかに読みにくい(テーマについては、『1Q84』のほうが難解かもしれないけど)作品でしょう。
でも、読んでしばらく経ってみると、とりあえず、「本好きにとっては、ひとつのルーツとして押さえておくべき作品ではあるな」とは思うようになりました。
ここに書かれている「政治的なイデオロギー」は古びても、「人間の弱さ、脆さ」は、普遍的なものだから。

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