琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

「ゲーム」と「現実」と「表現の自由」


※この文章は、2年くらい前に書いたものを叩き台にしています。


 もうだいぶ昔の話になってしまうのですが、『ドラゴンクエスト3』が発売当時売り切れ続出で買えなかったとき、『ドラクエ強盗』っていましたよね。「ドラクエを買ってスキップしながら帰っていた学生からゲームをカツアゲ」というような話だったと思います。
 そのニュースを聞いて僕は「で、その『ドラクエ強盗』は、家に帰って待望の『ドラクエ』で遊べて、はたして楽しかったのだろうか?」と想像してしまいました。
 犯罪までやってしまうほど遊びたかったゲームではあるのだろうけど、彼(あるいは彼女)は、ゲーム内で「伝説の勇者」として世界を救っている自分と現実とのギャップに、身悶えることはなかったのでしょうか?
「いや、ゲームはゲームだから」って、割り切って楽しく遊べたのかなあ。

 今から20年くらい前の話、『テクノポリス』というマイコンゲーム雑誌で、ひとつの論争が行われました。
 それは、光栄(現KOEI)の『提督の決断』という太平洋戦争を題材にしたゲームに対する論争だったのですが、そこでは、

 あれだけ多くの犠牲者が出た「戦争」を「ゲーム」として愉しむのは不謹慎なのではないのか?
 ゲームの中でプレイヤーが「戦争指導者」として、ひとりひとりが「命」を持っているはずの兵士たちを、いかにも「単なる数字」のように扱って、「ああ、300人の犠牲なら上出来だな」みたいに感じるようになるのは「危険」なのではないのか?」

 という意見に対して、「その通り!」という人と「ゲームはゲームだ」「考えすぎ」「ゲームがガス抜きになるはず」などの反対派がかなり激しく争っていました。なかには、「戦争ゲームをプレイすることによって、日本の愚かな行為を実感できるのだから、むしろ『提督の決断』は『反戦ゲーム』なのだ!」と言う人まで出てきて、さすがにそれはどうかな、と僕は思ったのですけど。

 ゲームと現実世界との「つながり」について考えるたびに、僕は、この論争のことを思い出します。

 「ゲーム脳」っていうのは、ゲームを悪者にしたい、あるいはゲームが理解できないメディアの妄想だし、この話に出てくるように「ゲーム10本、マンガ100冊が殺人の元凶!」みたいなのは「本気でそう思っているなら、お前のほうが『メディア脳』じゃないのか?」という感じなのですが(いや、そのくらいで『ゲームが原因』だというのなら、僕はもうクラウザー様になってますよ本当に。『バイオハザード』が、どのくらい売れたか調べればすぐわかるはずなのに……

 ただ、その一方で、「全くゲームに責任が無いのか?」という点に関しては、「なんともいえない」のではないかという気もするのです。僕自身は「ゲームという娯楽が与えてくれるメリットのほうが大きい」と判断していますが、ある種のゲームが、ある種の人の攻撃性を増幅してしまうようなリスクは「無いとは言い切れない」のではないかと。
 堀井雄二さんは、ドラゴンクエストでの「死の表現」について、

ドラクエでは、モンスターを『やっつけた』って言葉に拘ったんです。『殺す』という表現は使いたくなかった。」

 と仰っています。
 少なくとも堀井さん自身は、「ゲームというのは、プレイヤーになんらかの『影響』を与える可能性がある」と考えておられるようです。
 もちろんそれは「悪い影響」だけではありませんが。

 まあ、僕は基本的にゲームがいちばん「素晴らしいところ」は「面白い」ということに尽きると思ってはいるのです。
 そうすると、「じゃあ『面白い』って、どういうこと?」という疑問も湧いてはくるのですが、とりあえず、時間を忘れるくらい夢中になれるというものって、世の中にはそんなにたくさんはありませんからね。

 「所詮ゲームだから」って言えるようなゲームは「所詮面白くない」のですが、「現実」への影響を不安視するあまり、規制が厳しくなったり、教条的なゲームばかりになっても面白くない。

 「リアルな戦場体験ができるゲーム」は、たぶん大部分の人にとって、「ゲームだからこそ体験できる娯楽」なのでしょう。
 それとも、「自分さえ死ななければ、みんなけっこう本物の戦争も好き」なの?


