琥珀色の戯言

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巡礼 ☆☆☆☆


巡礼

巡礼

内容(「BOOK」データベースより)
いまはひとりゴミ屋敷に暮らし、周囲の住人たちの非難の目にさらされる老いた男。戦時下に少年時代をすごし、敗戦後、豊かさに向けてひた走る日本を、ただ生真面目に生きてきた男は、いつ、なぜ、家族も道も、失ったのか―。その孤独な魂を鎮魂の光のなかに描きだす圧倒的長篇。

ワイドショーやドキュメンタリーで採り上げられる、さまざまな「ゴミ屋敷」。
実際に近所に住んでいる人たちと、テレビ画面を観て「たいへんだねえ〜」なんてニヤニヤしているだけの僕とは、当然「立場」も違うのですが、ゴミ屋敷の主を「理解不能の迷惑な人」と認識していることは共通しています。
この『巡礼』では、橋本治さんが、そんな「ゴミ屋敷の主」と「戦後」という時代を伴走しながら、「どこにでもいる、真面目で要領の悪い男」が、「ゴミ屋敷の主」になっていくまでを描いていくのです。
僕は、ああいう屋敷の主は、「明らかに異常な人」だと思っていたのですが、この物語(どこまでが事実に則しているのかは不明)の主人公のように、「ちょっとした人間関係のもつれ」や「家族の病気」によって、「希望を失い、身の回りのことができなくなってしまった人」というのは、けっして少なくないように思います。
もともと片づけが苦手な僕も、同じような立場になったら、「ゴミ屋敷」をつくっていた可能性だってあります。
ただ、この作品は、「男が孤独になるまで」を丁寧に描いている一方で、「なぜ、その孤独感が『ゴミ屋敷』につながってしまったのか?」は、端折られているんですよね。
個人的には、この男の孤独は理解できるけど、この世界に孤独な人が数えきれないほど存在するなかで、なぜ、彼は「他人からみるとゴミでしかないもの」にこだわったのか、こだわらずにはいられなかったのか、その「違い」あるいは「過程」を知りたかったのですが、それはちょっと残念でした。
あと、終わりがあまりにあっけないというか、あっさりしすぎていて、「戦後を真面目に生きすぎてしまったある男の悲劇」と読むべきなのか、ガルシア=マルケス的なマジックリアリズム文学として、淡々と受け入れるべきなのか、悩ましい気がしました。これが「救済の物語」なのだとしたら、あまりに悲しすぎないだろうか。

 悪臭の源がどこにあるのかは、一目瞭然だった。目の前にある。正視に堪えないようなゴミの山が、古い屋根瓦の二階家と寄り添うようにして、悪臭を放っている。そこにあるのが悪臭の源であることは歴然で、にもかかわらず、手の打ちようがない。そこにあるのは「ゴミ」だが、住人は「ゴミではない」と言う。「ゴミ」でなければ、住人の「私有財産」で、これを勝手に撤去することが出来ない。保健所の出動が要請されたのは初めてのことではないから、職員の方も慣れている――慣れているのは、ただ「手の打ちようがない」ということに対してだけではあるが。

僕はこの小説を読みながら、「もしこのゴミ屋敷が、自分の家の向かいにあったらどうだろう?」と考えずにはいられませんでした。
この小説を読むと、「男がゴミ屋敷をつくってしまった理由」に対して、共感も同情もできるんですよ。
でも、実際に「そこで生活すること」を想像すると、「理由はどうあれ、迷惑だから許せない」というのが現実じゃないかなあ。

以前、あるコンサートに行ったとき、どうも異臭がするなあ、と感じました。
その臭いはどんどん強くなってきて誰かが近くで、おならを連発し続けているとしか思えない状況。

その理由は、途中休憩のときにわかったのです。
近くの席に座っていた高齢の女性が、隣の人に「大腸がんの手術をして、人工肛門をつくっているのだけど、今日はちょっと便がゆるくて……」という話をしていたんですよね。
(ちなみに、最近の人工肛門は、普段は、ちゃんとメンテナンスされていれば「臭いで周囲の人が困る」ということはまずありません。調子が悪かったから、だったのでしょう)
僕は、それを聞いて、「ああ、『迷惑だとか思って、悪いことしてしまったなあ……」と反省しました。
しかしながら、その一方で、「僕に責任があるわけじゃないのに、せっかくのコンサートをこんな状況で鑑賞しなければならないなんて……」と恨めしく思ったのも事実です。
僕は、本当に狭量な人間なんですよ、情けないことですが。

親から何も食べさせてもらえずに飢えた子供がパンを盗んだ、という話に、多くの人は同情するでしょう。
でも、自分の家からパンが盗まれても、それを許容できる?

秋葉原で大量殺人を犯した男への共感の声は、ネット上ではけっして小さなものではありません。
でも、殺されたのが自分の大事な人でも、「そんなに追いつめられていたのなら、しょうがない」って言える?

「相手を理解すること」によって埋められる溝もあれば、「そういう事情であっても、許せないものは許せない」こともある。
この「ゴミ屋敷」の話は、僕にとって、その「境界線」はどのくらいなのだろう?と考えさせられるものでした。

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