琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

『琥珀色の戯言』 BOOK OF THE YEAR 2009


今年も残り少なくなりました。
恒例の「今年僕が面白いと思った本ベスト10」です。

いちおう「ベスト10」ということで順位はつけていますが、ジャンルもまちまちですし、どれも「本当に多くの人に読んでみていただきたい本」です。
2009年に発売されたものではない本も含まれていますが、「このブログで2009年に紹介した本のなかで」ということで。
(ちなみに、このブログで2009年中(12/30まで)に感想を書いた本は、150冊。ちなみに去年は186冊、一昨年は158冊だったので、ちょっと減ってしまいました。読んだのに感想を書いていない本もけっこうたくさんあるんですけど、それはまたいずれ。


まず、10位から6位まで。


<第10位>ウェブはバカと暇人のもの

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

この本の詳しい感想はこちらです。

ユーザーが増えれば増えるほど、「ネット」は「多様化」のほうには向かわず、、「少数派の意見を押しつぶそうとする多数派」と「生き残るために、より先鋭化し、攻撃的になった少数派」を生んでいるようにすら思われます。
 「生活を便利にするためのツールとして利用している人」と「趣味として、『ネットの話題をネットですること』にハマっている人」への二極化もすすんできています。

<第9位>天ぷらにソースをかけますか?―ニッポン食文化の境界線

天ぷらにソースをかけますか?―ニッポン食文化の境界線 (新潮文庫)

天ぷらにソースをかけますか?―ニッポン食文化の境界線 (新潮文庫)

この本の詳しい感想はこちらです。

「あなたは天ぷらにソースをかけますか?」
というタイトルを見て、僕は「ソースなんてかけるわけないだろ普通は」と思ったのですけど、そういう僕も「子どものころ、家では天ぷらに醤油をつけて食べていた」という話をして、妻に「天ぷらは天つゆに決まってるじゃない!」と呆れられたことがあるのです。専門店に行けば「天ぷらは塩ですよお客さん」みたいな話にもなりますしね。

九州で知り合ったものの、母親が茨城出身の僕とお母さんが長野出身の妻とは(長野ではおやつ代わりに虫を食べるっていうんだから!)、かなり「家で食べてきたもの」が違うということをずっと実感してきたので、この本にはさまざまな発見と再確認がありました。
いやほんと、自分が食べ物の「標準」「常識」だと思っていたものは、実はものすごくローカルな食習慣だったりするんですよ。

<第8位>新世界より

新世界より (上)

新世界より (上)

新世界より (下)

新世界より (下)

この本の詳しい感想はこちらです。

 上・下巻あわせて1100ページにもわたる「新世界」。まさに「超大作」と呼ぶにふさわしい作品です。
この本、ストーリーについて触れると面白くなくなってしまうと思われるので、あまり多くは語れないのですが、なんといっても、この「新世界」のシステムや生き物などのディテールの作りこみがスゴイのです。
内容そのものは、そんなに目新しいものではないと思うのだけれど、ここに描かれている圧倒的な「異世界」を体験することが、この小説を読む最大の楽しみなんですよね。

<第7位>この世でいちばん大事な「カネ」の話

この世でいちばん大事な「カネ」の話 (よりみちパン!セ)

この世でいちばん大事な「カネ」の話 (よりみちパン!セ)

この本の詳しい感想はこちらです。

 西原さんは、「お金を稼ぐこと」によって、自分の人生の「負のスパイラル」と必死に闘ってきたのだなあ、と、あらためて考えさせられます。
この本のタイトルは、『この世でいちばん大事な「カネ」の話』だけれど、西原さん自身は、本当はそう思ってはいないはず。
でも、「世の中カネじゃない」って信じられるのは、「カネがある人間」の特権なんだよね。「カネ」がなければ、本当に大事なものを守りたくても守れないことが多すぎるから。<<


<第6位>ドキュメント高校中退―いま、貧困がうまれる場所

ドキュメント高校中退―いま、貧困がうまれる場所 (ちくま新書)

ドキュメント高校中退―いま、貧困がうまれる場所 (ちくま新書)

この本の詳しい感想はこちらです。

この新書に書かれている日本の「現実」に、僕はすっかり打ちのめされてしまいました。
これは、少なくとも子ども自身の努力で、どうにかなるような生易しいものじゃない。


埼玉県南部の「底辺校」SA高校の実態を、著者はこんなふうに紹介しています。

 生徒の学力は驚くほど低い。この高校では、定員割れすると中学からの成績がオール1でも入学できる。高校入学まで、小学校低学年レベルの学力のままで放置されている生徒が相当数いる。そのため、教師は1から100まで数えさせるといった補習授業をするのである。順番に数えていけば数えることができても、では「五五の次はいくつ?」と聞くと、10%の生徒はできない。SA高校の生徒にとって数字の理解は三十までで、それ以上の数を概念として理解するのはむずかしいようだ。一円玉、五円玉、十円玉をいくつか出して、「全部でいくらになる?」と聞いてもわからない生徒もいる。「一五三二五は?」と聞いても、高校三年生になっても読むことすらままならない。

