妻に聞いた話。
いまは大学の教授になった某先生は、医者になって3年目か4年目くらいのときに、自分の下について研修することになった新人の医者に、こんなことを言っていたそうだ。
「自分の経験を信用するな。新しい患者さんの担当になったら、ありふれた疾患だと思っても、ちゃんとした文献か医学書を3〜4種類は最低読んで、その病気のことを勉強しろ」
いや、率直に言うと、非優秀研修医だった僕のような人間が、こういう人の下についていたら、研修を終える前に燃え尽きてしまったのではないかとも思うのですが、やっぱり、偉くなる人というのは違うものです。
教授が言うならともかく、ついこの間まで研修医としてのハードな日常を送ってきて、そのための肉体的・精神的な余裕が無い生活だということを知っているはずの人なのだから。
最近、有名ブロガー、ちきりんさんが書かれた『ゆるく考えよう』という本を読みました。
「なるほど、こんなものの見方があるのか」と気づくことも多くて、なかなか面白い本だったのですけど、正直、読み終えて、何かほんのちょっと物足りなく感じたんですよね。
それはいったい何なのだろうか?と考えていたのですが、どうもそれは、「じゃあ、この人自身はどういう生き方をしているのか?」という「実体験的な情報」が少ないところにあったのではないかな、と。
ちきりんさんはとても頭が良い人だと思うし、真っ当なものの考え方をする人だと感じます。
そして、ちきりんさんは、世の中を、すごく俯瞰している人にみえるのです。
でも、その「俯瞰している」というのが、僕にとっては、「現実感に乏しい」と思えてしまう。
人が「経験から学ぶこと」というのは、とてもたくさんあります。
「子どもの教育」というのは、ある年齢までは、「何を経験させていくか」ということになるのでしょう。
しかしながら、多くの人は、「自分の経験」を重視するあまり、「なんでも自分の経験という物差しでしか測れない人間」になってしまいがちです。
「自分の経験」というのは「ちゃんとわかっているつもり」なだけに、かえってこびりついて離れなくなってしまうこともある。
最初に書いた医者の世界でいえば、「前に診たこの症状の患者さんは、こういう診断・治療で良くなったから、この人も同じようにすればいいはず」と、「経験頼り」の医療を続けていると、ちょっとイレギュラーなことが起こった場合に、対応できなくなってしまうことがあります。
こういうのは、まだ経験そのものが少ない、なりたての研修医や、経験が豊富であることに胡坐をかいてしまう大ベテランにありがちなことです。
もちろん、誰にでも起こりうることですが。
どんなに仕事熱心・研究熱心でも、人が実際に「経験」できることというのは、この世界の中のほんのわずかな部分でしかありません。
それを理解しているからこそ、最初に出てきた先生は、「ありきたりな病気でも、みんなの知識の集積である論文や教科書を確認しなさい」と言っていたのです。
そのほうが、「経験」だけにとらわれるより、はるかに効率的に自分の思考の幅を広げられるから。
(まあ、僕にもその「正しさ」はわかるのですが、実行はできてないんですけどね。岡田斗司夫さんの「レコーディング・ダイエット」ですら、できてないですから)
ただし、その一方で、「具体的な経験」を全く無視してしまうと、なんとなく「他人に伝わりにくい感じ」になってしまうんですよね。
「普遍的な正しさ」というのはこの世界に存在しないとしても、それに近いものを言葉にすると、たぶん、ものすごく抽象的になってしまうのではないでしょうか。
何かを語るときって、客観的・抽象的になればなるほど(ある意味、「普遍的」であればあるほど)、「なんか上から偉そうに言われている」ような気がしてくるのものです。
その一方で、「経験談」というのは、なんとなく受け入れやすい。
「あの大企業の社長の苦労話」みたいなのって、自己啓発本やビジネス書では定番です。
時代背景も持っている資質も違うのだから、簡単に真似できるはずもないのに。
僕は「『もしドラ』読む暇があったら、本家のドラッカーの『マネジメント』を読めばいいのに」と、ずっと思っていたんですよ。
でも、実は『マネジメント』ってけっこう読みにくい。
少なくとも「高校野球の女子マネージャーの話」ほど「具体的で体験談的」ではない。
そりゃ、やっぱり売れるのは『もしドラ』のほうだよね。
