琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

「書評」ではなく、「感想」でありたい。


参考リンク:よい書評には何が必要なのだろうか。 (『基本読書』 2010/5/6)
 ↑のエントリ、非常に興味深く読ませていただきました。
 「一緒に紹介されている『書評サイト』が、みんな大手すぎるだろ!とか思いつつ。

 これを読んで、気になったところがひとつ。
 僕は自分がずっと書いているのは、本の「感想」だと考えています。
 自分で「書評」だと主張したことは一度もありませんし、「書評」という言葉を自分から使ったことも(たぶん)無いはずです。
 まあ、そういうのって、そんなに厳密に線引きできるもんじゃあないのでしょうが、「狐」さんや豊崎由美さんや呉智英さんが書かれている「書評」を読むと、「ある本の価値を客観的に評価する」ためには、ものすごい量と多くの時代にまたがった読書量と分析力が必要とされるのだなあ、と痛感させられます。そういうのって、歴史家が「あるリアルタイムの大事件の世界史的な位置づけ」を語るようなもので、膨大な知識の積み重ねや研鑽、そして、語ろうとしているジャンルへの愛着がないと、「書評」なんて言ってはならないような気がするんですよね。
 もっとも、これは「僕がそう思っている」だけで、みんな同じように考えるべきだ、と言うつもりはありませんが。

 個人的には、ネット上には、「純粋に内容でお金が獲れる書評」というのはごくごくわずかだと思っています。
 というか、ネット上に限らず「お金が取れる書評」というのはほとんどありません。
 そもそも、その文章そのものが面白くて売れるとか、紹介した本が売れるようになるとか、なんらかの利益を生み出すものじゃないと「商売」にはならないし、オリジナルの小説に比べると、「書評」の市場は、あまりにも小さい。

 「書評」で人気のブログの多くは、書かれている内容ではなくて、あるブロガーのキャラクターを多くの人が愛していて、そのブロガーの「感想」を「あの人が褒めるんだったら読んでみよう」と評価しているのでしょう。
 でも、そうやって「特別な人間」になることによって、「書評ブロガー」は、どんどん「普通の読者」から、乖離してしまっている。

 僕がネットに感動したのは、ここには「普通の人々の普通の感性」が溢れている、ってことなんですよ。
「面白かった!」「つまらなかった!」という感想って、それ単独では面白くないかもしれないけれど、その集積というか、全体の傾向みたいなものには大きな意味があると思うし、マスメディアを経由すると、どうしても「商売になる、極端なもの」や「完成度が高すぎるもの」になってしまうから。
 そして、最初は純粋に「自分が面白かった本を、多くの人に紹介したい」と思ってはじめた人も、「有名書評ブロガー」になって、同じような立場の人との付き合いができたり、献本してもらったりするようになると、どうしても、「しがらみ」ができてきて、「付き合いがある人の本」や「同じような自己啓発本」ばかりを紹介するようになってしまう。

 なんか残念だなあ、と思うのは、ネットという「自分の好きなことを書けるキャンパス」があるのに、そこで人気になるのは、「既成の(本や新聞に載っている)書評とおんなじようなもの」だということです。「タダで読めるからいいんじゃない?」って言うけど、「アフィリエイトでの売り上げを意識しているブログ」が、既成のメディアの「書評」よりもフラットに評価しているというのは、「幻想」でしかありません。

 僕の場合について書きます。
 基本的に、本の感想を書く場合には2つのパターンがあって、ひとつは、「面白くて誰かに話したい、ぜひ読んでもらいた本を読んだとき」。そしてもうひとつは、「うーん、今日はなんかあんまり書くことが思い浮かばないなあ、というとき」。ブログってやつは、やっぱりある程度の頻度では「更新」しておかないとなんとなく不安なものですから、そういうときに「本や映画やテレビの感想」というのは役立つことが多いんですよね。
 ただそういう「穴埋め的な本の紹介」は、やっぱり反応も悪いし、僕も書いていて面白くないんです。しかしながら、僕としては、「読んだ本をとりあえず感想とともにブログに書いておく」というのは、「今まで自分が読んだ本コレクション」を作っていくような楽しみがあるのも事実。「こんなに読んでるんだ凄いなオレ」みたいな自己満足のために、チクチクとブログに「貯本」したりしているわけですよ。
 本好きにとっての「本を語ること」というのは、「自分を語ること」なんですよね。
 僕は、「面白い本」「つまらない本」のことを書いているのではなくて、いつも、「その本を面白いと思ったときの自分」「その本をつまらないと思ったときの自分」のことについて書いています。実は、ひとつの本に対する「感想」というのは、読む側のコンディションによってものすごく左右されるものではあるんですよ。高校生の頃に読んだ『ノルウェイの森』への感想は、「大人ってこんなにすぐ『寝てしまう』のだな」でしたし、重松清さんの『流星ワゴン』を読んで泣いたのは、僕の亡くなった父親のことを思い出さずにはいられなかったからでした。後者など、中学生のときに読んでいたら、「何このお涙頂戴小説!」と反発していたかもしれません。
 みんなが僕のような考え方で本の感想を書いているのではないというのは承知の上ですが、それでも、本好きにとって「本の感想を書く」というのは、ある意味「自分が生きてきた痕跡」であり、「その時代の感性の記録」でもあるのです。
 だから僕は、誰でも、どんなことでも、「その本を読んで思ったこと」を書いていいと思う。
 「書評」と「感想」のどちらが上とか下とかいうものじゃないのだから、「書評」ができないからということで、「感想」を書くことをためらう必要もないと思う。

僕は「ネットで評論家ぶって『客観的』なふりをする」より、「自分で思ったことを素直に書く」人のほうが好きだし、自分もそうしているつもりです。
そういうのは、「ネットだから、お金をもらっていないからこそできる」ことだから。

ネットで個人情報をさらすのが危険な時代であることは事実なんだけれど、本の感想をさらすことにすら「委縮」してしまうのは、あまりにも寂しくないですか?

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