続いて、1位〜5位です。


<第5位>13日間で「名文」を書けるようになる方法

13日間で「名文」を書けるようになる方法

13日間で「名文」を書けるようになる方法

この本の詳しい感想はこちらです。

この本を読んでも、たぶん「13日で名文を書ける」ようにはなりません。
しかしながら、「名文」を書けなかったのは、「名文」を書こうとするあまり、あるいは、他人の目を意識しすぎて、書きたいことを書けなくなってしまうからなのだ、ということが、なんとなくわかってきます。

最初の講義で、高橋さんは、スーザン・ソンタグの「若い読者へのアドバイス」を学生たちに紹介しています。

 検閲を警戒すること。しかし忘れないこと――社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、自己検閲です。

<第4位>子どもの貧困―日本の不公平を考える

子どもの貧困―日本の不公平を考える (岩波新書)

子どもの貧困―日本の不公平を考える (岩波新書)

この本の詳しい感想はこちらです。

この『子どもの貧困』は、けっして「読みやすい本」でも「楽しい本」でもありません。
ここに示されているのは、「いかに日本の子どもは貧困であるか」「日本の政治は子ども(と子どもをもつ親)に対して冷淡なのか」という客観的なデータの積み重ねです。だからこそ、印象論や精神論よりも、はるかに「重い」わけですが。

先進国における子どもの貧困率を「市場所得」(就労や、金融資産によって得られる所得)と、それから税金と社会保険料を引き、児童手当や年金などの社会保障給付を足した「可処分所得」でみたものである。税制度や社会保障制度を、政府による「所得再分配」と言うので、これらを「再分配前所得/再分配後所得」とすると、よりわかりやすくなるかも知れない。
これをみると、十八カ国中、日本は唯一、再分配後所得の貧困率のほうが、再分配前所得の貧困率より高いことがわかる。つまり、社会保障制度や税制度によって、日本の子どもの貧困率は悪化しているのだ!


<第3位>チャイルド44

チャイルド44 上巻 (新潮文庫)

チャイルド44 上巻 (新潮文庫)

チャイルド44 下巻 (新潮文庫)

チャイルド44 下巻 (新潮文庫)

この本の詳しい感想はこちらです。

まずひとこと、これは本当に「凄い作品」です。

何ヶ月か前に「リドリー・スコット監督で映画化!」というオビに惹かれ、書店で平積みにされているのを購入。
その後、『このミス』の海外部門で1位になったりもして、これは読まなくては!と、ずっと思っていたのです。
翻訳モノ、舞台がスターリン体制下のロシアということで、なんとなく読み始められなかったのですが、読み始めてみると逆に読み終えるのがつらかった。

<第2位>1Q84

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

この本の詳しい感想はこちらです。

僕は、『1Q84』を読みながら、この村上さんの言葉を何度も思い出しました。

「ぼくらは間違った世界の中で生きている。でも、その間違った世界で生きていかざるを得ない」

1Q84』で描かれている世界が、いびつで不快なのは、考えてみれば、当然のことなのかもしれません。
村上さんは、「間違った世界」を描いているのだから。
そして、その「間違った世界」は、僕たちが生きている世界とよく似ています。

二つの月を持つ「1Q84年」は、「1984年」とは違った世界です。
しかしながら、その二つの世界は、たぶん、同じくらい「間違って」いる。
でも、この「間違った世界」にしか、僕たちの生きていける場所はない。
それなら、ここで生きていくしかないさ、なるべくタフに、クールに。

ああ、感想書いてたら、やっぱりすごく良い作品じゃないかと思えてきたなあ。
こういう「読んだ人が、さまざまに解釈できる懐の広さ」が、村上春樹らしさなんでしょうね。

<第1位>猫を抱いて象と泳ぐ

1位は、以前書いた感想をそのまま再掲させていただきます。

猫を抱いて象と泳ぐ

猫を抱いて象と泳ぐ

 唇が閉じたまま生まれ、切開手術を受けた後も寡黙な少年に育った主人公。架空の友人といえば、体が大きくなりすぎて屋上動物園で生涯を終えた象の「インディラ」と、壁の隙間(すきま)にはまって出られなくなった女の子「ミイラ」だ。7歳で巨漢の師匠にチェスを習い、チェステーブルの下にもぐって熟考する特異なスタイルで天分を発揮、「盤上の詩人」と謳(うた)われた天才アリョーヒンの再来として「盤下の詩人」と呼ばれるまでになるが……

