琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

ネットと読書の共通点と相違点(2)〜「情報」について

まずはこちらを読んでいただくと、話がわかりやすいと思います。
参考リンク(1):ネットと読書の共通点と相違点(1)〜「共感」について


「ネットと読書」についてのあれこれ2回目。
両者には、2つの「共通して得られるもの」があるようです。
そのひとつめは、「共感」で、ふたつめは「情報」なのですが、前回の「共感」に続いて、今回は「情報」の話。


このエントリは長くなりそうなので、最初に「結論」を書いてしまいますね。


「問題なのは、ネットじゃない。それを使う人たちだ」


それでは、話をはじめていきましょうか。


僕はずっと、ネットについて、「情報を得るためのツールとしては便利だけれど、ここで本当に大事なものを得るのは難しい」と考えていました。
「誰がお金になる知識を、わざわざネットにタダで公開するものか」と。


その一方で、「ネットで新しい知識の『見出し』を手に入れる」というのは、やっぱり「便利」なんですよ。
たまに新聞を読んでみると、そこに載っている分析の細やかさに「やっぱりちゃんと新聞読まないとダメだな」と思うこともあるのだけれど、社会生活上は、ネットの見出しレベルの知識で事足りる場合がほとんどですしね。
学術論文を書くような場合には「成書」や「専門的な他の論文」を読む必要があるとしても。


ほとんどの知識をネットから得ている人と会話をしていると、その「見出しの羅列のような会話」に辟易することもあるのです。
こんなことがあった、あんなことがあった、と知ってはいるけれど、それは、いったい何を意味しているのか? そもそも、「あなたにとって」どういう関わりがあるのか?


僕もネットのおかげで新聞を読まなくなった人間のひとりなので、偉そうなことは言えませんが、少なくとも「週刊誌レベルの情報」は、ネットで十分に代用できると思います。
実際、ネットの普及とともにいちばん売れなくなっている雑誌も、『週刊○○』のような「ゴシップ記事が売りの週刊誌」のようですし。


僕がネットで書いていて驚かされるのは、ネットでエントリを書くと、すぐに「長い」と言われてしまうことです。
ネットで情報を得ようとする人たちの多くは、「情報の速報性とわかりやすさと短さ」を重視しています。
そういうものを読むのが「効率的」だと信じているのです。
で、小飼弾さんなどは、本を読むのにも「まずは新書を300冊」と仰っているわけです。
出典はこちらの『新書がベスト』という新書


なんというか、それって、「ネット博識」の拡大版でしかないのでは……
頭の中には「見出し」だけが延々と並んでいる状態。


いやほんと、インターネットは、本をダメにしたんじゃないか、と僕は思うんですよ。
とくに新書の平均的なレベルは、すごく下がっていると思う。
著者が有名人というだけで、対談形式の雑談を書籍化したもの、「人気ブログの作者」が偏った自己主張を繰り広げているもの、噂話レベルの企業の内幕話。有名人の自慢……
「新書」って、そんなもんだと言われればそんなものなのでしょうが、それにしても……と言いたくなるようなものが多すぎます。

新書を300冊読んだとしても、「いろんなことをちょっとずつ読みかじった人」にしかなれません。
新書は何冊読んでも、知識が「広く」なるだけで、「深く」はならないのです。
「知的な娯楽として」ならば十分だと思うけど、どんなに新書をたくさん読んでも「読書ブロガー」になるのが関の山。


堀江元社長は「ハードカバーなんて読む必要ない。読むなら文庫で十分」(と言いながら、堀江さん自身もハードカバーをけっこうたくさん書かれているわけですが)と仰っておられて、「コストパフォーマンス」で考えるのならば、それもまた一理あります。
だってさ、『もしドラ』をハードカバーで読む必要なんてないよね。
それに、「文庫になる本は、多少は『淘汰』されている」のも事実。


