琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

もりだくさんすぎ ☆☆☆


もりだくさんすぎ―yoshimotobanana.com 2010 (新潮文庫)

もりだくさんすぎ―yoshimotobanana.com 2010 (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
いい仕事をしよう。大好きな人たちが幸せである姿に力をもらいながら旅をした。つらい治療にも通った。楽しいことと同じくらい、悲しい知らせも次々とどいた、もりだくさんすぎな一年。そして、みんなで準備した下北沢フリマでは、噂を聞きつけた人たちが道路を埋め始め…。読者と感動をわけあったイベントをふり返る特別エッセイも収録、感謝の気持ちが山盛りの日記+Q&A。


僕にとっての「よしもとばなな」という人は、「昔はけっこう好きだったんだけど、いつの間にか、どこか浮世離れしたところに行ってしまった」という感じでした。
僕も人並みに『キッチン』とか『TSUGUMI』は読みましたし、比較的最近の作品では『デッドエンドの思い出』なんて、大好きなんですけどね。
なんか、いつの間にあやしげなスピリチュアルにハマって、ロハスな暮らしを「アーティスティックな仲間たち」と繰り広げている「感じの悪い人」になってしまっていて……

そして、僕のなかには、以前書いた「この話」で、結果的に、よしもとさんがバッシングされてしまったという(僕側が勝手に感じている)後ろめたさ、みたいなものもあるんですよね。
あれは、「店のルール」と「サービス」のどちらを優先すべきか?というのが疑問になって書いたものだったのに、反応の多くは、「よしもとばななの態度がデカい」という類のものでした。
(いや、僕も正直、ちょっと嫌な感じもしましたし、その部分も含めて引用してしまったのが「問題」ではあったのだとは思います)


僕はけっこう「日記」を読むのが好きで、筒井康隆さんとか、大槻ケンヂさんの日記が書籍化されたものは、いまでもときどきパラパラとめくって愉しんでいます。
「どんな日常生活をおくっているか」というミーハー的な興味もありますし、「日常のなかのどういう面を、どんなふうに切り取って書いているか」というのは勉強にもなります。
よしもとさんの日記もけっこう読んでいるのですが、この『もりだくさんすぎ』は2010年の日記をまとめたものです。

僕はやっぱり、最近のよしもとさんの「スピリチュアルでロハスな生活」には馴染めないし、同じような生活をしている「友人」たちとの濃密な関係を「感じ悪い!」と思ってしまうところもあるのですが、その一方で、やっぱり、「作家・よしもとばなな」が日記にサラッと書いている言葉の「威力」に、のけぞってしまうこともあるのです。

小沢健二さんについて)

 彼がしているいろいろな活動、筋が通らないと思っている人のほとんどが「結局は名家の息子だろ」という妬みであると思う。しかし名家の息子は趣味で音楽をやっているわけではなく、彼の見たもの、行った場所、思ったこと、友達から聞いたこと、している活動、全てが時間をかけて音楽に還元されている、そこがいちばん大事なところだ。音楽がだめにならなければ、どんなことをしていこうと大人だから自由なのだ。ぶれずにそのことを見ていきたいとあらためて思った。

こういうのは、「吉本隆明の娘」にしか、書けないような気がします。

あるいは、

 ある意味「己はこうだ」と決めることこそがプロへの道かもしれん。

 りさっぴも言っていたが、客商売とは全て、どこにターゲットをしぼるかで決まってくる。来ないでほしい層を思いきって切り捨てる勇気も必要。はじめは来てほしい層だけに手厚くしぼって、そこからじょじょにお客さんのほうが変わっていく道筋がいちばんいい。それがない宿は、のっぺらぼうになるか、おかみさん一家に似た層が来るだけになる。

こういう、短いけど本質的な言葉が、この日記のなかにはたくさん出てくるのです。
今回読んでみて、「食わず嫌い」は良くないなあ、とちょっと反省。
僕とよしもとばななさんの人生観は全く違うけれど、だからこそ、「活かせることば」は少なくないのかな、と思います。
しょっちゅう海外に行ったり、おいしいものばっかり食べやがって!と不快になるところがあるのも含めて、けっこう面白い日記でした。

 枝ごと落ちてくるようなすごい分量の枯れ葉を熊手でそうじしているおしゃれな人を見て、森先生が、
「あの落ち葉の量に熊手っていうのは、効率的にありえないと思うんだけれど、きっとそういうライフスタイルなんだろうなと思って、言わないようにしてる」と言っていたのが、最高にツボで、夜寝るときまで思い出して笑った。

スピリチュアルな言動が最近は目立つよしもとさんにもかかわらず、あの「論理的思考が人間のかたちをしているような」森博嗣先生と交流があるというのは、僕にはかなり意外でした。
でも、「論理的な科学」「非論理的なスピリチュアル」なんて分類するのは僕のような外野の偏見であって、「すごい人」どうしでは、そんなレッテルはどうでもいい、「相互理解」みたいなものがあるのかもしれませんね。
あるいは、お互いの「違い」を愉しめる余裕、というか。


デッドエンドの思い出 (文春文庫)

デッドエンドの思い出 (文春文庫)

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