大傑作。僕にとってはいままでの小川洋子作品のベスト1でした。
この小説、たぶん、『博士の愛した数式』ほど、「万人向け」ではないと思うんですよ。
主人公はものすごく内向的な少年だし、彼に影響を与える人たちも、「すばらしいもの」を持っている一方で、世の中をうまく渡っていくための「何か」が決定的に欠けてしまっています。
主人公・リトル・アリョーヒンにチェスを教えてくれた「マスター」は、「チェスを愛すること」にかけては最良の人間であり、盤上で見事なダンスを踊ることができるけれど、現実世界では、仕事も自己管理もまともにできない人物です。

僕は小学校のころ、将棋にものすごくハマっていたのです。
「将棋入門」や「詰将棋問題集」を買い漁り、仕事から帰ってきた父親をつかまえては、対局をせがんでいました。
家のなかにはほかに将棋を指せる人がいなかったため、ひとりで先手後手の役割を決めて指していたものです。先手は矢倉、後手は中飛車、という設定にしたりして。
「そんなの面白いの?」と言われたら言い返せないところではありますが、「それしかなかった」んだよね当時は。
結局小学校高学年になってからは「テレビゲームの創世記」に居合わせてしまったがために、プロ棋士になるよりも「ゲームデザイナー」になりたいな、と思うようになっていったのですけど。
もし、いまみたいにネットでいろんな人と対局できる時代であれば、僕はもっと真剣に「棋士」を目指していたかもしれません。
昔、某有名棋士が、「俺は頭が良いから将棋指しになったけど、兄は頭が悪かったから東大に行った」と言っていたというエピソードを聞いて、「カッコイイ!」とか思っていましたしね。

かなり脱線してしまいましたが、そんなわけで、僕はいまでも将棋が好きですし、棋士が書いた本や棋士についての小説もよく読みます。
もちろん、「チェス」と「将棋」というのは似て非なるゲーム(という言い方は不適切なのかもしれませんけど、あえてこう言わせてください)なのですが、この2つのゲームにおけるプレイヤーたちの「美学」みたいなものは、洋の東西にかかわらず、共通している部分が大きいのではないかと思うのです。
将棋やチェスは、その行為そのものには何の生産性もありません。食べられるわけでもないし、人の目や耳に無理やり飛び込んでくるようなものでもない。
でも、「現実的な意味をもたない」からこそ、そこには「純粋な知的悦楽」があるような気がします。

この小説の「あらすじ」を読んだとき、僕は、「ああ、これは”リトル・アリョーヒン”という変わった天才チェス・プレイヤーが、奇行を繰り返しながら、難敵をバッサバッサとなぎ倒していく『月下の棋士』みたいな話なのかな」と想像していました。将棋界もそうですが、チェスの世界でも、そういう「チェスの天才たちの奇行」がたくさん知られています。
(例:ボビー・フィッシャー(Wikipedia))
まあ、名人というのは、ある種の「正規分布から外れた人」なのですから、そこにわれわれからみた「常識人」の枠組みをあてはめることそのものが間違いなのかもしれません。

ところが、この『猫を抱いて象と泳ぐ』の主人公は、そういう「自分が奇人であることにすら気づかないレベルの超越者」ではなく、むしろ、「社会で推奨されている『役に立つこと』に人生の意義を見いだせない引きこもり」であるようにすら思われます。彼はチェスに魅せられたけれど、それは、ある種の「現実逃避」のようにも感じられるのです。
ただ、僕は彼のそういう「弱さ」が、読んでいてとても愛しくてしょうがなかった。
だって、そこにいたのは、現実や学校や勉強が嫌で、本とゲームの世界にだけしか生きがいを感じられなかった、あの頃の僕そのものだったから。
リトル・アリョーヒンほどの才能も集中力もなかった僕は、こうして世界の「普通」の端っこになんとかすがりついて生きているけれど、僕はこういう人生を望んでいたのだろうか?といまでもときどき思うのです。
正直、ここで小川さんが語られている、リトル・アリョーヒンの人生は、起こった事実だけを年表みたいに並べてみれば、本当に「せつなくて、いたたまれなくて、周りの大きな力にもてあそばれてばかり」のものでしかありません。
にもかかわらず、彼の人生は、すごく静謐で、優しくて、美しい。
小川洋子さんは、読者からすると「登場人物をそんな目にあわせるなんて」というような話を、とても温かい目線で見つめていながらも、「でも、人生はそういうものだから」と冷静に書き切ってしまう「残酷な作家」だと思います。
外見も話しぶりがものすごく穏やかな印象があるだけに、「人の心のなかに秘められたもの」について、考えさせられることが多い人なんですよね。

