琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

「空気」と「世間」 ☆☆☆☆


「空気」と「世間」 (講談社現代新書)

「空気」と「世間」 (講談社現代新書)

内容紹介
「空気」の存在に怯えている人は多い。なぜ「空気」は怖いのか? その正体を探っていくと見えてきたのが、崩れかけた「世間」の姿だった……。人気の脚本・演出家が、阿部謹也山本七平といった先人の仕事を現代に投影させながら、自分の体験や発見を踏まえた会心作!
「空気」と「世間」を知り、息苦しい現代日本を生きていくための方法を示します。

 以前、鴻上さんの『孤独と不安のレッスン』という本に感銘を受けた僕としては、あの鴻上さんが「空気」というものに対して、どんなアプローチをしていくのか、非常に楽しみでした。
 この本のオビには、こんなふうに書いてあります。

 「空気を読まずに息苦しい日本を生き抜く方法」―会社、学校、家族、ネット、電車内―どこでも「うんざり」してしまう人へ

 僕はまさにこの「うんざり」してしまう人間なんですよね……

 この本の第1章で、鴻上さんはこんなふうに書いておられます。

 「空気」の正体が分からないと、「空気を読め」という言葉は無敵にもなります。
 あなたの想像力は徹底的にあなたを苦しめます。
 それは、他人の想像力よりも徹底的です。あなたは自分自身がどういうことに悩み、傷つき、苦しんでいるかを知っています。人間関係に自信がないのか、ユーモアがないと思っているのか、気の利いたセリフが言えないと悩んでいるのか、誰からも好かれてないと思っているのか。
 あなたが深く悩んでいることは、じつは、あなた自身しか知りません。
 ある日、あなたは集団の中にいる時、「空気を読め」と言われたとします。あなたは、何が悪かったのか、何が間違っているのか、具体的には分かりません。
 もちろん、説明もされません。ただ、あなたはなにか、まずいことをした・言った、ということだけははっきりしています。
 そういう時、あなたは自分自身の想像力で、その「空気」の内容を決めます。あなたしか知らないあなたの悩みを、「空気」に当てはめるのです。
 誰にも言ってないけれど、人間関係が苦手だと思っていた人は、「空気を読め」と言われて、「ああ、やっぱり私は人間関係がダメだ」とこっそり解釈して、深く傷つくのです。
 いつも気の利いたセリフが言えず、浮いていると思っている人は、「空気を読め」と言われて、「ああ、やっぱり私は面白いことが言えない。つまらない人間なんだ」と思って、落ち込むのです。
 これが、あなたの想像力があなた自身を苦しめるという意味です。
 あなたを苦しめる言葉は、あなたが一番知っているのです。
 他人が、あなたの悩みを的確に射抜くことは、それに比べるとはるかに少ないのです。
 それは、山田さんに面と向かって言われる悪口より、「山田さんが、あなたの悪口を言っていたよ」と他人から聞く方がインパクトが強いという例が教えてくれます。
 面と向かって言われる悪口は、けっこう、的外れなことが多いです。ただ、相手が悪口を言っているという”事実”に傷つきます。こっそり人間関係に悩んでいる人に、「バカ」だの「アホ」だの「ケチ」だの「自信過剰」だのの悪口を投げかけても、悪口を言っている事実に傷ついても、内容に傷つくことはありません。

 この文章など、「ああ、そうなんだよなあ」と頷くばかりです。
 他人は僕のことなど「いちいち悪口を言うほど気にかけてもいない」し、「誤解に基づいてあれこれ言われることのほうが多い」のだけれども、「空気を読め」と言われると、「空気」が何だかよくわからないが故に、「自分がいちばん気にしていること、自信がないこと」を思い浮かべて、自責の念に駆られてしまう。逆に、「空気を読めない人」でも、そういう「自分に対する想像力が乏しい人」は、「俺ってよく、『空気読めない』って言われるんだよね〜」なんて、「他人と違う自分」を誇っていたりするんですよね。
 ネットでもそう。的外れな批判はそんなに腹が立たないけれど、「あなたのそういう態度が嫌いです」って名無しさんに書かれたら、「そういう態度」に、自分でもよくないと常々感じている自分の態度をあてはめて、憂鬱になってしまうこともあります。
 「空気」の困ったところは、抽象的な概念のために、受け取る側の想像力が入り込む余地があまりにも大きすぎることなのかもしれません。
 よく検証してみれば、「空気読め」って言っている側のほうがよっぽど理不尽な状況だって、けっこうあるのに。

