肺がんで闘病されているのを耳にしていたのと75歳という年齢から、そんなに驚きはしなかったのですが、僕が本を読み始めた時期に最前線で活躍していた作家たちがこうして鬼籍に入られるのは、やはり寂しいことではありますね。
井上さんは、ユーモラスで優しそうな風貌が印象的だったのですが、その陰に家族へのDV疑惑があったり、数々の「遅筆伝説」をつくったりと、さまざまな面を抱えていた人だったと思います。
以下に、井上さんが書かれた文章について『活字中毒R。』で採り上げたものを挙げておきます。
題は出しません。題は、自分で考えてつけてください。題名をつけるということで3分の1以上は書いた、ということになりますから。
それだけ題名というのは大事なんです。
おばあさんは僕に、まっとうに生きることの意味を教えてくれたんですね。
そういう思い出がこの一関にはあるんです。僕の『長期記憶』に、今でもしっかり残っているんですね…。
柔軟な心のはたらきに欠ける機械的態度からは、カならず笑いが生まれます。だから小喜劇といっているのですが、いっそうおもしろいことに、若い人たちは、自分たちが喜劇を演じていることに気がつかない。あるいは、気にしていない。
もとより新しいことばを考えつくのは小説家や学者だけとは限りません。じつは、ごくふつうの市民もたいへんすぐれた考案家なのです。
「ある程度の長さの文章を書いてから、それを短くまとめるとき、最初に削るべきところは、『自分がいちばん気に入っているところ」だと、井上さんは『文章教室』で書かれていました。井上さんによると、自分で気に入るようなところというのは、物事を客観的にとらえられていないことが多いし、他者からみると、表現が過剰だったり冗長だったりして、かえって「面白くない」ことが多いそうなのです。
いまあらためて考えてみると、これは確かに正しいのだけれど、それと同時に、「自分自身の矛盾を見つめながらも、それを『正常化』することができなかった、人間・井上ひさしの『自分自身への不信感』が反映されている」のかもしれませんね。
最後に、Wikipediaへのリンクを貼っておきます。
井上ひさし(Wikipedia)
誠実な社会人であることと、残酷な家庭人であること。
偉大な芸術家であることと、矮小な人間であること。
井上さんも、周囲の人たちも大変だっただろうな、と思います。
謹んで御冥福をお祈りします。