琥珀色の戯言

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バナナの皮はなぜすべるのか? ☆☆☆☆


バナナの皮はなぜすべるのか?

バナナの皮はなぜすべるのか?

内容(「BOOK」データベースより)
人類の誕生以来、最もポピュラーなギャグ=“バナナの皮すべり”は、いつ、どこで、誰によって、どうやって生みだされたのか―?この素樸な疑問を解決するべく、マンガ、映画、文学作品、TV番組、ウェブサイトなど、さまざまなメディアに描かれたバナナの皮を踏んで検証する、“バナナ愛”にあふれためくるめく必滑書。

「バナナの皮ですべって転ぶ」というのは、まさに「お約束」のギャグ。
しかしながら、実際にこれを「ネタ」としていま見せられたら、「なんだそのベタなギャグは?」とか、「何か別の意味があるのか?」というような疑問を感じずにはいられません。
そもそも、「人間がバナナの皮ですべって転ぶ」なんてこと、現実にはありえない。

……ところが、この本では、大真面目に「バナナの皮」そのものの性質と、主に「笑いの文化」においての「バナナにすべる」というネタの意味の変遷が語られています。

 要するに、生ゴミが一つ落ちていただけの話である。では、ただの生ゴミを見て私が喜んだのはなぜか。理由ははっきりしている。あのギャグを思い出したからだ。――バナナの皮ですべって転ぶ。喜劇映画やギャグ漫画などで誰もが一度は目にしたことがある古典的なギャグである。「お約束ギャグ」などとも呼ばれ、ギャグとしての知名度は非常に高い。何しろ、バナナの皮が落ちているだけで笑えるほどだ。
 ふと思った。これていつごろから使われているギャグなんだろう。また思った。どうしてバナナの皮なんだろう。人間誰しも、何かにつまづいたりすべったりすること自体はそれほど珍しくない。しかし、「バナナの皮ですべって転ぶ」という構図はあまりに不自然ではないか。バナナの皮なんて落ちている方が珍しいし、よりにもよってそんなバナナの皮ですべって転ぶなど一生に一度あるかないかだろう。

たしかにそうなんですよね。この本では、チャップリンの映画から、手塚治虫藤子不二雄のマンガ、クリスティの小説などでも「バナナの皮ギャグ」が使われていたことが紹介されています。
これだけ、使い古されたネタにもかかわらず、バナナの皮ですべるギャグは、現代でも「絶滅」してはいないのです。

 近年、お約束ギャグが使われる際に、このように作品内で「古い」「いまどき」などの否定的なツッコミが入ることが少なくない。作品の受け手が作品の外から入れるはずだった否定的なツッコミを作品内で先回りして入れておくことで、受け手があらかじめ抱いていたお約束ギャグへの否定的感情はそのままツッコミに対する共感となり、結果としてギャグの肯定、そして笑いにつながる。加えて、これはメタ的な笑いである。つまり、ギャグそのものをギャグ化するメタギャグであり、また「「お約束」の嘘っぽさを創作世界の中で強調してみせるメタフィクションである。作中人物にわざわざ「お約束」と言わせる手法も、メタギャグ・メタフィクションの笑いの一つといえる。

「バナナの皮ですべって転ぶ」というギャグは、あまりに広く知られるようになってしまったため(ちなみに、この本によると、「バナナの皮すべりギャグ」は、20世紀のはじめには、アメリカやヨーロッパで知られており、ロシアでも使われていたそうです)、いまでは、「お約束ギャグの象徴」として、「メタギャグ」を追究する作家やマンガ家たちが、あえて用いている場合も多くなっています。
使い古されて、誰も笑わなくなった「バナナの皮ですべる」というギャグをモチーフにして、いかに人を笑わせるか?
このギャグが、あまりに「お約束」であるために、これは、新しいギャグを追究する人々にとっては、挑戦しがいのあるテーマのようです。

そして、この本を読んで、「バナナの皮ですべって転ぶヤツなんて、実際にはいるわけない」というのが、自分の思い込みであることを知って驚きました。

 19世紀後半、南からやってきた新しい果物「バナナ」は、輸送手段や鉄道網の発達とともに次第にアメリカ人におなじみの果物になっていった。食べ歩きに非常に適しているバナナを多くの人が食べ歩きし、食後に残された皮はそのまま路上にポイ捨てされた。こうして、バナナの普及はそのままバナナの皮による転倒事故の増加につなかった。「バナナの皮ですべって転ぶ」は笑いの世界から生まれたフィクションではないく、現実世界の社会問題として生まれた構図だったのである。以下、インターネットで閲覧できるテキストから紹介してみたい。
 1861年には早くも、子ども用の新聞に「オレンジやバナナの皮を捨てるな」と訴える文章が掲載された。

 ダメだよ、少年少女よ、誰の首も折りたくないならね。人生で少なくとも12回、私はオレンジやバナナの皮を踏み、すべり、倒れまいとして背中をよじった。私があまり元気な年寄りでなかったなら、背中から投げ出され、頭にけがをして、オタンコナスが歩道に捨てたオレンジの皮で死んでいたかもしれない。私がこう言っても、誰にも文句は言われないだろう、「歩道にオレンジやバナナの皮を投げ捨てるな!  
(『サンデー・スクール・アドヴォケイト』紙、1861年9月14日付)

 当時、都市の路上には果物の皮に限らずさまざまなゴミが落ちており、大変汚れていた。中でも、バナナの皮やオレンジの皮は実際に多くの人を転ばせたうえ、その目立つ色から歩行者に与える印象も強かったものと思われる。

「バナナの皮ですべって転ぶ」というのは、誰かが頭のなかで考えだしたネタが広まっていったものではなくて、それが「あたりまえの危険」だった時代が存在していたのです。
これを読んだとき、自分がいま住んでいる世界のイメージだけで「バナナの皮ですべるヤツなんて、現実にはいるわけない!」と思っていたことが、ちょっと恥ずかしくなりました。
ほんと、僕には「想像力」が足りないなあ。

定価2000円はちょっと高めですし、「お笑い論」なのか「バナナについての蘊蓄」なのか「バナナをテーマにした近代の人類史」なのか、いろんな要素がありすぎて雑然とした印象はあるのですが、このタイトルに興味を持てるならば、読んでみて「すべる」ことはないと思いますよ。

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