僕は本の感想を書いているのですが、正直、「感想を書きやすい本」とか「紹介すれば、たくさんブックマークされそうな本」というのはありますし、それは「ひとつのテーマについて書かれた新書」の場合が多いです。
逆に「すごい(フィクションの)小説」に対しては、「これ面白い!」「すごい!」「ぜひ読んで!」としか書けないんですよ。それは僕の力が足りないから、でもあるのだけれども。
本当にすごい本、読む価値のある本っていうのは、そういう「うまく言葉にできないような感動を与えてくれる本」のはずなのに。


僕は「読書派」なので、ずっと「ネットで得られる知識」と「ネットでの情報にばかり頼る人」を内心バカにしていました。
「ネットでは、本当に大切なものは、手に入らないよ」って。

でもね、これらのエントリを読んでみてください。


参考リンク(2):「ヤフーニュースでは、コソボは独立しなかった」(活字中毒R。)

参考リンク(3):ウェブで学ぶ ――オープンエデュケーションと知の革命(琥珀色の戯言)


実は、ネットで得られる知識というのは、ものすごく幅が広いし、奥も深い。
それを得るためのコストを考えると、これほど多くの人にとって平等かつ効率的なツールは、人間の歴史にはありませんでした。
そして、ネットによる「情報のフラット化」は、いま、この瞬間も急速に進行しているのです。
僕たちの知らない、あるいは、知ろうとしていないところで。


僕は「タダでカネになる情報を公開する人」なんて、いないと思っていました。
ところが、この世界には、「タダでいいから、人類をもっと賢くしたい!」と考えている善意の人が、少なからずいたのです。
日本では『ネットはバカと暇人のもの』になってしまいがちだけれども。


僕がネットをはじめたときのイメージは、「ネットは共感のためのツールとしては優れている。でも、本当におカネになる情報は稀有」でした。
それはたぶん、当たらずとも遠からず、だったと思います。
しかしながら、現在は、「共感のためのツール」としての役割は退化している一方で、情報を得るためのツールとしては、格段に進化しているのです。
そして、「すべての人がアクセスできる」はずのネットで、「本当に役立つものを低コストで得ている人」と「暇つぶしにしか使っていない人」(それは必ずしも悪いことではないのだけれど)の「情報格差」は開いていく一方です。


コンピューターやインターネットの進化というのは、研究者たちにとっては、「手間が省ける」ようになった一方で、「手間をかけただけで評価されていた仕事が、評価されなくなる」という一面もあります。
これまでは、とりあえず例数を集めたり、面倒な統計的な解析をしただけで「仕事」になっていたものが、評価されなくなってきました。
「そんなのは、コンピューターを使えば、すぐにできる」から。


「読書」と「ネット」は、必ずしも対立する存在ではありません。
「どちらに時間を使うか?」というのは、常に悩みの種になりうるとしても。
村上龍さんのように、「ネットと小説、それぞれの表現のハイブリッド」を目指している人もいますし、たぶん、「情報を得るためのツール」としてのネットは、さらに進化していくはずです。
そしてまた、PS3の『デモンズソウル』というゲームで行われていたような、「それぞれの読者が、ひとつの本のなかに書きこんでいったコメントや落書きを共有するような読書形態」もみられるようになりそうです。
それが、読書とネット、それぞれにとって、「幸福」な結果となるかどうかはさておき。


本当に「ネットはすごい」のです。
でも、「ネットはすごい」と言っている人の大多数は、「ネットの本当のすごさ」を知らない。
そして、「本なんて読まなくていい」という人が増えれば増えるほど、「本を読むことによって、周囲と差別化できる」のもまた事実。


手塚治虫先生が、マンガ家志望者に「マンガを読んで、マンガを書くな」とアドバイスしていたそうです。
ネットでの情報収集が主流になればなるほど、「読書、とくに古典を読むこと」は、大きなアドバンテージを生み出すはず。

最後に、こんな話を。
糸井重里著『はたらきたい。』で紹介されていた言葉です。

 以前、ある雑誌で、社長さんや、それなりの肩書きのある人に百冊の本を挙げてもらう、というインタビューをやったんです。そこでいちばん多く挙がったのが「デカルト」でした。なかでも『方法序説』。原理的なものや、普遍的なものって、古ければ古いほど「使える」んですよ。      永江朗(書評家)

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