琥珀色の戯言

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第144回芥川賞選評


文藝春秋 2011年 03月号 [雑誌]

文藝春秋 2011年 03月号 [雑誌]

今月号の「文藝春秋」には、受賞作の朝吹真理子さん『きことわ』、西村賢太さん『苦役列車』とともに、芥川賞の選評が掲載されていました。
恒例の選評の抄録です(各選考委員の敬称は略させていただきます)。

島田雅彦
 私小説、貧乏小説、癌小説等々は純文学のお家芸だった。過去の芥川賞受賞作を振り返れば、一目瞭然である。常に新しい意匠を求める建前はどの世界にも共通しているが、実際にはエポックメイキングな作品は滅多に現れるものではない。多くはそんなイメージとともに宣伝されるだけで、本当に新奇な作品は過半数の支持など得られはしない。芥川賞も基本、保守である。だが、保守こそ「わかりやすくて目新しいもの」を求めるのも事実だ。マイナーチェンジを繰り返さないと、保守は目立たず、忘れられてしまうから。

高樹のぶ子
 「きことわ」は触角、味覚、聴覚、嗅覚、そして視覚を、間断なく刺激する作品、この受感の鋭さは天性の資質だ。

(中略)

 「苦役列車」は人間の卑しさ浅ましさをとことん自虐的に、私小説風に描き、読者を辟易させることに成功している。これほどまでに呪詛的な愚行のエネルギーを溜めた人間であれば、自傷か他傷か、神か悪魔の発見か、何か起きそうなものだと期待したけれど、卑しさと浅ましさがひたすら連続するだけで、物足りなかった。

川上弘美
 『きことわ』は、言葉が粒だっている。この作品もまた、こころみに満ちた小説です。読む快楽を十分に感じながら読みつつ、わたしはいくつかの表現に首をかしげました。「情けない顔を浮かべた」「夕暮れ時の地下食品街は、ベビーカーを押す若い女性、手をつなぎあう母子のすがたが目に入る」「生きることはとどまりようがないから」などなど。どれも、「絶対にだめ」という表現ではないのですが、この小説のように、一つ一つの言葉の粒だちによって何かを表現しようとする場合には、「意匠としての言葉のゆらぎ」にあらざる「単なる表現の揺れ」は、ごくオーソドックスな小説よりも遥かに大きな疵となってしまうのではないかと思うのです。

池澤夏樹
 一般に小説とはストーリーである。一人または複数の人々の身の上に何かが起こり、それがいろいろに推移して、結果に至る。時は一方へと流れる。
 しかし、この通常の方法では書けないテーマが一つだけある。人間にとって時間とは何か、という大きな問題。

(中略)

 朝吹真理子さんの「きことわ」は時間というテーマを中心に据えた作品である。抽象的なものを具体的に語るのが小説だとすれば、これは稀有な成功例と言うことができる。

石原慎太郎
(『苦役列車』について)
 この豊穣な甘えの時代にあって、彼の反逆的な一種のピカレスクは極めて新鮮である。昔、深沢七郎に次いで中央公論文学賞を受けた池田得太郎の「家畜小屋」という作品を褒めた誰かが、「色の黒いの七難隠す」といっていたが、この作家の特性もそれに繋がるものと思う。

小川洋子
 『母子寮前』に登場する父親。彼のことが今も頭を離れない。社会人として人並みに仕事をこなしながら、家庭人としては全くの欠陥人間である彼は、終始、毒を撒き散らし続ける。母親は自然の理に従って旅立っていったが、父親はこの世でもあの世でもない異界に、一人取り残される。
 一方、主人公は決して自分の内面へ深く降りてゆこうとしない。彼の苦悩は、田宮虎彦や師匠の母親の死との比較によって語られる。母より父を先に亡くした人を、彼はうらやましいと思う。息子にそう思わせる父親は、やはり異界にしか居場所がない。

山田詠美
 『苦役列車』。正当にやさぐれているのを正確に描写しているのに、「そば」ではなく「おそば」、「刺身」ではなく「お刺身」、「おれ」ではなく「ぼく」。あまりにキュート。この愛すべきろくでなしの苦役が芥川賞につながったかと思うと愉快でたまらない。私小説が、実は最高に巧妙に仕組まれたただならぬフィクションであると証明したような作品。

黒井千次
(『苦役列車』について)
 主人公の奇行、愚行が必要以上に突出せず、若さによって受容され、思春期という器に収ってしまう面があるのに注目した。また、一つ一つの行為にどこかで微妙なブレーキがかけられ、それが破滅へと進む身体をおしとどめるところにリアリティーが隠されているように思われる。肉体、欲望、貧窮などが、このような筆致で書かれた作品は昨今珍しいのではないか。

村上龍
 『きことわ』が圧倒的な支持を得て早々と当選し、『苦役列車』も過半数の支持を獲得して、今回は二作受賞となった。わたしは、二作の受賞に積極的に反対はしなかったが、積極的に推したわけでもなかった。二つの小説は趣きも文体も違う。だが、共通する点もある。相応の高い技術で書かれていて、洗練されているが、「伝えたいこと」が曖昧であり、非常に悪く言えば、「陳腐」であるということだ。

(中略)

 もちろん、小説が政治的でなければならないとか、啓蒙的でなければいけないとか、そういったことではない。作家は無意識のうちに、また多くの場合は無自覚に、現実と対峙し、作品はその哲学や人生の戦略を反映するのだ。新人作家に対し、このような注文をつけるのは、『きことわ』と『苦役列車』が質の高い作品だとわたしが認めているからである。たとえば多くの選考委員は指摘したように、『きことわ』における異なった時間の描き方は秀逸だと思う。だが、あるレベルに達した作品への批評は、技術ではなく、テーマを巡って行わなければならないとわたしは考えている。一般論としてだが、高度な洗練は、この閉塞的な現実を前にしたとき、作品を陳腐化する場合がある。

宮本輝
 ジグソーパズルの小さなピースに精密でイメージ喚起力の強い図版が描かれてあって、そのピースを嵌め込んで完成した全体図は奇妙に曖昧模糊とした妖しい抽象画だというのが朝吹真理子さんの『きことわ』である。
 その難易度の高い絵画的手法を小説の世界でやってのけた二十六歳の才能はたいしたものだと思う。


今回は、久々の二作受賞ということもあり、落選してしまった候補作も含めて、比較的「お褒めの言葉」の割合が多かった印象があります。
石原慎太郎さんの「タイトル罵倒芸」もなく、山田詠美さんの「手厳しい一撃」もなく。
村上龍さんの「高度な洗練は、作品を陳腐化する場合がある」というコメントが、やや目立っていたくらいでした。
それにしても、朝吹さんに対しての選考委員たちの期待感はすごいですね。
僕は『きことわ』って、「すごく頭が良い小説だけど、なんかわざわざ頭を使わされているような気がして苦手」でした。
苦役列車』のほうが、読んでいて面白かった。
あの主人公とは、絶対に友達にはなれないと思いますが。


きことわ

きことわ

苦役列車

苦役列車

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