『と学会年間・BROWN』(と学会著・楽工社)より。
(「と学会」会長・山本弘さんのまえがき「知識を蔑む者は足をすくわれる」から)
2008年秋、日本のネット上で、「神舟7号映像捏造疑惑」が持ち上がった。9月27日に中国の宇宙船・神舟7号が行った船外活動の映像に、画面上方に向かって移動する「泡」のようなものが写っている。これは宇宙で撮影されたものではなく、プールの中で撮ったニセの映像に違いない……というのである(http://dic.nicovideo.jp/v/sm4765291)。
その少し前、北京オリンピックの開会式の映像でCGが使われたり、少女の歌が口パクだったりで、中国の印象をかなり落としたのは事実だ。しかし、この映像に関しては、捏造の証拠はまったくないと断言できる。
映像の最初のほうで、飛行士が小さな国旗を振っているのだが、その動きはまさに真空で無重力の状態の動きなのである。水の抵抗らしきものは見られない。また、実際にプール内で行われた宇宙飛行士の訓練映像では、水のせいで画面がかなり青みがかっているが、神舟7号の映像ではそんなものは見られない。水中ではないのだから、謎の物体も「泡」ではありえない。おそらく宇宙服や船体からはじけ飛んだ何かのゴミだろう。
さらに詳しく知りたい方は、宇宙開発に詳しいライターの松浦晋也氏のブログを参照していただきたい(http://smatsu.air-nifty.com/lbyd/7/index.html)。
それにしても、捏造説を主張する者たちの発言には、まったくあきれる。「背景に星が写っていないのがおかしい」「旗の動きが無重力とは思えない」「光源が不自然だ」……それも1人や2人ではなく、大勢の人間がそう言っているのだ。実際には、スペースシャトルや国際宇宙ステーションの船外活動の映像にも、背後に星なんか写っていない。宇宙飛行士や宇宙船に露出を合わせると、星は暗すぎて写らないのだ。
つまり「無重力とは思えない」「不自然だ」などと言っている連中は、本物の宇宙での船外活動の映像も、宇宙飛行士のプールでの訓練映像も、まともに見たことがないのだ。それなのに、自分には映像の真偽を判断できる能力があると思い上がっている。
この騒ぎを見て、僕は本当に腹が立ち、日本人として恥ずかしくなった。当人たちは「捏造だ」と騒いで中国を笑いものにしているつもりなのだろうが、実際には日本人の知的水準の低さが世界に宣伝されてしまったのだから。一般人の頭の中にある「宇宙」のイメージは、SF映画やマンガやアニメから得たものである。星の海の中に地球や宇宙船が浮かんでいる映像を見慣れているもので、それが本当だと思いこんでいる。「宇宙で撮影しても星は写らない場合が多い」という、カメラについての基礎知識があればすぐわかる程度の情報でさえ、知られていない。
そんなこと知らなくても日常生活に支障はない? まあ、普段ならそうだろう。しかし、今回の神舟7号疑惑のように、正しい知識の欠如のせいで足をすくわれることは多いのだ。
無論、1人の人間があらゆる分野の知識に精通するのは不可能である、だが、知識がなければないで、正しい知識を検索してみればいいだけのことだ。そのためのインターネットだろう。スペースシャトルや国際宇宙ステーションの船外活動の映像なんて、検索すればいくらでもヒットする。正しい知識を書いたサイトも見つかる。
「捏造だ」と騒いだ連中は、その程度の労力しかかけなかった人間――自分の「常識」や主観的印象に絶大な自信を持ち、知識を得ることをうとんじるタイプの人間である。こういう人間はおそらく、これから何度でも騙されるだろう。
参考リンク(1):中国の「神舟7号」の船外活動の映像の中に・・・泡が?(ニコニコ動画)
参考リンク(2):神舟7号における、船外活動の画像に関するFAQ(よくある質問と答え)Ver.1.1(2008年10月16日木曜日版)
患者さんに薬を処方しようとすると、「薬は副作用があるから、飲みたくない」と言われることがけっこうあります。
嫌がっている人の口をこじ開けて内服していただくわけにもいかないので、とりあえず説得するのですが、必ずしもうまくいくとは限りません。