人間って、「経験」には耳を傾けられても、「哲学」は敬遠してしまいがちです。
僕は先日、『個人ブログ』について、こんなことを書きました。
僕が最近の個人ブログで「つまらない」と思うのは、みんな「公的な立場を意識しすぎている」というか、「評論家としてふるまおうとしすぎている」ことなんですよ。
自分で考えたこと、感じたことを書くのではなく、「世間」と戦おうとしすぎているのではないかなあ。
あるいは、自分を大きく見せようとしすぎて、借り物の言葉ばかりを並べてしまっているようにも思われます。
ごく一部の「専門家のブログ」を除いて、多くの人は、個人のブログに「この人は、どう感じたのか?」ということしか求めていないはずです。
そういう「個人的な感想」の集積が、ある一つの作品に対する「評価」になるし、それは、ひとりの有名映画評論家のコメントよりも、ずっと「普遍的な意味」を持つのではないかと僕は考えています。
でも、実際に人というのは、自分が「世論という大きなものの、ひとつのパーツになる」ことを受け入れられない。
ブログを書くときのスタンスとしては、「個人的な感想」で良いと思うのです。
僕は僕の経験を自分で生かしていきたいし、どこかの誰かが、少しでも役に立ててくれれば嬉しい。
でも、僕は自分の経験が万人に対して「正しい」と考えているわけではありません。
あくまでも、この世界の「ひとつのパーツ」、それもなるべく使ってもらえるパーツであれば良いんです。
熊本の事件について、さまざまな意見があることを、あらためて知らされました。
子どもから目を放しても大丈夫! - 俺の邪悪なメモ
↑のブログの記事を読んで、「なるほど」とも思いました。
これはまさに、現在、子供が置かれている状況への「俯瞰」なわけです。
まさに「全体像としては正しい」。
でも、「全体としては危険になっているわけではない」からといって、「不運にも被害にあった人たちが救われる」というわけでもない。
そういうのが、「俯瞰」の持つ「伝わりにくさ」なのです。
その一方で、「自分の経験」を基準に、「他人もこうするべき」と言う人もけっして少なくない。
「欧米諸国では、多くの人が集まる場所のトイレが危険なのは常識!」
それは事実なのでしょう。教えてくれてありがとう。
しかし、それは海外在住経験がある「あなたの経験に基づく判断」でしかありません。
じゃあ、中国ではどうなのか?インドでは?パプアニューギニアでは?
なぜ「欧米での常識」が、「あんな事件が起こる前の日本での常識」に、即座に置きかえられるのか?
そもそも、なんでこういう人たちが例示するのは、いつでも「欧米」なのだろう?
「欧米に行っていたことがある自分の経験は、ずっと日本にいる人たちよりも優れている」という思いこみがあるんじゃないのか?
ただし、今回の事件を契機に、「今後、日本で3歳児がショッピングモールでトイレに行く場合にどうすればいいか?」をみんな考え直すはずです。人が集まる場所でのトイレのありかたも、あらためて検討されるでしょう。
そうやって、世の中は「変わっていく」のです。良かれ悪しかれ。
「お前もお前の思い込みで、こんなブログを書いているのだろう、ブーメランだ、みんな同じだ」と言う人もいるでしょう。
うん、確かにそうかもしれない。
それを否定はできませんし、僕はいつでも「同じかもしれない」と思いながら書いています。
「伝える」ために具体的な経験を書くことが多いのだけど、その「具体例」に挙げてしまった人には、申し訳ないという気持ちもあります。
でも、書かずにはいられないのです。
僕にはそれしかできないので。
結局のところ、「自分の経験」というのはアテにはならないし、「俯瞰」だけでは、他人にうまく伝わらないことが多い。
「自分の経験」と「俯瞰的に学ぶこと」、そして、「他人の立場を慮ること」
大事なのは、この3つをバランスよく積み重ねていくこと、だと僕は考えています。
人間は、自分にとって身近なものにばかり目が向いてしまいがちです。
あのエントリの次に『アフリカ―資本主義最後のフロンティア』という本の感想(とくにルワンダの話)を書いたことの意味を理解してくれた人が、少しでもいてくれればありがたいのですが。
- 作者: ちきりん
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