琥珀色の戯言

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借りぐらしのアリエッティ ☆☆☆☆


参考リンク:映画『借りぐらしのアリエッティ』公式サイト

あらすじ: 古い家の台所の下に住み、暮らしに必要なものはすべて床の上の人間から借りてくる借りぐらしの小人たち。そんな小人一家の14歳、アリエッティは、好奇心と伸びやかな感性を持つ少女。だが、人間に見られないよう、目立たないよう、つつましさと用心深さを求められる毎日を送っていた。

2010年13本目の劇場鑑賞作品。

8月12日、お盆突入前日の19時からの回を鑑賞。観客は30人くらいでした。
もうちょっと観客が多いかと思ったけど、ちょうど夕食時だったからなのか、それとも、この映画の勢いがその程度だったのか。

正直、時間が合えば『トイ・ストーリー3』を観たかったし、気力・体力に余裕があれば『インセプション』を観たかったのですが、疲労が蓄積している僕にとっては、94分という上映時間はけっこうありがたかった。

この『借りぐらしのアリエッティ』なのですが、『ハウルの動く城』の城の挙動とか、『千と千尋の神隠し』の異世界に入っていくような「おおっ!」というような「印象に残るシーン」はないけれど、全体的にうまくまとまっています。冒頭の車の動き(乗っている人の移動にともなう重心の変化など)は、やっぱりジブリだなあ、と納得させられます。
なんといっても、「小さい人たちの視点でみた、この世界」というのは、けっこう興味深いものでした。
運動音痴の僕にとっては、小人さんたち、ちょっとバランス感覚よすぎなんじゃないか、とは思いましたけど。

この『借りぐらしのアリエッティ』を観ながら、僕は『借りぐらし』って、要するに、小さな泥棒の積み重ねじゃねーか、お前ら借りたものを返したことがあるのか?それとも「永久に借りておくだけだ」という「ジャイアン主義」なのか?などと内心悪態をついていたんですよね。
いやまあ、少なくとも他人に「長年そうやって生きてきた」って自慢するような生活様式じゃないだろ、と。

しかしながら、この映画を観ているうちに、僕は「家族」というものについて考えずにはいられなかったのです。
翔は、アリエッティに「お前たちは絶滅を宿命づけられているんだ」と言い放ちましたが、それは、アリエッティ一家にとっても「意識せずにはいられない現実」なのです。
最初のほうのシーンで、お父さんが、

アリエッティも、もう14歳だ。わたしたちに何かあったら、ひとりで生きていかなければならなくなるかもしれない。

って言うんですよ。
僕なんか、もうこの場面でちょっとウルっときてしまって。
ああ、うちの息子も、もし僕たちに何かあったら、ひとりで生きていかなくちゃいけないんだ、もちろんそれは、アリエッティの「自分の種族の最後のひとり」というプレッシャーとはかけ離れているのかもしれないけれど、親というのは、「いま危険な目に遭わせること」と「ひとりで生きていけるように突き放さなければならないこと」の葛藤を避けては通れないんだな、と。
お母さんが心配性で愚痴ばっかり言って足手まといのように見えても、彼らはけっしてお母さんを責めたり、見捨てたりしない。
それが「家族」だから。

ストーリーそのものは、そんなにたいしたものじゃないというか、「王道」というか。
異世界との出会いと別れ、そして、目に見えないものに憧れ、敬意を表するひとたちと、憎み、蔑視するひとたち。

この「小さきものたちが存在する世界への希望」が描かれているという意味では、けっこう良い作品ではないかと僕は思います。


以下ネタバレ感想ですので隠します。


本当にネタばれなので、これから映画を観る皆様は、観賞後にどうぞ。


 僕はこの映画の後半、ずっと怖かったんです。
 そんな怖い映画じゃないし、残酷な描写があるわけでもないんですが、樹木希林さん演じる「ハル」というお婆ちゃんの「理由なき悪意」に。
 ひょっとしたら、原作にはなんらかの伏線があるのかもしれませんが、この映画を観ている範囲では、ハルがアリエッティたち「小人」を捕まえたり、ネズミ駆除業者に依頼して燻りだそうとしたりする理由が全然わからないんですよ。
 それこそ、子どもが遊びでカエルに爆竹を呑ませて投げつけるような、そんな「単なる人間本来の残酷性の発露」にしか思えない。
 さまざまな小物をかすめとられているわけですから、「害虫駆除」みたいな気分なのかもしれませんが、そのわりには、「楽しんでいる」ように見えますし。
 どこかでその「理由」が語られるのだろうと思っていたのだけれど……

 なんか、ダークナイトの「ジョーカー」みたいなんです、ハル婆さんは。
 そこにあるのは、「自分より小さく弱いものたちには、何をしても構わない」(その一方で、自分より強いものには、ひたすら卑屈にふるまう)という唾棄すべき人間の姿。
 でもね、いるよね確かに、こういう人。
 自分より弱い存在には、理不尽なまでに強く出ないと気が済まない人。
 そして、彼らは、やり場のない悪意にもとづく自分の「計画」が失敗しても、「ちょっとボケた?」なんて言われるくらいのもの。
 アリエッティたちを「生命の危機」にさらしていたにもかかわらず、ハルが背負っていたリスクは、あまりに少ない。
 僕はほんと、あの婆さんを瓶詰めにしてやりたかったよ全く。
 それじゃあ、世の中、不公平すぎるじゃないか、って。

 その一方で、僕はこんなことも考えます。
 アリエッティは「かわいい」し、「生きるために借りてくるものも、ほんのちょっと」なのですが、じゃあ、もしあの家に異国からの難民たちが押し寄せてきて、「あなたたちには『ほんのちょっと』でしかないのだから、ごはんを食べさせてくれ」と要求してきたら、それは受け入れられるべきものなのだろうか?
 それは極端だとしても、じゃあ、どのくらいなら「許容範囲」なのだろうか?

 ハルが「問答無用の悪党」であるというのは、実は、諸刃の剣でもあるんですよね。
 『風の谷のナウシカ』にしても『もののけ姫』にしても、(理不尽に攻めてくる)大国側にも「戦わなければならない、切実な理由」があったのです。
 しかしながら、こういう「理由なき悪意」を持った人(『ハウル』で自分の都合で戦争をはじめたあげく、「もうこんな愚かな戦争はやめにしましょう」と言って戦争をやめてしまった気まぐれなおばちゃんみたいな)が「絶対悪」として存在してしまえば、とにかくそいつを悪者にしてしまえる分だけ、ラクになる面もあるはず。
 最近のジブリ作品は、けっこう、「わかりやすいけど、あまりにシンプルな勧善懲悪モノ」が多いんだよなあ。
 
 個人的には、ハルの不気味さがいちばん強く印象に残った作品でした。
 ハルというのはなんとなく「ネット上の悪意」の象徴のようにも、僕には感じられたのです。
 いつも自分が「弱者」であることを嘆いているくせに、自分が「強者」である場面では、「弱者の自由」を容認できない、アリエッティたちよりもっと、「小さい」人々。

 宮崎駿監督作品以外の最近のジブリのなかでは、かなり良くできているほうだと思います。
 ただ、子どもにはわかりにくいよねえ、これ。盛り上がる場面も少ないだろうし、主題歌もジブリなのに地味だからなあ。

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