琥珀色の戯言

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偶然のチカラ ☆☆☆☆☆


偶然のチカラ (集英社新書 412C)

偶然のチカラ (集英社新書 412C)

内容紹介
ビジネスや恋愛、家族や友人など、人生のさまざまな側面で起こる多くの事柄。それらは偶然のようにもみえ、一方では運命とも思える。私たちには、さまざまな幸・不幸が降り掛かり、未来に何が起こるのかは誰にも分からない。
では、この不確実な現世において、幸せに生きるためにはどうすればよいのだろうか。ストレスなく、楽しく暮らすためには、何が必要なのだろう?未来が見えないとき、私たちはいったいどうしたらよいのだろうか。
本書は、占いや確率、宗教やスピリチュアルを超え、偶然のしくみを知ることから始める、幸福への新しい方法論について、分かりやすく面白く論じていく。

これ、最近読んだ新書のなかで、いちばん面白かったです(発行は2007年ですが)。
ギャンブルを定期的にやる人、「自分はツイていない」と落ち込んでいる人には、とくにおすすめしたい1冊。

世間には「運は自分の力で切り開くもの!」「結果が伴わないのは、あなたの努力が足りないから!」という自己啓発本が溢れているのですが、植島さんは、こんな話を紹介されています。

人間はだれしも自分が選んだことにとらわれて自由な判断ができなくなる。

 だれか他人が選んだことなら別に影響はないが、一度でも自分の判断が加わると、だれもがそれに多少の責任を感じるようになる。ちょっとしたはずみで決めたことでも、いったん決められてしまうとたちまち効力を発揮するようになる。だから、たとえば大きなギャンブルでは、まず自分より相手に判断させるように持っていくのがコツだということになる。すさまじい心理戦では、そこが勝敗の分かれ目になる。こちらが相手の選択に黙ってついていくと、次第に相手は自分の決断にとらわれて身動きがとれなくなっていく。もちろんこれはあまり力量差がない場合に限られる。

 森巣博『無境界の人』に次のようなエピソードがある。
 今世紀初頭に英国で活躍した賭けの銅元にチャーリー・ディックスという男がいた。彼は確率が正確に50%であるならば、二つの条件をつけて、どんなに金額の大きい賭けでも引き受けたといわれている。彼がつけた二つの条件とは次のようなものである。

(1)賭け金が大きいこと。その金を失うと死ぬほどの打撃をこうむるほどの金額であることが望ましい。

(2)たとえば、コインを投げた場合、表なら表、裏なら裏と賭けを申し出た当人が最初にコールすること。

 それだけだというのである。森巣氏は「これはわたしの経験則とも完全に合致する『必勝法』である。懼れを持って打つ博奕は勝てない。なぜだかは知らない。とにかくそうなのである」と書いている。ギャンブルでは先にコールしたほうが負けなのだ。何かを選択するということはそれだけ大きな負荷のかかる行為なのである。

 つまり、不幸は選択ミスから起こる。では、選択しなければいいのでは? そう、そのとおり。選択するから不幸が生じる。妻をとるか愛人をとるか、進学するか就職するか、家を買うか賃貸マンションに住むか? 海外旅行に行くか貯金するか、いまの会社にとどまるべきか転職するべきか? 果ては、「いつものティッシュを買うべきか、安売りになっている別のメーカーのティッシュを買うべきか」まで、われわれは人生のさまざまな場面で選択せざるをえない状況におかれている。

 うまく生きる秘訣はなるべく選択しないですますことである。「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」ということである。そういう状況に自分をおくように心がけなければならない。ただし、なるべく選択しないことが大切だとわかっていても、一夫多妻というわけにもいかないし、お金をつかったら貯金はできない。それでも、あなたはできるだけ選択せずに生きる道を探さなければならない。それを貫くのはかなり困難だが、それでもけっして不可能なことではない。

このチャーリー・ディックスのエピソード、感覚的にはものすごく頷けます。
「でも、それはやっぱり勝率50%じゃないの?」と理屈としては疑問に感じるところもあるんですけどね。


植島さんは、「この世界に起こることは、すべて必然だと考えてはどうか?」と書かれているのですが、たとえば、飛行機事故とか難病というのは、人類全体でいうと、ある一定の割合で「必然的に起こる」ことなのです。
つまり、「世界の誰かに起こる」ことについて、「ありえないこと」だとは思わないけれど、「自分や身近なところに起こる」のは、「偶然であり、ありえない、あってはいけないこと」だとしか考えられない。
先入観とか思い込みによって、僕たちの「選択」には、大きなバイアスがかかります。
そういう「理屈に合わない面」こそが、「人間らしさ」なのかもしれないけれど。

たとえば、競馬の予想を例にとると、そのほとんどは過去の戦績から割り出されている。Aは前走でBに勝ったから、今度もAのほうが強いだろう、というように。それらは一見したところ、きわめて「合理的」な判断に思えるのだが、結果はまったく見当はずれンことが多い。いや、それどころではない。競馬では、もっとも「合理的」と思える判断を積み重ねていくと、なんと必ず破産することになる。それでは、「合理的」な判断を完全に捨て去ったほうがいいのかというと、事態はそう単純ではない。めちゃくちゃに賭けたら、むしろ100%負けることになるだろう。では、どうすればいいのか。

 ここが大事なポイントなのだが、ある点までは「合理的」と思える判断に固執しなければ、とても勝利などおぼつかないわけで、まずはしっかりと論理的判断を張りめぐらすことになる。そして、これしかないと予想した時点で、そうした自分の判断をすべて破棄するのである。多くの場合、もっともそれらしいと思われる結果は、もっとも起こりえない結果なのである。どこで自分の論理的判断を手放すかによって、結果は大きく違ってくる。そこからはあくまでもセンスの問題になってくる。いくら修業を積んでもダメな場合もあれば、感覚的にすっと理解できる人もいるだろう。いかに既成観念にとらわれずにいられるかが勝負を分けるのだ。

昨日のヴィクトリアマイルブエナビスタレッドディザイア馬連で大勝負してしまった僕には、この言葉の意味、非常によくわかります。
いくら海外遠征明けとはいえ、久々のマイル戦とはいえ、この2頭の力が抜けているはず、これまでこの2頭が一緒に出たレースでは、常にこの2頭がワンツーで入線していたのだし……
しかしかながら、「2強対決」という競馬の歴史の大きな枠組みからみると、「前評判通りの2強でそのまま決まるレース」なんていうのは、本当に少数なのです。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というのは、こういうことなのでしょう。
いや、昨日はブエナとレッドで決まっていたかもしれないけれど、長い目でみれば、ああいうレースで「2強」を買っていては、生涯収支はプラスにはなりませんよね。
言い訳をさせてもらえれば、昨日は、「当てたかった」というよりは、「ブエナとレッドのマッチレースを見たかった」のだけれども、それなら、賭けずに見ればよかっただけのこと。
そういう「思い入れ」とか「こだわり」みたいなものがなければ、もっと「ギャンブルに強い男」になれるのだろうなあ。

自分を「不運」にしているのは、結局のところ、自分自身なのかもしれません。
もっとも、僕自身は、そういう「思い入れ」がない競馬は楽しくないだろうな、とも思うのです。
「人生」も、そうなんじゃないかな、たぶん。

ギャンブルに限った話ではなく、「いまの自分を少し俯瞰してみる」きっかけになる、興味深い新書です。
そう簡単に悟れないというか、やっぱりブエナビスタレッドディザイア馬連を買ってしまうのが人情ってものだし、そんなふうに「養分」になるのもまた、楽しいと言えば楽しくもるのですけどね。

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