 僕はいま一部で盛り上がっている(しかしながら、僕の周りには、そんな話を日常会話でしている人はひとりもいないんだけど)、都の「表現規制」について、こんなことを考えているのです。
 実際に表現そのものは、法的に規制されるべきではないと思うし、そんな規制が必要ない世界が理想だとは思う。
 でも、「フィクションの(実在しない)女の子がレイプされるのだったら、被害者はいないのだから全然悪くないだろ!」と声高に叫ぶ人たちの姿をみると驚愕せざるをえないんですよ。
 えっ、そういうのって、人間としてどうしようもない欲望みたいなものなのだろうけど、大声で社会に向かってアピールできるようなカッコいいことなの?
 レイプは法律に触れるし、それ以前に、現代社会において、「人としてやってはいけないこと」ではないのかね。
 相手が「非実在」であるという理由で、その行為に「うしろめたさ」を感じない人間が増えていくのは、危険だと思わない?
 本当は、相手が「非実在」だって、やるべきじゃないことのはず。
 いや、やむにやまれず「人に見られないように隠れてゲームで解消するから、そのためのツールを撲滅しないでくれ」という願いは僕も共有するし、社会も許してあげるべきだと思うんですよ。
社会に対して、「表現の自由は守られるのが当然だ!」と高飛車にアピールするのではなく、「危険視する人がいるのもわかるけれど、自分たちはこれを現実に反映させて他人を傷つけることは絶対にしない。だから娯楽として、フィクションの中では許容してほしい」と訴えるほうが「届く」のではないかなあ。

 それでも、いまの日本ほど「性」に関する情報が氾濫していて、ゾーニングが甘い国は、少なくとも「近代国家」が誕生して以来無いはずです。
 「表現の自由」が先天的に与えられていて、今後も永続するのが当然だと考えている人は、歴史をもっと学ぶべきだと思うよ。

 だいたいさ、「表現の自由」を標榜している連中が、寄ってたかって、「女性の前で、恥じらいもなく性的欲望をちらつかせる男性に恐怖を感じる」という、至極まっとうな「個人的な見解」を述べた人に誹謗中傷を投げつけているのをみると、「表現の自由」のほうだって、こんなやつらに応援してもらいたくはないだろうと感じます。

ヴォルテールに、こんな有名な言葉があります。

“私は、お前の言うことに反対だ。だが、お前がそれをいう権利を、私は命をかけて守る”

ネット上では「表現の自由」を強硬にアピールしている人たちが、他人の「表現」を圧殺しているのです。
それじゃあ、「表現の自由」を求めているわけではなくて、「自分だけは何を言ってもいいという権利」を主張しているだけなのでは。
(そう言うと、「お前も俺たちの表現を圧殺しているじゃないか、ブーメランだ!」とか言い出す人たちが出てくるんですよね。あらかじめ言っておくと、僕は最初から圧殺(までは難しいので、「抑制」)しようという意思を持って書いているのであしからず)

実際のところ、『テクノポリス』で「戦争ゲーム論議」が起こってから、20年以上経っても、日本はそんなに好戦的な国家になってはいないようですから、ゲームは大きく人間を変えることはないのかもしれません。

もしかしたら、子供たち自身は、「表現規制」なんて、どうでもいいんじゃないかな。
結局のところ、規制があればあるなりに、表現は形を変えて、子供たちを刺激しようとするだろうから。
ハレンチ学園』なんて、ある意味、いまのエロマンガよりはるかに差別的で女性蔑視的だったし。
「悪影響を与える」以前に、「つまらない表現なら、見向きもされない」だけの話で。

大人気の絵本『かいけつゾロリ』の作者・原ゆたかさんは、こんなことを仰っておられます。

「子どもたちは、おもしろいものを一番よく知っています。本もゲームもアニメも、同じようにおもしろいものはおもしろいし、泣けるものは泣ける。本のページをめくる楽しいモノとして作ったのが、ゾロリなんです」

僕が息子にいくら「ためになる話」を読んで聞かせようとしても、息子はすぐ飽きてしまうんですよね。
昔の僕がそうだったように、子供だって、「親が聞かせたい話」よりも「自分が愉しいと思える話」を読みたいに決まっています。

最後にもうひとつ。大部分の人間は、「暴力が好き」であり、「暴力が嫌い」なんですよ。その両面を抱えて生きている。
僕だって、暴力大嫌いだけど、『龍が如く』で自転車を振り回す夜もある。
大事なのは、欲望の存在を理解することと、それをうまく飼いならしていくこと、それを恐れる人の目に、なるべく触れないようにすること、ただ、それだけなんじゃないかと思います。
簡単そうに書いたけど、それはすごく難しいことではあります。
だからこそ、「理性」っていうのは、他人の心からの言葉を「感情的!」と非難するときに使うものじゃなくて、自分を律するために使うべきものなのです。

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