「チェスを指していると、いろいろ不思議な気持を味わうよ」
 少年は言った。
「心の底から上手くいってる、と感じるのは、これで勝てると確信した時でも、相手がミスをした時でもない。相手の駒の力が、こっちの陣営でこだまして、僕の駒の力と響き合う時なんだ。そういう時、駒たちが僕が想像もしなかった音色で鳴り出す。その音色に耳を傾けていると、ああ、今、盤の上では正しいことが行われている、という気持ちになれるんだ。上手に説明できないけど……」
「ああ、分かるよ、よく分かる」
 マスターは親指を立て、OKサインを出した。
「つまり、最強の手が最善とは限らない。チェス盤の上では、強いものより、善なるものの方が価値が高い。だから、坊やの気持は正しいんだよ」

ある有名な棋士が、「将棋指しとしての最大の目標は、タイトルを獲ることではなくて、後世に遺るような棋譜を生み出すことだ」と書いていたのを読んだことがあります。
もちろん、勝てなくてはプロになれないのですが、選ばれた者には、「勝ち負けを超えた何か」が見えているのかもしれません。

あと、この作品を読んでいてあらためて感じたのですが、「小説」ってズルい。
「ひとりひとり違う、心のこもった棋譜」についての小川さんの文章を読んだだけで、チェスの駒の動かし方くらいしか知らない僕も、「チェスの世界の深さを垣間見たような気分になれる」のだから。
もし、これが本物の「棋譜そのもの」であれば、たぶん、理解できる人はごく少数だろうし、「この棋譜じゃ感動できない」という人もいるはずです。
小説のなかには「誰にとっても絶世の美女」が存在しても、現実にはそういう人間は存在しないのと同じ。
だからこれはまさに「小説でしか描けない世界」なのでしょうね。

というわけで、『琥珀色の戯言』の2009年のベスト10でした。

今年の僕の読書傾向を総括すると、今年もやっぱり新書をたくさん読んだなあ、と。そして、エッセイが少なめでした。
ただ、新書は出版点数の多さのわりには平均的なレベルはかなり下がってきているという印象が強いです。

今年は村上春樹さんの「エルサレム賞」受賞関連の話題も含めて、「小説」がけっこう盛り上がったような気がします。
1Q84』については、近年あれほど「小説」が話題になったのは、綿矢りささんの芥川賞以来なわけで、それだけでも十分価値があることのはず。
僕自身、自分が「親」と呼ばれるものになってみて、本の読み方がちょっと変わってきたのかもしれません。
以前より、社会問題や未来の子供たちが直面するであろうことに対して、「問題意識」が出てきたようです。
まあ、とにかく来年も「面白い本」をジャンルや「役に立つか」にこだわらず、読み続けていくつもりです。

今年の締めくくりに、この文章を。

<狐>が選んだ入門書』(山村修著・ちくま新書)より。

 一個の作品として光る本を読むことの幸福。そのことを考えるとき、私がいつも思い出す一篇の詩があります。フランスの作家ヴァレリーラルボーの書いた『罰せられざる悪徳・読書』(岩崎力訳、みすず書房)に引かれた「慰め」という散文詩です。作者はローガン・ピーアソール・スミスというアメリカ生まれの詩人、文法学者です。
 詩の主人公「私」はある日、打ちひしがれた気持ちで地下鉄に乗りこみました。かれがどうして打ちひしがれているのか、それは分かりません。かれは、私たち人間の生活にどんなよろこびがひそんでいるか、しきりに考えます。しかし、ほんのすこしでも関心を払うに価するよろこびが、生活のなかにあろうとは思えませんでした。酒もだめです。食べものもだめです。友情もだめです。愛もだめです。
 駅に到着しました。エレヴェーターで、地上にのぼっていかなくてはなりません。このエレヴェーターに乗って、ほんとうに地上の世界にもどる価値があるのだろうか。かれは自問します。つづく一節を、岩崎力訳から引いてみます。

<だが突然、私は読書のことを考えた。読書がもたらしてくれるあの微妙・繊細な幸福のことを。それで充分だった、歳月を経ても鈍ることのない喜び、あの洗練された、罰せられざる悪徳、エゴイストで清澄な、しかも永続するあの陶酔があれば、それで充分だった>

 この一節は私の身にしみました。私も三十年間、勤め人生活をおくっていますが、生活者には、本などとまったくかかわりのないところで、さまざまな困難に打ちあたることがあります。それこそ、この詩の「私」のように、うなだれて地下鉄に乗りこむことなど、めずらしくもないでしょう。生きているかぎり、当然のことです。
 しかし、本がある。どんなときにも読書というものがある。本好きはそれを救いをすることができます。むずかしい局面に立たされたとき、なにもその局面に直接的に関係する本をさがして読むこともありません。なんでもいい、いま自分がいちばん読みたい本を読むのがいいのです。


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