- 作者: 日本映画専門チャンネル
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2010/09
- メディア: 文庫
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内容(「BOOK」データベースより)
一九九八年一〇月三一日、有楽町「日劇」は前日から徹夜で並ぶ何重もの行列に囲まれていた。「踊る大捜査線 THE MOVIE」公開。その日から日本映画の歴史は「踊る以前」と「踊る以後」に大きく画されることになる―物語構成、撮り方、宣伝方法、資金調達など、あらゆる面で日本映画の伝統を打ち破った「踊る大捜査線」。なぜそのような作品が生まれたのか?それは日本映画の進化なのか堕落なのか?「踊る」を知り尽くす一〇人の証言から、空前絶後のモンスターヒットの正体が初めて明らかになる。
目次
序 限りない愛と悔しさをこめて
第1章 不倒の興行収入はなぜ生まれたか
第2章 伝統映画へのリスペクト、そして革新
第3章 ついに現実の警察まで動かした
第4章 「スナック菓子」に徹した作り手の英断
第5章 日本インターネット史に名を刻む
第6章 「空気読みすぎ神経症映画」の快楽
第7章 日本映画の劣化が止まらない
第8章 映画ファンを育てなかった罪
第9章 観客と創り手の関係が劇的変化
第10章 「踊る大捜査線」の法則—僕に見えていたこと、僕が学んだこと
僕は正直なところ、テレビドラマも含めて、『踊る大捜査線』を人気ほど面白いとは思えませんし、映画の大ヒットに至っては、「なんであんなテレビドラマのスペシャルに毛が生えたくらいの『映画』が、日本の実写映画の歴代興行収入1位に君臨しているのか、理解しがたい」と感じていました。
やっぱり、テレビ局の力は大きいよな、「事件は会議室で起きてるんじゃない!」という有名なセリフも、あの映画の流れからいうと、「この人、なんでこの場面でいきなりこんなにキレだすんだ?」と思いましたし。
この新書は、CSの「日本映画専門チャンネル」が関係者にインタビューしてつくったミニ番組を書籍化したものだそうですが、制作者・映画評論家・映画監督、そして、この映画の「仕掛け人」である亀山千広プロデューサーなど10人の「関係者」が、『踊る大捜査線』という映画が日本映画界にもたらした「功罪」について語っています。
この10人の人たちは、必ずしも『踊る大捜査線』やフジテレビの「信者」ばかりではなくて、かなり辛辣な意見を述べている人もいますし、賞賛している人も「全肯定」というわけではありません。
「どうしてこんな、テレビドラマのスペシャルみたいな『映画』が、大ヒットしてしまったのか?」
それは、「映画らしい映画」を愛する人たちにとっては、大いに疑問であり、不満でもあったようです。
いや、僕もやっぱり、「あんなに大ヒットするような(素晴らしい)映画か?」と思っているのです。
しかしながら、この新書で、「昔の日本映画を愛している評論家や監督」の言葉を読んでみると、僕は『踊る大捜査線』の味方をしたくなってきました。
第7章「日本映画の劣化が止まらない」のなかで、映画監督/脚本家の荒井晴彦さんは、こんなふうに仰っています。
「テレビ局が作る映画ならセックスシーンもなければ、血みどろの暴力もないだろうし、家族で安心して見に行ける。それは公共に寄与することだ」という意見もあるでしょう。映倫が主にチェックするのは、セックスと暴力です。この二つはテレビには最初からないわけだから、ファミリーとしては安心でしょう。
でも映画というものは、そもそもが健全なものではない。ちょっと危ない不良性みたいなものは、映画の本質的な要素です。こんなふうに思うのは古いのかもしれませんが、だからこそ映画館の暗闇の中で、僕たちは人生を変えるような、魂を震わせるような何かと出会うことができた。
今の映画は、ヒットすることと引き換えに、そういった陰影や多様性を切り捨ててしまったのだと思います。また、映画を見ている人たちには、暴力やセックスを取り除いた結果できた映画がこれなんだ、という経緯が見えていません。これは恐ろしいことです。
最近の学生たちが作る映画や、低予算でインディペンデント風に作っている作品に、セックスシーンは皆無です。
学生にシナリオを書かせても、男と女が同棲している話なのにそれを匂わす雰囲気すらない。だから登場人物の関係が見えない。
「この二人は恋人なの?」と訊くと、「ハイ」と答える。「ということは、セックスはしているのね」と訊くと、「ハイ」と答える。
でもセックスが表現できていない。このままでは映画の表現が痩せ細っていくだけです。
うーん、もうすぐ40歳という中年男の僕でさえ、「映画の醍醐味は暴力とセックス」なんて公言し、そういう「禁忌的なもの」を排除した、テレビ的な作品が「映画」を堕落させている、という「映画監督」の意見は、「わからなくはないけれど、ずっとそればっかりやってきたから、みんなもう暴力とセックスには飽きてしまっているんじゃないか?」とも思うんですよ。
暴力やセックスは、現実で、もうたくさん。せめて映画の中では、違う世界を観たい。
僕だって、『氷の微笑』を観て、「おお〜」とか思いましたし、『アウトレイジ』のバイオレンスにはそれなりに興奮しましたけど、僕は「暴力」も「セックス」もそんなに好きじゃない。
というか、「暴力とセックスさえ描いてあれば、『芸術的』『挑戦的』だと思いこんでいる古くさい映画関係者」が、日本映画をダメにしてきたんじゃないか、と言いたくもなります。
世界にこんなに暴力とセックスが溢れているのに、どうしてスクリーンの中でも、それを見せられなきゃいけないんだろう?
