琥珀色の戯言

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昭和45年11月25日―三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃 ☆☆☆☆


内容(「BOOK」データベースより)
昭和45年11月25日、三島由紀夫自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹、介錯される―。一人の作家がクーデターに失敗し自決したにすぎないあの日、何故あれほど日本全体が動揺し、以後多くの人が事件を饒舌に語り記したか。そして今なお真相と意味が静かに問われている。文壇、演劇・映画界、政界、マスコミの百数十人の事件当日の記録を丹念に拾い、時系列で再構築し、日本人の無意識なる変化をあぶり出した新しいノンフィクション。

昭和45年11月25日に、僕はまだ生まれていませんでした。
もちろん、三島由紀夫の「凶行」と「自決」のことは後に知ったのですが、「この人は、なんであんなことをやったのだろう、何かの病気だったのか?」というのが、僕の率直な印象でした。
日本中が「動揺」したとこの新書には書いてあるけれど、その後、僕がリアルタイムで体験してきた大きな事件や事故・災害、たとえば、日航機墜落事故地下鉄サリン事件阪神淡路大震災、そして、9.11同時多発テロに比べると、この事件は、僕にとってはあまりにリアリティが無いように感じられますし、「三島由紀夫という人が勝手にやった大芝居に、みんなあきれていただけだったのではないか」と想像していたりもしたんですよね。
みんな、「動揺」していたというより、「唖然」「困惑」していたのではないかなあ。

この新書は、「その日」の三島由紀夫自身の行動や当日に市ヶ谷駐屯地で行った演説については紹介されていますが、著者自身は、三島さんの行動をあれこれと評価してはいません。
そのかわりに、各界の著名人、あるいは、その後、著名人になっていく人たちが、「その日」に感じ、記憶していることを丁寧に拾い集め、紹介していきます。
そのなかには、三島さんと関係が深かった人もいますし、あくまでも「テレビの向こう側の人」としての三島さんしか知らなかった人もいます。
それでも、多くの人が、「昭和45年11月25日」の自分自身のことを記憶していることは、とても感慨深かったです。

 ザ・ドリフターズはこの日、水戸にいた。松竹映画『誰かさんと誰かさんが全員集合!!」(渡辺佑介監督)のロケだったのだ。


(中略)


『誰かさんと誰かさんが全員集合!!』は公開を1ヵ月後に控え、水戸でのロケの4日目だった。監督の渡辺によると、「骨っぽい日本男児の、これまた余りにもバカバカしく骨っぽすぎた戦中派いかりや長介氏の、勇ましくも哀しい愛国精神の物語」だった。
 この日は偶然にも「軍服を着た長介氏が、ポンコツの上に仁王立ちになって門前に到着する」シーンのリハーサルを何度も繰り返していた。
 渡辺が「笑顔を見せるな、愛国者愛国者らしく、もっとシマって顔で乗りつけろ」といかりやへ指示していたところに、製作主任がこっそりと、「事件」を知らせた。
 渡辺は、「へえ」と言ったきり、絶句した。
 自分の演技があまりにも下手なので監督が黙り込んでしまったのではないかと思ったのか、いかりやが心配そうに、渡辺のほうにやって来る。
「どうかしたんですか」
「どうしたんだろう」
「少しは迫力が出て来ましたか」
「迫力なんてもんじゃない」
「じゃ、いいんですね?」
「俺にもよく分からない」
 いかりやは自分の演技のことを、渡辺は三島のことを言っているのだが、不思議と、会話は、とりあえずは成り立った。
(薄気味悪そうにポンコツに戻って行く長介氏の軍服姿が、偶然の一致とは言い乍ら非道く不気味であったのを覚えている。)