 ちなみに、この本では、「世間」という言葉について、こんな阿部謹也さんの表現が紹介されています。

 「世間」という言葉は自分と利害関係のある人々と将来利害関係をもつであろう人々の全体の総称なのである。具体的な例をあげれば政党の派閥、大学などの同窓会、花やお茶、スポーツなどの趣味の会などであり、大学の学部や会社内部の人脈なども含まれる。近所付き合いなどを含めれば「世間」は極めて多様な範囲にわたっているが、基本的には同質な人間からなり、外国人を含まず、排他的で差別的な性格をもっている。

 そして、鴻上さんは、「世間を構成する5つのルールのうち、いくつかだけが機能している状態が「空気」だと述べておられます。
 ちなみにこの「5つのルール」とは、「贈与・互酬の関係」「長幼の序」「共通の時間意識」「差別的で排他的」「神秘性」(詳細はこの本のなかに書かれていますので、興味のあるかたは、ぜひこの新書を読んでみてください)。

 この本には、たくさんの興味深い「空気」の話が書かれているのですが(西洋では、「絶対的な神」の存在があるから、「世間」がなくても人々が生きていけるようになったのではないか、など)、実のところ、「どうやったら、『うんざり』から抜け出すことができるのか?」に対する答えは、はっきりとは出されていません。でも、それは逆に、鴻上さんの誠実さなのかな、とも感じます。
 それでも、ヒントはいくつか散りばめられてはいるのです。

 日本人が「共同体」と「共同体の匂い」に怯えず、ほんの少し強い「個人」になることは、じつは、楽に生きる手助けになるだろうと僕は思っています。
 僕はワークショップという表現のレッスンの時に、いつも、初対面同士の参加者に自己紹介をしてもらいます。参加者の年齢は10代後半から40代、50代までさまざまです。
 その時、日本人は、最初の二、三人が同じ言い方をしたら、残りの二十何人も、みんな同じ言い方になります。
 例えば、最初の人が自分の出身地と年齢を言って、二人目、三人目も同じように出身地と年齢を言えば、残りの人はみんな、そのことを言います。それが、「空気」となって、みんな従うのです。
 でも、そんな「空気」は、じつは、実体のない「空気」です。有能な司会者が求めている「空気」ではありません。そういう時、出身地や年齢を言わず、例えば、自分の趣味や最近はまっているものを言う人が15番目ぐらいに現れると、集団全体がホッとします。みんなが安堵した顔を見せることによって、じつは全員が同じ言い方をすることに重苦しさを感じていたと気づくのです。
 ほんの少し「個人」がしっかりした人は、同じことを言うことに意味がないと思って、幻の「空気」がそこにあっても、自分の言いたいことを言います。
 これぐらいの「個人」の強さは、必要だと思っています。それは、その方が快適だからです。よく、「いいのかなあ?」 これいいよね、ねえ」と大きな声で周りに問い続ける人がいます。誰かの言葉を待っているのです。
 そういう弱い「個人」では、生きていくのは大変だと思います。

 僕は自己紹介のときに、「名前と出身地と年齢」なんてフォーマットが固まったあとに順番が回ってくると、「ああ、自分が最初じゃなくてよかった!」と思いながらフォーマットに乗っかってしまう人間です。そのほうがラクだものね、実際。
 でも、たしかにそういう状況で、誰かが「流れを断ち切る」と、何か解放されたような雰囲気になるというのもよくわかります。自分は「みんなと同じ」ことを選んでいるにもかかわらず、「ああ、みんな同じじゃなくてもいいんだな」という気持ち。
 実際はかなり難しいことだと思うのですが、こういう「肩のこらない自己紹介」のレベルから、「自分だけちょっと違うことを言ってみるくらいの強さ」を身につけることができれば、もう少し「うんざり」しなくなれるのかもしれませんね。
 やっぱりこれは、「空気が読めないこと」に悩んでいる人にとって、一読の価値はある本じゃないかな。

孤独と不安のレッスン

孤独と不安のレッスン

↑の本は、「実践的である」という意味では、この『「空気」と「世間」』より、さらにお薦めです。
2006年の単行本なので、そろそろ文庫になるんじゃないかな、というか、なってほしいなあ。

アクセスカウンター