いままでのような「よそいき」ではなくて、買い物のついでに入って映画を見られるシネコンの隆盛が、「テレビドラマの延長戦」の日本映画を支えるようになり、『踊る大捜査線』というのは、そういう「フラッと入って大きなスクリーンで2時間『豪華なスペシャルテレビドラマ』を楽しめる」というコンテンツとして最良だったのかもしれません。
その一方で、「テレビ局が全力でプロモーションしない邦画は、ヒットしないというか、一部の映画フリーク以外には、存在を知られることすらない」という流れを決定的なものにしたのも『踊る大捜査線』でした。
(実は、『踊る大捜査線』の第一作は、イメージほどはテレビでのプロモーションは行われず、インターネットでの「口コミ」が功を奏したとのことですが)
この映画の「仕掛け人」であるフジテレビの亀山千広プロデューサーは、『踊る大捜査線』大ヒットの理由をこのように分析されています。
当時はシネコンがちょうどでき始めたころで、映画館そのものが身近になりつつあったということ。
それから映画界全体では「タイタニック」や、ジブリの「もののけ姫」などの大ヒットがあった直後で、巨額の興行収入を上げる作品が多くなっていた。つまり「踊る」は、映画街が閑散としているところで封切られたのではなく、映画館が混むという現象がある中で世の中に出ていったということ。
それからもちろん、この作品がテレビから出ていったということも有利に作用しました。
僕たちはテレビシリーズの放送終了後、すぐに映画化したわけではありません。テレビドラマを映画化するにあたり、全11話の放送が終わったあと、『踊る大捜査線 歳末特別警戒スペシャル』(1997年12月)、『踊る大捜査線 番外編 湾岸署婦警物語 初夏の交通安全スペシャル』(1998年6月)、『踊る大捜査線 秋の犯罪撲滅スペシャル』(1998年10月)、『深夜も踊る大捜査線 湾岸署史上最悪の3人!』(1998年10月)というスペシャル番組を作って放送しています。
つまり公開まで約1年かけて温めていった。
それは、そうやって気運を盛り上げていかなければ、映画の公開までたどり着けないのではないかという不安があったからなのです。
このようにいろいろな条件が重なったおかげでヒットに結びついたのですが、作った本人が一番大きい成功要因だったと思うのは、言い方がよくないかもしれませんが、テレビとほとんど同じことを堂々とやってのけたことだと思います。
映画を作るからといってあえて膝を正したり、大上段に振りかぶったりしなかった。テレビでやってきたことをそのまま、もっとコンパクトにして、もっと楽しませようとしたのが、観客にとって見やすかったのではないかと思います。
平日の夜になんとか時間をつくって映画を観に行くことが多い僕には、この「テレビをほとんど同じことを堂々とやってのけたこと」が、観客にとっては、「観やすさ」につながっていることがよくわかります。
家でDVDを借りてきて観ても、なかなか2時間集中できないし、それならば、レイトショーで1000円出してシネコンで映画を観たほうがいい。
でも、「重い」作品を観るほどの元気はないし、そもそも、そういう作品は地方のシネコンでは上映していない。
僕にとっては、「テレビのスペシャルドラマ」も「映画」も、感覚としてはあまり変わりないのです。
「どうせ2時間使うのだったら、映画のほうが良い環境で観られるかな」という程度の「違い」でしかありません。
たぶん、そういう「映画ファン」は増えてきているのではないかと思います。
そこに「人生を変えるような感動」はなくても、「ちょっとした非日常を味わえる2時間」で十分。
それが、正しい映画の観かたなのかは、僕にはよくわからないのですが……
この新書の「あとがき」には、こんなデータが示されています。
『踊る1』公開(1998)から昨年(2009)までの12年間。邦画の劇場公開作品数は4018作品にものぼります。そのうち70億円を超えた実写はわずか7作品でした(ちなみにアニメーションは5作品。スタジオジブリが3作品、ポケモンが2作品)。
7作品のうち100億円を超えた作品は、『踊る1・2』のみ。さらに『交渉人 真下正義』(42億円)、『容疑者 室井慎次』(38.3億円)といったスピンオフ作品の成績も勘案すると、この12年は『踊る』が日本映画を牽引したといっても過言ではありません。
参考までに70億円を超えた実写7作品を年代順にまとめてみました。1998年『踊る大捜査線 THE MOVIE』(約101億円)
1999〜2002年 該当作品なし
2003年『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』(173.5億円)
2004年『世界の中心で、愛をさけぶ』(85億円)
2006年『LIMIT OF LOVE 海猿』(71億円)
2007年『HERO』(81.5憶円)
2008年『花より男子ファイナル』(77.5億円)
2009年『ROOKIES―卒業』(85.8億円)
(「一般社団法人日本映画製作者連盟」の資料より抜粋。1999年以前の作品は、配給収入での発表のため、記録の2倍で試算)
うーむ、僕も「ラクに観られる映画にも価値がある」と言ってみましたが、このラインナップを目の当たりにすると、「こんな『テレビ局の思惑通りの作品』ばっかりで、本当に良いのだろうか?」と感じます。
でも、これが「日本映画のまぎれもない現実」なんですよね。
この新書、インタビューされている人たちは、僕が予想していたよりもはるかに率直に『踊る大捜査線』が日本映画に与えた影響について語っていて、なかなか面白かったです。
『踊る大捜査線』は、「日本映画を安易な方向に押し流してしまった」のか、それとも、「暴力とセックスに囚われた、時代錯誤の映画人たちに引導を渡した」のか?
あらためて考えてみると、この12年間、日本映画は『踊る大捜査線』の呪縛から、逃れられていないのかもしれません。