琥珀色の戯言

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芸術闘争論 ☆☆☆☆☆


芸術闘争論

芸術闘争論

日本芸術界の欺瞞の歴史と、その安楽な生き方と、闘う。


第1章 今日のアートー情況と歴史(美術、アート、芸術、横文字の「ART」「西欧式のART」とは何か ほか)
第2章 鑑賞編(『現役美大生の現代美術展』という実践洗脳解除 ほか)
第3章 実作編(絵を作るコンテクストと個性 ほか)
第4章 未来編ーアーティストへの道(日本のロウアートマーケットアートの地政学 ほか)

金ぴかの、いささか悪趣味にすら思える表紙が印象的なこの本。
あの、村上隆さんによる、「アート論」であり、「アーティストになろうという人たちへの指南書」でもあります。
正直、僕はいままで、「現代アート」って、なるべくヘンなものをつくって、みんなを煙にまいているだけなんじゃないか、と思っていました。
いや、それでも村上隆さんの作品は、「わかりやすいほう」ではあったんですけどね。
(だからこそ、いろいろと槍玉に挙げられやすい面もあるのでしょう)

アーティスト志向ではない僕にとっては、あんまり意味のない本かと思いきや、この『芸術闘争論』で、村上さんは、これ以上ないくらい「現代における『アート』とは何か? どういうふうにして見れば、『アート』を楽しむことができるのか?」という「観客としての作法」を、とてもわかりやすく語ってくれているんですよね。
僕にとっては、「第2章 観賞編」が、もっとも興味深い内容だったのです。

 抽象表現主義とは一言でいえば、「ピカソを倒せ!」というムーブメントです。ピカソの荒々しくて独創的な作品に打ち勝つにはどうしたらいいのだろうということがいろんな形で研究されました。
 そして、ついに「絵を描かない」ことで、ピカソを撃退しようとしたわけです。なぜか?
 ピカソと対になっているマティスという画家がいます。マティスは晩年絵を描かないという境地に達していました。色紙をちょきちょき切って、みんなが知っているベネッセのマークみたいなものを糊で貼ったりしたわけです。それに加えてフランスから来たマルセル・デュシャンが便器で作った『泉』を発表した。muttとサインして、ある展覧会でこの便器を出して、アートははどうせ下ネタ=エロスではないか、下ネタだったら男子便所の便器でも持ってきてやるよ、と。美術館的な台座にのせて芸術とはこんなものでございというパロディをやってみせたところ、今や現代美術の始祖といえばデュシャンの『泉』ということになっています。これが現代美術のゼロ地点です。
 ピカソがあってマティスがあってデュシャンがあって、この描くことを拒否することが芸術の世界で非常に重要になってきた。前の章で、画商やキュレイターや美術館といったプレイヤーたちの望むもの、それが西欧式ARTのルールであると説明しましたね。それはもう本当にゲームのルールと同じです。

 なぜ日本の人たちが、現代美術が嫌い、現代美術がわからないと言うかというと、わざわざコンテクストを知的に理解しなければならないアートなんてアートではないと思っているからです。アートというのはそういう高尚ぶったお勉強のできる人の遊技ではなくて、誰にでもわかる=“自由なもの”であるべきだと、皆思っているのですね。
「アートは自由に理解すべきだ」
 これはほとんど信仰に近いものがあります。
 では、さきほどぼくが日本人にとって芸術であるといったマンガの場合はどうか。皆さんは「マンガはコンテクストなど理解せずに、自由に見て楽しめるからいい」と思っているかもしれませんが、実は外国人にとってマンガほどハイコンテクストで、ハードルの高い文法を持った芸術はありません。特に現代マンガは先行するコンテクストへの理解なしにはきちんとした理解は不可能です。それよりは現代芸術のほうがよほどわかりやすいと僕は思います。

 村上隆さんがすごいのは、こういう「言葉」を持っているところだと思うんですよ。
「絵を描かないことが芸術の世界で重要になってきた」というのは、ものすごく逆説的な話なのだけれども、ピカソ後、あるいは「写真」というツールが一般化してからの「現代美術が目指したもの」を、これほどクリアカットに言い表した言葉は聞いたことがありません。
 ピカソという「伝説の剣豪」に勝つには、もう、剣を抜いて勝負してもどうしようもないので、「私は剣なんて抜かなくても、闘気だけで敵を斬れる!」ってハッタリをかまし、いかにそれを相手に信じさせるか、という競争になっている。でも、そういう「ハッタリ」で相手が感服するのならば、そのハッタリは立派な「剣術」なのかもしれません。
 「男性用便器」をありがたがるのではなくて、「どうしてここで男性用便器がアートとして登場するに至ったのか?」という文脈を辿るのが、「現代美術の面白さ」なのかな、と僕は感じました。
 そして、確かに、現代の日本人にとっては常識ですらある「マンガの歴史的背景への理解」は、実は、世界共通なものではないし、あれほど複雑な「体系」と「分化」を示している「芸術」というのは、とても稀有なものなのです。

