琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

いいときには、とてもいいものです。

参考リンク:物語にできること - 空中キャンプ
僕も「物語」を愛する人間のひとりであり、↑のエントリを読みながら、いろんなことを考えました。
たしかに、この未曽有の大災害は、たくさんの「物語」をこれから生みだすことになるのでしょう。
僕がいま読んでいる『村上春樹 雑文集』のなかに、「文学」(ここで村上さんが使っている「文学」≒「物語」だと僕は考えています)と「現実」についての、村上春樹さんのこんな文章がありました。

 しかし歴史的に見ていけばわかることだが、文学は多くの場合、現実的な役には立たなかった。たとえばそれは戦争や虐殺や詐欺や偏見を、目に見えたかたちでは、押し止めることができなかった。そういう意味では文学は無力であるともいえる。歴史的な即効性はほとんどない。でも少なくとも文学は、戦争や虐殺や詐欺や偏見を生み出しはしなかった。逆にそれらに対抗する何かを生み出そうと、文学は飽くこともなく営々と努力を積み重ねてきたのだ。もちろんそこには試行錯誤があり、自己矛盾があり、内紛があり、異端や脱線があった。それでも総じて言えば、文学は人間存在の尊厳の核にあるものを希求してきた。文学というものの中にはそのように継続性の中で(中においてのみ)語られるべき力強い特質がある。僕はそう考えている。
 その力強さはつまりバルザックの強さであり、トルストイの広大さであり、ドストエフスキーの深さである。ホメロスの豊かなヴィジョンであり、上田秋成の透徹した美しさである。僕らの書くフィクションは――いちいちホメロスを引き合いに出すのも申し訳ないような気がするけれど――そこから絶えることなく継続して流れてきた伝統の上に成立している。僕は一人の小説家として、あたりがしんと静まり返った時期に、その流れの音をかすかに耳にすることがある。僕自身はもちろんたいしたものじゃない。言うまでもないことだが、ほとんど世の中の役には立っていない。それでも僕が今こうしてやっていることは、古来から綿々と引き継がれてきたとても大切な何かなのであり、これからも引き継がれていくはずのものなのだと、僕は感じる。

僕は『空中キャンプ』さんのこのエントリを読んで、「そうだよなあ」と思うのと同時に、感心だけでなく、心の奥に小さなトゲが刺さったような気もしたのです。
いまの僕には「これもいつか物語になる」と言ってしまうことに違和感があるのです。
それは、自分の親を失ったとき、親戚に「これも君の医者としての人生にとって、いい経験になるよ」と言われたときと同じような。
正直なところ、そういうのを「物語にすることが許される」のは、当事者だけなのではないかと思うから。


でも、たしかに、こういう「物語」は、「人類」という大きな枠のなかで考えれば、なるべく多くの人に「人間存在の核」を伝えるために紡がれていくのでしょう。
「物語」になるために、人は命を落としたり、大事な人を失ったりするわけではないのだけれども。
やたらと「美談」や「悲劇」をつくりあげようとするマスコミには、そういう「当事者の感情への想像力の不足」への不快感があります。
それでも、いつかは(それがいつかはわからないけれど)、直接的な記憶を持つ人は失われて、「記録」や「物語」になっていくというのが、人間の歴史なのです。
いまは、そういうふうに俯瞰してしまうことすら「不謹慎」だと感じずにはいられないのですが。


その一方で、生きている人は、生きている人にしかできないことをやるべきなのだろうな、とも少しずつ思うようになってきました。
生きているからこそ、そんなふうに「俯瞰」してしまう。
僕たちだって、それができるのは「生きているあいだ」だけなのだから。


僕にとっての村上春樹さんは、自分が比較的安定しているときに読むと心をかき乱され、不安なときに読むとなぜか気持ちが落ちつく、そんな作家です。
なぜそうなのかは、うまく説明できないのですけど。
この1週間、この『雑文集』を読むことによって、僕はかなり心の平安を得ることができたのではないかと思うのです。
災害による「実害」をほとんど受けていなかった僕でさえ、いまの「空気」みたいなもののなかで日常を継続していくのは、ちょっとつらくて。


この『雑文集』を読んでいると、いつ、どんなとき、書評を書いているときでも、音楽について語っているときでも、安西水丸さんと和田誠さんの対談で語られているときでも、村上春樹という人は、とことん、村上春樹なんですよね。

この本に掲載されているジャズ・ベーシストのビル・クロウさんへのインタビューを読みながら、僕はこのはじめて名前を聴いた、自分にとってほとんど興味のないジャンルのミュージシャンが、自分のすぐそばにいるように感じました。
村上春樹さんは、インタビュアーとして(というか、「話の聞き役として」)すごい能力を持っているのだということに感銘を受けずにはいられません。

 ここに収められたレイ・カーヴァーやティム・オブライエンの作品からも、翻訳作業を通して、僕は大事なことを数多く学んだ。彼らから学んだもっとも大事なものは、小説を書くということに対する姿勢の良さだったと思う。そのような姿勢の良さは、必ず文章に滲み出てくるものだ。そして読者の心を本当に惹きつけるのは、文章のうまさでもなく、筋の面白さでもなく、そのようなたたずまいなのだ。

村上春樹さんが「何を書いても村上春樹」なのは、たぶん、村上さんがものを書くときの「姿勢」に筋が通っているからなのでしょう。
今回の震災についてのいろんな人の文章を読むと、この村上さんの言葉について、あらためて考えさせられます。


最後にひとつ、この本のなかで、いちばん僕の印象に残った村上さんのことばを御紹介しておきます。
長年のパートナーである安西水丸さんの娘さんの結婚式に送ったメッセージだそうです。
(村上さんは冠婚葬祭に出席しない人だと聞いていたので、このようなこともあるのだと意外に思いつつ読みました)

 かおりさん、ご結婚おめでとうございます。僕もいちどしか結婚したことがないので、くわしいことはよくわかりませんが、結婚というのは、いいときにはとてもいいものです。あまりよくないときには、僕はいつもなにかべつのことを考えるようにしています。でもいいときには、とてもいいものです。いいときがたくさんあることをお祈りしています。お幸せに。

震災数日後にこれを読んで、僕はなぜだか涙が出てきて困りました。
生きているといろんなことがあるけれど、きっと「いいときには、とてもいい」。
皆様に「いいとき」がなるべくたくさんあることを、僕もお祈りしています。


村上春樹 雑文集

村上春樹 雑文集

内容紹介
インタビュー、受賞の挨拶、海外版への序文、音楽論、書評、人物論、結婚式の祝電――。初収録エッセイから未発表超短編小説まで満載の、著者初の「雑文集」!

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