昨夜、飲み会帰りの24時、雨のなか、コンビニに寄った。
持っていた傘は、誰も使っていない傘立てに置いて。
コンビニで買い物をして、「ああ、危うく傘を忘れるところだった」と傘立てを見たとき、目を疑った。
傘が、ない。
コンビニの中にいたのは、5分間くらいだったのに。
いや、これは何かの間違いじゃないか、と、もう一度見直してみても、やっぱり、ない。
雨が、また強くなってきた。
たかが、1本の傘だ。
さっきまでの飲み会で、勢いで生ビールをもう一杯注文するのと同じくらいの値段の傘。
とくべつに、思い入れがある傘じゃない。
でも、あの空っぽの傘立てを見たとき、なんだか、とても悲しかった。
傘がなくなってしまったことよりも、この雨のなか、平然と他人の傘を黙って持ち去っていくことができる人間が、いま、自分のすぐそばにいたことに。
自分が傘を持っていってしまったために、ずぶぬれになって帰らなくてはならない人のことを想像できない人間が、この世界にいることに。
コンビニの傘立てなんか、信用するほうがおかしいと、言う人もいるだろう。
それは、そうなのかもしれないけれど。
2か月前、日本は変わった。
……はずだった。
テレビの画面の向こうの、面識のない「被災者」たちに、多くの人が、見返りを求めず、義捐金を差し出し、励ましの言葉をかけた。
でも、その一方で、いま、すぐそばにいるはずの他人のことを想像できない人もいるのだ。
そして、前者と後者は、必ずしも「相容れない他人」ではない。
「画面の向こうの被災者を思って、涙を流す人」が、あるときには、土砂降りの雨のなか、コンビニで他人の傘を盗んで帰っていく。
「こんなところに置いておくのが悪いんだ」と。
ずぶ濡れになって帰りながら、考えた。
「いま、僕の目の前に、『誰のものだかわからない傘』が放置されていたら、それを盗らずにいられるだろうか?」