琥珀色の戯言

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『しょうぼうじどうしゃじぷた』の記憶


しょうぼうじどうしゃじぷた(こどものとも絵本)

しょうぼうじどうしゃじぷた(こどものとも絵本)

 1966年に出版されて以来、多くの「はたらくくるま」好きな子どもたちに愛されてきたロングセラー絵本。「くまくん」シリーズなどで知られる渡辺茂男と、乗り物絵本の第一人者である山本忠敬が手を組んだ一冊で、全国学図書館協議会選定「必読図書」に選ばれるなど評価も高い。このコンビによる乗り物絵本として、ほかに『とらっくとらっくとらっく』がある。
 消防署のすみっこに、古いジープを改良した、ちびっこ消防車のじぷたがいた。けれども、だあれも、じぷたのことなんか気にかけない。じぷたは、はしご車ののっぽ君と、高圧車のばんぷ君、救急車のいちもくさんが大きな火事で大活躍するのをうらやましく思うばかり。しかし、じぷたにも山小屋の火事を消し止めて、山火事を防ぐという大仕事がやってきた。


 だれにでも得手不得手はあるもの。普段は目立たなくとも、いざとなれば、せまく険しい山道を平気で登り、見事火事を消し止めるじぷたに、自分を重ねる子どもたちも多いのではないだろうか。

 『トイ・ストーリー3』のDVDが早くも発売されたので、もう一度観直してみたのですが、この物語で最も僕の心を打ったのは、「おもちゃ(あるいは、おもちゃで遊ぶ心)が、世代を越えて受け継がれていく」ということでした。
 僕も父親になって2年になりますが、自分が子供の頃に読んでいた本、『ぐりとぐら』とか『スイミー』を息子も楽しそうに読んでいるのを見るのは、なんだか不思議な気分であり、そういう「人類の些細な知恵の伝承の場面」に立ちあっているような、喜びも感じるのです。
 この『しょうぼうじどうしゃじぷた』、1966年に発売された絵本ですから、年齢的に考えて、僕のほうは、最初に出たときに、ほぼリアルタイムで読んだんではないかと思います。
 いま、息子と一緒に読んでいると、「もうこんな旧い型の消防車や救急車は残っていないよなあ」とか思うのです。
 でも、この物語で描かれている「人にはそれぞれ自分の役割があるのだ」というテーマの普遍性もあって、「登場する『はたらく車』が旧式であること」を、息子は気にしていないようです。

 きょうは けんえつの ひです。
 じぷたも ぴかぴかに みがかれて、のっぽくんと ぱんぷくんと いちもくさんの よこに ならびました。
 せのたかい のっぽくんを みあげて、「そらに とどくような、あんな はしごが ほしいなあ」と おもいました。
 がっちりした ぱんぷくんを みて、「ちからの つよい ポンプが ほしいなあ」と おもいました。
 いちもくさんを みて、「かっこうが いいなあ」と おもいました。
 なんだか、じぶんが とっても ちっぽけで、みにくく おもわれて、かなりくなりました。

 小さくて、力が無くて、格好悪かった子供の頃の僕は(まあ、それは現在でもそのままではありますが)、その後の山小屋の家事で、小回りがきくという特徴を生かしてみんなに褒めそやされる「じぷた」に、けっこう感情移入していたのです。少なくとも、「大人になってからの記憶」では。

 しかしながら、何度もこの絵本を息子に読んでいるうちに、僕の中にちょっとした「引っかかり」みたいなものが生まれてきました。
 それは何なのかというと、おそらく、

 つぎのひです。まちの しんぶんに、じぷたの しゃしんが おおきくのりました。
 そして、しゃしんの そばに、こう かいて ありました。
 『やまごやの かじは、たばこの すいがらから。じぷたの だいかつやくで、やまかじにならずに すみました。となりむらでも、じぷただい2ごうを そなえることに なりました』

 それから、まちの こどもたちは、しょうぼうしょをのぞくと、かならず、じぷたを ゆびさして いいました。
 「やあ、じぷたが いるぞ! ちびっこでも、すごく せいのうが いいんだぞ!」

 結局のところ、じぷたはずっと「自分の役割を果たしてきた」だけなのです。
 でも、こうやって「まちの しんぶん」に採り上げられたとたんに、まちのこどもたちはじぷたの大ファンになります。
 それまでは、「なーんだ、ジープを なおしたのか」と、「だあれも、きにかけない」状態だったのに。

 思い返してみると、僕が子どもの頃に「しょうぼうじどうしゃじぷた」を読んで得たことは、『世界に一つだけの花』的な価値観だけじゃなくて、「マスコミの『報道』によって、あっという間に『価値』が変わってしまう、『世間』というものの怖ろしさ、子どもたちの薄情さ」だったんですよね。
 逆に言えば、「同じことをやっても、新聞がじぷたのことを書かなければ、じぷたは、その後も、子供たちに無視されつづけていた」はずです。
 じぷた自身の力では、じぷたは「這い上がる」ことができなかった。
 そして、この世界には、無数の「しんぶんに採り上げられることのないじぷた」が存在しているのです。

 正直、今回あらためて読み返してみるまでは、『しょうぼうじどうしゃじぷた』に感じた僕の「恐怖感」は、記憶の奥深くに沈んでいて、「ああ、じぷたが頑張った、良い話だね」というくらいの印象しかありませんでした。
 子どもっていうのは、大人が考えているよりもよっぽど、いろんなことを「深読み」したり「勘違い」したりしているものなのでしょう。
 でも、大人になると、そういう「自分が子どもだったときの生々しい記憶」って、ほとんど失ってしまうんだよなあ。
 そういえば、『ぐりとぐら』も、「森の仲間の誰かの卵を、何のためらいもなくホットケーキにしてしまう」というのが、疑問だったような気がする……


参考リンク:映画『トイ・ストーリー3』感想

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