『予防接種は「効く」のか?』(岩田健太郎著・光文社新書)より。
ゼロリスクを考える時、僕が思い出すのはアップル社のコンピューター、Macです。Macのノートブック型のコンピューターを僕は愛用しています(こんなにスティーブ・ジョブズに貢いで〔投資して〕宣伝もしているのに、アップル社からは何もいただいていませんが……)。
Macは使いやすいコンピューターですが、一つ大きな欠点がありました。電源コードとコンピューターとの接続部です。ここを頑強なプラグで接続していたのですが、足を引っかけたりするとプラグがひんまがって使えなくなってしまうのです。僕も昔、これでコンピューターを壊したことがあります(涙)。
これについて、世界最高レベルのコンピューターの作り手が対応しましたが、どうもうまくいかない。
彼らの普通の思考だと、「壊れるものは、もっと強くして壊れないようにしよう」と考えます。
「もっと強靭で壊れないプラグを」と、どんどん堅牢な、頑丈なプラグを開発しようと努力するのです。壊れるというリスクをどんどん減らしていけば、いつかはうまくいくだろうという「ゼロリスク」の希求です。
しかし、アップル社というのは興味深い会社です。こういう「専門家」の発想だけでコンピューターを作りません。「逆の発想」「専門家ではない素人の発想」を取り入れました。
なんと、逆に接続部が簡単に外れるようにしてしまったのです。プラグを簡単に外れる磁石にしたのでした。一般的な(質の高い)技術者とは反対の考え方をしたのです。
この新しい接続部は弱めの磁石でくっついているだけなので、足を引っかけると「簡単に外れるように」なっています。簡単に外れるから、ひんまがったりはしません。これで接続部は壊れなくなったのです。
リスクをゼロにしようとして堅牢に、頑丈に接続部をつくろうとしても、それより強い力が働けばやはりそこは壊れてしまう。リスクはゼロにはできないんだよ、という事実を率直に認め、むしろ外れちゃってもOKな仕組みにすればよいのだ、という素人による発想の転換が成果をもたらしました。
僕はWindowsを普段は使用しているので、この電源コードとコンピューターとの接続部のプラグが実際にどんなものであるのかはわからないのですが、この「アップル社の発想の転換」の話は、とても印象的でした。
そして、今回の原発事故についてのさまざまなニュースを観ながら、この話を何度も思い出したのです。
ふだん「安全性」について考えるときには、「とにかくトラブルそのものが起こらないように、頑丈なもの、完璧なものを目指す」というのが一般的な方向性ではないでしょうか。
しかしながら、どんなに突き詰めていっても、「100%安全」というのは、人間がつくりだすものでは「100%不可能」なんですよね。
そう考えると、「トラブルが起こること」を前提にして、「トラブルが起こった際に、被害を最少にすること」は、合理的な発想です。
もっとも、Macのノートブックでこういう発想が可能になった前提条件として、もしコードに足を引っかけてプラグが外れてしまっても、しばらくの間は内部バッテリーの働きで、コンピューターそのものは動作できる」という技術の進歩もあるのです。
昔のマイコンのような、「電源コードが抜けたとたんに画面が真っ黒になって動作停止となり、データも消失」というレベルの時代に、こんな「簡単に外れることによって、プラグを守る」構造だったら、「プラグより、俺のデータを返してくれ!」ということも少なからずあるでしょうから。
この「簡単に外れるようにすることによって、より大きな被害を防ぐ」という発想は、すぐに思い浮かぶようでいて、現場の技術者にとっては、なかなかイメージできないもののはず。
やっぱり、ずっとその世界でやってきている人は、「100%安全を目指す」ほうに行ってしまいそうです。
実際にこの「簡単に外れるプラグ」を思いついた人はもちろんなのですが、これを製品に採用したアップル社も、勇気がありますよね。
プラグが簡単に外れることによって、故障を防ぐことができたとしても、ユーザーは「起こらなかったこと」には、なかなか気づきませんから、「大きな故障を防いだメリット」が実感されることは少なく、「なんでこのプラグ、こんなに外れやすいんだ。もうちょっとしっかりつくれよ!」って思われる機会のほうがはるかに多そうだから。
僕は、原発を推進してきた人たちは、たぶん「100%安全」なんて、信じてはいなかったと思うのです。
彼らはみんな立派な「科学者」です。
人間がやることに「完璧」がありえないことは理解していたはずだし、自然災害のリスクだけでなく、原発を運営するのが人間であるかぎり、信じられないようなヒューマンエラーが起こりうることも知っていたはず。
でも、原発は、誰も信じていない「100%安全」を要求されていました。
「100%安全」という建前があるために、「もしなにかトラブルがあったときに、最低限の被害に抑えるためのシミュレーション」が甘くなっていたのかもしれません。
「原発よりも車の事故で死んでいる人のほうが多いのだから、原発よりも車のほうが危険だ」と言っている人もいます。
僕が生まれてから、大きな飛行機事故も何度か起こり、そのたびに多くの人が「もう飛行機になって乗らない」と「決心」していましたが、そういう人たちは、しばらく時間が経つと、また飛行機に乗るようになります。
「まあ、あんな大きな事故のあとはみんな気をつけるだろうから、しばらくは大丈夫」なんて。
ただ、車や飛行機の場合は、基本的に「事故で被害を受けるのは利用者」です。
(車にはねられたり、墜落事故に巻き込まれる可能性もありますが、不思議なことに「自分が事故を起こすかもしれないから、車は不要、という人はいても、暴走した車に轢かれるかもしれないから、車は不要」という人はあまりいませんね)
でも、原発の場合は、「普段から恩恵を受けている人たち」と「大きなリスクにさらされている人たち」が別々の集団である、という問題点もあります。
前者が東京の人たち、後者が福島の人たち、と考えてください。
もっとも、原発を抱える地域には、補助金など、経済的にさまざまなメリットがあることも周知の事実。
それが今回のような「何かが起こったときのリスク」に見合ったものかどうかは微妙ですが。
「ならば、原発を都心につくってみろ!」と叫ぶのも、「合理的」ではありません。
リスクマネジメントという観点からは、「危険なものは、何かが起こったときに、より被害が少ないような場所につくるべき」なのです。
被害を受けいている人たちにとっては「理不尽」かもしれないけれど、「公平」の名のもとにあえて多くの人を危険にさらすようなことには、一部の人たちが「いい気味だ、と溜飲を下げる」くらいの意味しかありません。
もちろんこういうのは、「客観的という名の、傍観者としての見方」でもありますが。
僕の個人的な現在のスタンスは、「いま動いている日本の原発を即時停止すると、僕の大好きな『電気が必要な生活』が成り立たなくてつらいから、ある程度のリスクを受け入れて当面は原子力発電を続け、長期的には他の方法での電力供給に切り替えながら、原発を減らしていくべき」というものです。
おそらく、多くの人は、そのくらいの「中間的な」結論に着地せざるをえないのではないでしょうか。
やっぱり「100%安全じゃないと受け入れられないもの」「何かトラブルがあったら、手のほどこしようがないもの」は、どんなに役立つものでも、つくるべきじゃない、と思うのです。
世の中には、「もう車なんて乗らない」という交通事故の被害者遺族も少なからずいるはずで、そういう「少数派」の声は、これからも切り捨てられていくのだろうけど。
予防接種は「効く」のか? ワクチン嫌いを考える (光文社新書)
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