 姫井信子は結婚を3日後に控えていた。彼女は25歳。就職はしていない。実家は岡山だが、大学が東京だったので、以後はずっと東京にいた。
 この日は、女友達と上野の国立博物館にお茶道具関連の展覧会を見に行った。
 その帰りの電車の中で、近くの乗客が興奮して話していた。
《別に聞き耳を立てたわけではありませんが、「三島由紀夫自衛隊に乗り込んだ」とか「割腹自殺した」とか言っているではありませんか。これは大変だと思いました。》
 そのまま、その女友達と三鷹にある婚約者の家に行き、夕食をとった。婚約者はなかなか帰って来なかったが、その母と、
《当然、三島由紀夫の話題になって、「こんな大変な事件が起きたのだから、結婚なんてしている場合じゃない」などという話になって、盛り上がりました。》
 と、40年後に彼女はこう回想する。
 結婚どころではないという話になったが、彼女も、そして婚約者も、
三島由紀夫の家とは親戚でも何でもないし、知っている人が楯の会に入っていたわけでもありません。彼の小説は『金閣寺』は読んでいましたが、「全部読みました」というほど愛読していたわけではありません。だけれど、とてもショックでした。》
 その理由のひとつは、三島の映画『憂国』を婚約者と観ていたからかもしれないという。
 その晩は大騒ぎとなったが、彼女は予定通り、28日に結婚した。
 その相手は、1歳下のいとこだった。彼はこの年の三月に東京工業大学を卒業し、弁理士を目指しながら、特許事務所で働いていた。
 その青年の名は、菅直人――40年後の内閣総理大臣である。

僕自身も、昭和天皇崩御されたときに、高校の寮に「天皇が死んだ!」という声が響き渡ったことや、阪神淡路大震災のときに、関西出身の同級生が、なんともいえない表情をして、テレビの画面に釘付けになっていたことを、いまでも思い出せますし、日航機の事故の日の夜、そこに自分の知り合いがいないであろうにもかかわらず、人の名前が延々と流れていくテレビ画面から、目が離せなかったのを覚えています。

ある大きな「事件」に対して、人はさまざまな立場で、その「情報」に接します。
サイレンススズカがゴールできなかった秋の天皇賞の結果を、僕は友人から電話で聞きました。
その友人は泣いていたのだけれど、僕は、そのとき、「ああそうか……」と、静かな気持ちで、その悲報を噛みしめていました。
そのときの僕は、母親の看病のために病院に詰めていて、その病状は、芳しいものではなかったから、「それどころじゃなかった」。


ひとつの「大きなニュース」に対して、マスコミの報道は、「みんながこう思った」という「傾向」を伝えようとするけれども、「実際に起こったこと」はひとつでも、その受け止めかたは、千差万別です。
この新書からは、「三島由紀夫は、なぜあんなことをしたのか?」は伝わってこないけれど、「当時の人にとって、三島由紀夫はどういう存在だったのか?」を窺い知ることができます。
それは、「親しい関係者の言葉」だけでは、語り尽くせないことですし、人々は、「あの事件」について語っているのに、「時代の空気」みたいなものが、ものすごく感じられるのです。

逆に言えば、これだけたくさんの人々の「日常」が記録されている「一日」は、日本の歴史において、そんなに多くはないでしょう。
終戦の日」や「大震災」の日は、大部分の人々にとっては、「自分も無関係ではいられない特別な日」だけれども、「昭和45年11月25日」は、大部分の人にとっては、「ごく普通の一日(ただ、三島由紀夫切腹したことを除けば)」なんですよね。

僕にとっては、関係者よりも、「三島由紀夫に直接関係のない人々」の記憶のほうが、興味深いものでした。
ああ、こうして、「忘れられない日」っていうのは、できあがっていくのだな、と。

この本の「あとがき」のなかで、著者は、

 もしいま三島クラスの作家が犯罪性のある大事件を起こせば、その本は、即刻、発売禁止、回収になってしまうのではないか。

と書いています。
そう言われてみれば、あんな事件を起こしながらも、三島作品は、現在まで読み継がれているわけで、それは、いまの時代からすると、不思議なことであるようにも思います。
あまりにも「現実感」に乏しい事件だったから、みんな、どうしていいのか、わからなかったのかもしれません。

たぶん、実際に「昭和45年11月25日」を経験された方にとっては、また違う読みかたができる本だと思います。
それにしても、年齢だけなら、三島由紀夫さんは、まだ存命でもおかしくないのですね……

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