琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

ヘヴン ☆☆☆☆☆


ヘヴン

ヘヴン

「産経ニュース」の【書評】より。

主人公の「僕」は14歳。斜視のせいかクラスでいじめを受けている。「僕」は悩む。なぜ自分はこんな目に遭うのかと。そんな僕の元に一通の手紙が舞い込む。〈わたしたちは仲間です〉−−同様にいじめを受ける同じクラスの女子・コジマは「僕」を同類として迎え入れる。痛みを知る自分たちこそ正しい存在なのだと説き、「君の目が好き」と自分のすべてを承認する彼女に「僕」は惹(ひ)かれていく。一方、「いじめる側」の生徒・百瀬は「僕」に、「僕」がいじめられるのは斜視のせいではない、と告げる。集団には生贄(いけにえ)が必要なのであり、そこでは理由なく相対的に不利な位置にいた者が当てはめられるに過ぎないのだ、と。コジマの宗教的な崇高さと、百瀬のシステム論的な理解の間で「僕」は揺れる。

「2010年ひとり本屋大賞」5冊目。
この小説を読みながら僕がずっと感じていたのは、「耐えがたい不快感」でした。
「苛められること」で、どんどん追いつめられていくにもかかわらず、自分からは現状を打破しようとしない主人公。
苛めを受けるうちに、「苛められることは、自分が特別な人間である証なのだ」と、「殉教者」のような恍惚を漂わせるコジマ(コジマは、「主人公がコンプレックスを感じている身体的特徴」を「証し」だと言う一方で、彼がそれを治療できる可能性を話すと、「裏切られた」と憤ります)。
そして、平然と「理屈」を振りかざし、自分の行為を「正当化」する必要性すら感じていない、苛める側の連中。

「君の言ってることはよくわからないな」
しばらくして百瀬はかたほうの眉を少しあげて僕の顔を見て言った。
「よくわからない」
「なにが」と僕は言った。
「まず」と百瀬は言った。
「さっきの話のなかで、それを選べなかったからという点において、僕と君はおなじだって言ったけれど、これは全然違うよね。ごらんのとおり僕は斜視じゃないし、君じゃないし、君は斜視じゃなくないし、僕でもない」と百瀬は笑った。
「君と僕じゃまったく何もかもが違うじゃないか。そしてつぎに、君がさっき話したこと、なんだったっけ、誰にも暴力をふるう権利がないとか、なにもしていないのになぜ放っておいてくれないのかって言ってたね。そういうふうに考えられるってことが僕にはいまいちよくわからない」
「なにがわからないんだ」と僕は言った。
「権利があるかr、人ってなにかするわけじゃないだろ。したいからするんだよ」
 百瀬はそう言うと咳ばらいをひとつして、人さし指の関節をなでるようにさわりながら言った。
「あとなんだっけ、そうだ、無意味なことをするなって君は言ったね? 無意味だってことには賛成できるけど、そんなの無意味だからいいんじゃないか。無意味だから、いいんだろ。それにたいして放っておいてほしいと君が感じるのはもちろん百パーセント、君の勝手だけど、まわりがそれにたいしてどう応えるかも百パーセントまわりの勝手だ。ここんとこはなかなか一致しないもんだよ。君が世界に望む態度で世界が君に接してくれないからって世界にたいして文句は言えないだろう? そうだろ? つまりいまのことで言えば、なにかを期待して話すのは君の勝手だけど、僕がなにを考えてどういう行動にでるのかについては君は原則的にかかわることはできないってことだ。それとこれとはべつの話だってことだよ」
 僕は百瀬の言ったことを頭のなかで繰り返しながら、百瀬の手のあたりを見ていた。

あームカつく! なんだこの連中は!!
おい「僕」、こんな連中、構わないから刺し殺すなり、せめて大人に言いつけるなりしろよ、なんで言いなりになってるんだよ……

昔、転校したとき、ちょっとした「苛めとからかいの中間」くらいの目にあったことがある僕にとってさえも、この小説は、あまりに「不快」なものでした。
川上さんは、「苛める側の暴虐」を描くだけではなく、「苛められる側の恍惚」も、容赦なく書いています。