いや、「絶対に薬なんて飲まない」というのなら、それはひとつの人生観としてこちらも尊重しなければならないのだろうな、と思うのですが、「病院の薬は副作用があるからイヤ、副作用のない○○っていう健康食品で治療します」という人がけっこういるのです。
われわれからすると、そういう「何が入っているかもわからないし、効果が客観的・統計的に分析されているわけでもない『自然食品』」と、ちゃんと治験が行われ、安全性・効果についてもひととおり評価された上で認可された「病院の薬」とでは、どちらが「安全」で「効果的」かなんて自明の理のはずなのですが……
こういう患者さんたちというのは、たいがい、「病院は薬漬けにして儲けようとしている」とか「隣の××さんは副作用でひどい目に遭った」という話をされます。
そして、彼らは一様に「病院や医者には、騙されないぞ!自分は『本当に効く薬』を知っているんだ」と考えているのです。
そんなに効果がある薬であれば、資本主義社会では、すぐに大手製薬メーカーが商品化するに決まっています。そうならないのは、「効かない(効く可能性がものすごく低い)」か「安全性に欠ける」などの欠陥があるからなのに。
僕もこの「神舟7号映像捏造疑惑」の話はネットで目にしていましたが、正直、「ああ、また中国か……」というくらいの感想しかなかったんですよね。中国非難の書き込みをすることはなかったけれども、「真相」を追求するほどの興味も誠意もありませんでした。
僕自身は、こうしてネットで「批判する」こともありますし、「批判される」こともあります。
そういう場合に、いつも、自分が「責める側」にまわったときは、「責められているとき」よりも油断してしまうものなのだな、ということを痛感します。
この「神舟7号」で「尻馬に乗って」中国批判をした人たちは(まあ、中国にはそんなふうに疑われてもしょうがない「既往」があったのも事実なんですが)、「中国には騙されないぞ!」「自分たちは『真実』を知っているんだ!」と一気呵成に声をあげました。
そして、結果的にネットという公的な場所で、「自分の無知をさらけだしてしまった」のです。
「みんながそう言っているから」という理由で、自分で検証もせずに(それこそ、ネットが使える環境にあれば、検証することはそんなに難しくないはずなのに)、あるいは、批判する対象を自分で直接見て理解しようともせずに、叩いたり、あざ笑ったりするような人が、世の中にはたくさんいます。
そういう人の多くは、「自分は『隠された真実』を知っている」と思いこんでいて、他者を「そんなことも知らないバカ」だとみなしているのです。
もし自分が騙されたら、それは「自分の怠惰」ではなくて、「タチの悪い相手のせい」。
もちろん、騙す側が悪いのですが、そういう姿勢でいるかぎり、その人は、これからも騙され続けることでしょう。だって、「自分が信じたいものしか信じない」のだから。
ネットでの検索レベルでも、関連サイトを3〜5ヶ所くらいみて回れば、たいがいの「嘘」や「思い込み」はわかるはず。
ところが、それをやっている人は、本当にごくごく少数です。
この話、僕自身にとってもすごく耳に痛かったし(僕もいままで「めんどくさいから」十分な検証もせずに批判的なことを書くことがあったので)、あらためて気をつけなければならないな、と感じています。
これは、「マナーの話」だけじゃなくて、「自分の身を守ること」にもつながってくる話なので。
人は、「わからない」から騙されることばかりではなく、「自分だけはわかっていると過信しているから」騙されることも多いのですよね。
「マスコミは信じられない!」という人が、誰が書いたのかわからないような、匿名掲示板の書き込みを「隠された真実」だと思いこむのは、ものすごく変なことです。
にもかかわらず、そんな怪しげな場所で「自分は真偽を見抜ける」という根拠のない自信を持っている人が、ものすごくたくさんいます。
それが、ネットの世界。
「事実」っていうのは、大概、面白くないか、めんどくさいか、不快なものです。正しい知識を検索することそのものも、けっして簡単ではありません。
でも、それを知ろうとしなければ、他人に都合よく利用されるだけで、前には進めないんですよね。