琥珀色の戯言

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自分探しと楽しさについて ☆☆☆☆


自分探しと楽しさについて (集英社新書)

自分探しと楽しさについて (集英社新書)

内容(「BOOK」データベースより)
老若男女を問わず、「自分探し」を続けている人は少なくない。自分の存在は、自分にとって最も明らかなはずなのに、なぜ見つけることができないのだろうか。現実に多くの人が、自分の生き方に悩み、自分探しを続けている。もちろん、個々人が置かれた状況はさまざまであり、万能薬は存在しない。その事実を踏まえたうえで、人気作家が、「あなたの中の前向きな気持ち」を、そっと引き出してくれる一冊。

森博嗣先生のエッセイを読み終えるたび、僕は溜息をついてしまいます。
ああ、森先生はすごいなあ、真似できないなあ、って。

この新書で森先生の思考にはじめて触れる人は、「こんな身も蓋も無いことを堂々と言ってのける人がいるのか!」と驚くかもしれませんが、ずっと読んでいると、「まあ、森先生ならこのくらい書くよな」という感じではあるんですよね。
この新書から何か影響を受けるというよりは、森先生の生きざまに「こんな人もいるんだな」と少しだけ刺激を受けて、また日常に戻っていく。


この本のなかで、森先生は、「自分」という存在を確立することについて、こんなふうに書いておられます。

 本賞で一番大切なことを書こう。「他者」を認めること、それが「自分」を確立する。認めるというのは、存在を認め、立場を認め、意見を聞き、人格を尊重し、必要であれば、守り、敬う、ということである。

(中略)

 意見が違うと、相手の人格まで否定し、貶し合いをするような場面が今でもまだ多い。これは間違っている。それでは前進はしない。相手の意見を否定しても、相手の人格は絶対に尊重しなければならない。
「他者」がどんな考えを持っていても、「他者」を尊重する、それによって、「自分」が確かなものになる、というということがなかなか実感できないかもしれない。人は、自分と違う意見の他者がいると、なんとか説得しようとする。自分の意見の正当性を主張し、相手の主張の間違いを指摘する。こうした議論は大切である。議論をしなければ、そもそも相手の考えはわからないし、理解し合えない。しかし、いくら自分の方が正しいと考えていても、相手が納得しない場合がある。これは感情的な判断が混在した結果かもしれないし、言葉の定義が違うある種の誤解かもしれないし、相手が頑なに思考を停止して理解を拒んでいる状況かもしれない。そのいずれであっても、相手の間違った(と思われる)意見に対して、やはり尊重しなければならない。「どうしても君がそう考えるのであれば、しかたがないね」と握手することである。その人が、そういう意見を持っている、と理解する以外にない。それ以上に、相手に影響を及ぼすことはできない。
 そして、こういう経験を重ねるうちに、「自分」に対しても、「そうか、僕はどうしてもそう考えてしまうんだな、まあ、しかたがないか」と認めることができるようになる。まったく同じプロセスなのだ。

他人を尊重することによって、「自分」が見えてくる。
他人が「どうしてもそう考えてしまう」ことを知ることによって、「そうか、僕はどうしてもそう考えてしまうんだな」と認められるようになると、たしかに、少しラクになるような気がします。
ただ、それを突き詰めると、「何が正しいのか、よくわからなくなってくる」こともあるのだけれど。
(いや、そもそも「すべての人にとっての、共通の正しさ」など存在しない、ということになるのかもしれませんが)