「ねえ、でもね、これにはちゃんとした意味があるのよ。これを耐えた先にはね、きっといつかこれを耐えなきゃたどりつけなかったような場所やできごとが待っているのよ。そう思わない?」とコジマははっきりとした声で言った。
「あの子たちは、――クラスのみんなはね、なにもわかってないのよ。自分たちのしてることの意味がわかってないのよ。自分のしたことが人をどんな気持ちにさせるものなのか、人の痛みなんて考えたこともないの。ただまわりにあわせて騒いでいるだけなの。わたしだって最初はすごく悔しかったわよ。すごく。だってわたしがこんなふうに汚くしているのは、お父さんを忘れないようにしってだけのことなのだもの。お父さんと一緒に暮らしたってことのしるしのようなものなんだもの。これはわたしにしかわからない大事なしるしなんだもの。お父さんがどこかではいてるどろどろの靴を、わたしもここでひってるっていうしるしなのよ。汚さにもちゃんとした、ちゃんとした理由があるのよ。でもね、あの子たちにそんなこと言ってもぜったいにわからないのよ。そう思わない?」
 僕は肯いた。

僕はこのコジマの言葉を読みながら、「『ちゃんとした意味』なんて、あるわけないだろ、目を覚ませ!」と言ってやりたくてしょうがなかった。
ほんと、「戦えよ、そんな連中、みんなぶっ殺せ!」って、伝えたかった。

……実際は、「苛める側」っていうのは、「苛められても、全部自分の内側で解決しようとして、出口を失ってしまうか、コジマのように『悟ってしまう』人」を見つける嗅覚が優れているのです。
中学生くらいだったら、「苛められていることを、誰かに知られる恥ずかしさ」が、「苛められてている現実の苦しさ」を超えてしまうことだってあるでしょう。
大人になってしまった僕の感覚で、「そんなヤツら、ぶっ殺せ!」って言うのは、それこそ「わかってない」のだと思う。

この小説に登場してくる、やたらと饒舌で自分の言葉を持っている中学生というのは、けっして「現実的」なものではありません。
「こんなヤツ、いないだろ……」と感じる人も多いだろうし、僕だってそう思う。
でもね、川上さんがこの小説で描きたかったのは、単なる「苛めの現実」ではなくて、もっと大きくて、禍々しいものなのではないかなあ。

「他人を傷つけること」=「悪いこと」だと感じる機能が欠落してしまった人間に対して、「正義」とか「優しさ」というのは、通用するのだろうか?
「やりたいことをやって、何が悪い?」と心の底から思っている人間に攻撃されたとき、「力による防衛あるいは報復」以外に、自分を守るための良い方法はあるのだろうか?

「罪の意識すらない加害者」には、「道徳」って、本当に無力なのだと思う。
そして、ネット上では、

君が世界に望む態度で世界が君に接してくれないからって世界にたいして文句は言えないだろう? そうだろ? つまりいまのことで言えば、なにかを期待して話すのは君の勝手だけど、僕がなにを考えてどういう行動にでるのかについては君は原則的にかかわることはできないってことだ。それとこれとはべつの話だってことだよ。

こういう「正論」を振りかざして、他人を傷つけることを「しょうがないこと」だと主張する人たちが大勢いるのです。
現実世界では、ここまで割り切った主張を公言している人はほとんどいませんから、手に触れられる範囲に対しては、人はそんなに冷酷にはなれない、ということなのかもしれませんが……

この小説では、不快なことが、しっかり不快に描かれていますし、川上さんは、「こういう世界」を、美化することも、ことさらに嘆くこともありません。
それはただ、「いま、ここにあるもの」です。
もちろん、「ここ」は、学校の中だけじゃない。

この物語の「結末」は、けっして、ハッピーエンドではありません。
主人公は、「救われた」のか、それとも、「反対側に行くためのパスポートを手に入れた」のか?
彼も、「加害者」になろうとしているのかもしれない。

川上未映子さんは、この作品で、「文体」だけの作家じゃないことを見事に証明されています。
すごく不快だし、世の中が厭になる小説なのだけれど、ここまで圧倒的な「どうしようもない世界」を描かれると、脱帽するばかりです。
これほど「容赦のない『痛み』が伝わってくる作品」というのは、めったに読めません。読むとかなり精神的に消耗してしまうのも事実だけど。



参考リンク: 「どうして人を殺してはいけないのですか?」という問いかけへの「もっとも有効な答え」(活字中毒R。)

久々にTwitterの宣伝など。
http://twitter.com/fujipon2

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