 村上さんは、「いかにして、作品に(アーティスト側の努力によって)『背景』を与えるか」について書いている一方で、ヘンリー・ダーガーという「ヴィヴィアン・ガールズという男性器を持った女の子たちが、南北戦争と思われるような戦いを繰り返し行っている不思議な物語を持った作品群」を、どこにも発表することなく、死ぬまで延々と描き続けていた作家をしきりに採り上げています。
 それを読むと、「現代美術の世界では、『観客へのアピール』や『市場の分析』が必要不可欠である」という村上さんの心のなかには、「衝動のままに、好きなことを描きたい」という欲求もあるのだろうな、と思うのです。逆に、そういう面が全くない人間は、アートを生業にはしないのではないかなあ。

 この本のなかで、村上さんは、日本の美大の「美術教育」のありかた、とくに、学生たちに「なんでも自由に描いていいよ」「どんな作品でも自分の感性に基づいて、自由に解釈していいよ」という「放任主義」に対して、しきりに疑問を呈しています。

 いってみれば戦後の日本人は、首輪をつけられないで育てられてしまった犬のようなものです。「自由」という名の野良犬が我々です。だから、社会という首輪をはめられてしまったらつらくて仕方がない。日本社会は今、国家として成立していないわけです。みんな首輪をはめられるよりは野良を選んでいる。首輪をはめられるよりは野良でいいというわけです。 
 ぼくは美大の先生たちを糾弾するようなことを言いましたが、実は先生たちの言い分のほうが生徒たちには受け入れやすいはずです。なぜなら、ぼくはルールという首輪をつけないと社会とつながらないよ、ルールを身につけると社会に出ることができるよ、そういう種類の自由があるよ、という話をしているのに、美大の先生たちは学生に社会とつながらなくてよいといっているからです。

 アーティストが自分の芸術的なものを引っ張り出そうと思うのなら、どうか日本式自由神話から脱出してください。内向的な作品、私小説的な作品は絶対ダメです。だいたい、絵が下手で内省的なものを誰がみたいと思いますか。ぼくらアーティストになるような落ちこぼれは、猿回しの猿になって玉の上に乗っかるしかないのです。だから、どうか、私小説的な作品は今すぐやめましょう。そうではなくて、本当に真剣なお笑い芸人のように笑いを取るなり、命がけで作品を作るなりして、国際的に見ても、これはすごい、こんなとんでもないことはできないというくらいでなくてはならないと思います。

 この本の「第3章 実作編」では、村上さんが過去に発表してきた作品について、製作のプロセスが公開されています。
 僕はこの章を読んで、現代美術は「思いつきのインパクト勝負」だというのが、僕の無知からきているのもだということを思い知らされました。
 そういえば、以前読んだ、ピカソの『ゲルニカ』についての新書でも、ピカソがあの作品にこめた綿密な「計算」と「試行錯誤」に驚いた記憶があります。
 どんな天才でも「単なる思いつき」をパッと形にしただけでは、長い間歴史に残る作品にはならないんですよね。
 「ひらめき」と「完成度を高めるための持続性」を両立させるというのは、けっして簡単なことではないはずです。
 ましてや、作品が「とうてい独りの力でつくり上げられるものではない」スケールの場合には。

 僕自身は、「芸術の自由」にまだ夢を持っていたい気はするし、「貧しいアーティストの物語」に共感してしまいます。
 それでも、この村上隆さんの本は、「現代美術のトップランナーが、身をもって体験し、感じていること」が、すごく率直に書かれている、素晴らしい作品だと思うのです。
 こうやって「言葉にして語る」ことも、それが批判されることも、村上さんにとっての「コンテクスト」の一部なんですよね。
 「アート」に興味があるすべての人にとって、何らかの得るものがありそうな、刺激的な一冊です。

参考リンク:ゲルニカ ピカソが描いた不安と予感(琥珀色の戯言)

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