森先生が考える「楽しさ」について。

 逆に考えてみると、人にうまく話せないものの方が価値がある、ということになるかもしれない。楽しいことは、人に話せない部分なのだ。あれこれ説明して、わかってもらえないことがあったら、それこそ本当の楽しさだといっても良いだろう。人に簡単に伝わるようなものは、せいぜい「楽しそう」程度のものである。
 他者に伝えられるのは、固有名詞や物の名前や、具体的な状況だけであって、けっして本質の「楽しさ」ではない。たとえば、僕が自分の庭園鉄道の工事をしているときの面白さをいかに書いても、読み手はまったく同じことをした経験がない人ばかりだから、想像のしようがない。似たようなことをした人ならば、多少は「楽しそう」だとわかるし、また、似たようなことをしようと思っている人にも、仄かに「楽しそう」だと伝わる。しかし、その程度のこと。
「楽しさ」は、人に伝えるために求めるものではない。「こんなに楽しかったんだよ」と言いたくなる気持ちはわかるけれど、少し抑えておくべきだし、人への伝達を意識すると、楽しさに没頭できなくなる。最近は、みんながデジカメを持っているし、携帯電話にもカメラ機能が搭載されているから、どこへ行ってもシャッタを切ろうとする。あとで誰かに見せよう、という行動かもしれないし。しかし、写真を撮ろうと意識している分、楽しさを見逃している。きちんと自分の目で見ていない。まるで雑誌のライタかテレビのレポータのようなもので、「楽しむ」どころか「記録の仕事」に神経を遣ってしまっている状態といえる。

(中略)

 まえにも書いたことがあるが、僕はデジカメで撮影した写真は、すべて一枚残らずネットにアップしている。余分な写真は撮らない。失敗したときには、その場ですぐに消すことにしている。つまり、自分の楽しみや自分の思い出のために写真を撮ることはしない。
 自分の楽しみのために旅行にいったときには、ブログには一切書かなかった。毎日アップする分をあらかじめ書いておいて秘書氏に更新するようにお願いしておいた。ようするに、ネットの日記は捏造である。創作といった方が良いだろうか。

 良い例がある。僕の子供たちは、いつだって僕の庭園鉄道で遊べる環境にあったけれど、まったく興味がない。これは当然で、僕も彼らを誘ったことはない。彼らには彼らの「楽しさ」があるのだ。「恵まれている」ものからは、楽しさは発見しにくい。

この新書のタイトル、『自分探しと楽しさについて』を最初に見たとき、『自分探しの楽しさについて』の誤植なんじゃないか、と思ったんですよね。
「自分探し『と』楽しさ」になると、「2つの別々のテーマ」を1冊の新書のなかで語っているような印象を受けるから。

でも、この新書を読みとおしてみると、「自分を確立すること」ができなければ、「本当の楽しさ」を得ることはできない。「自分」を持たない人間は、結局のところ、「相対的な楽しさ」を求めて、他者との関係に一喜一憂するだけなのではないか?というのが、森先生の言いたかったことなのだと感じました。


森先生の生き方は、正規分布内の人間には、なかなか真似できるものではないでしょう。
森先生の「庭園鉄道」の写真を見たことがあるのですが、あのくらいのスケールのものを、ひとりでつくりあげていながら、「自分の子供たちがまったく興味を持たない」ことを「これは当然で、彼らを誘ったこともない」と言い切れるっていうのって、僕には信じられない。
せめて自分の子供にくらい、少しは興味を持たせたいと思うのではないかなあ、「普通の人間」ならば。


この新書を読みおえて、僕はやっぱり溜息をつきました。
ああ、やっぱり森先生のようには生きられないな、ここまで徹底しなければ「本物の楽しさ」を手に入れられないのか……って。
しかしながら、他人といがみ合ったり、妬んだり、人間関係のことに悩んだりしながらも、それなりに「楽しい」と感じられる瞬間もある僕の「普通の人生」は、まあ、そんなに悪くないのかもしれないな、という考えも頭に浮かんできたんですよね。
森先生のやりかたで「楽しさ」に到達できるほど、僕は「孤独」への耐性が強くないから。

「自分探し」をしていると言いながら、インドに旅行にいって、「ありきたりの『自分探し』の型にはまってしまう」。
この世界の大部分を占める、「森博嗣にはなれない人間」は、そのくらいの「中途半端な自分」でちょうど良いのではないかな、と考え直さずにはいられない、そんな本でした。

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