琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

ニッポンの書評 ☆☆☆☆


ニッポンの書評 (光文社新書)

ニッポンの書評 (光文社新書)

内容(「BOOK」データベースより)
いい書評とダメな書評の違いは?書評の役割、成り立ちとは?一億総書評家時代の必読書。

【目次】
第1講 大八車(小説)を押すことが書評家の役目

第2講 粗筋紹介も立派な書評

第3講 書評の「読み物」としての面白さ

第4講 書評の文字数

第5講 日本と海外、書評の違い

第6講 「ネタばらし」はどこまで許されるのか

第7講 「ネタばらし」問題日本篇

第8講 書評の読み比べ―その人にしか書けない書評とは

第9講 「援用」は両刃の剣―『聖家族』評読み比べ

第10講 プロの書評と感想文の違い

第11講 Amazonのカスタマーレビュー

第12講 新聞書評を採点してみる

第13講 『IQ84』一・二巻の書評読み比べ

第14講 引き続き、『IQ84』の書評をめぐって

第15講 トヨザキ流書評の書き方

対談 ガラパゴス的ニッポンの書評―その来歴と行方

『メッタ斬り!』シリーズでも知られる書評家・豊崎由美さんが「書評」について書かれた新書。
この新書を書店で見かけたときには「アマチュア(つまり、僕みたいに本の感想を書きたいブロガーなど)向けの『上手に書くための入門書』」だと思ったのです。
中身を読んでみると、「カッコいい書評で、アルファブロガーに!」なんていう僕のあさましい考えをあざ笑うかのように「書評とは何か?」「書評と批評の違いとは?」「よい書評の条件とは?」というような「あまりに広くなりすぎてしまっている、『書評』という言葉への(豊崎さんなりの)再定義」が試みられています。
けっして「難しい内容」ではありませんが、「ブログに気軽に読んだ本の好き嫌いを書きたい!」という人にとっては、おそらく、何の役にも立たないし、ちょっとイライラさせられるだけなのではないかと。
僕は、「ああ、いままで自分が書いてきたような『書評』(僕は『感想』だと思っていますが)は、豊崎さんは嫌いだろうなあ」なんて考えながらも、けっこう楽しく読むことができました。


この本の前半部では「書評」に対する、豊崎さんの定義が述べられています。

 批評は対象作品を読んだ後に読むもので、書評は読む前に読むものだということです。というのも、批評は小説の構造を精査するにあたって、どうしてもその作品の肝にあたる部分にも触れざるをえないのですが、そこは読者にとっては驚きや感動が得られる、つまり事前に知りたくない箇所であったりすることがしばしば。かたや書評は、読者の初読の興をなるべくそがないよう細心の注意を払って書かれるべきものと考えられています。いくら自分の”読み”の深さを誇示したくても、それが作品のネタばらしにあたる箇所と関係があるなら、断念せざるをえない。書評にとってまず優先されるべきは読者にとっての読書の快楽であり、その効果を狙って書いたであろう作者の意図なのです。

 たとえば書評術を説く本には、「粗筋は丁寧に、しかし、簡潔に。たとえば1600字の書評を請け負ったら、ストーリー紹介は600字程度にとどめるのがよい」といった常識が説かれていますし、かつてのわたしもそう考えていました。でも、今は少し違った考えを持っています。粗筋紹介も”評”のうちだと思うようになったのです。
 というのも、本の内容を正確に深く理解している書き手による粗筋紹介と、トンチンカンな解釈しかできていない書き手の粗筋紹介は「これが同じ本について書いたものなのか」というほど違うからです。書評講座で毎月、同一書籍に関する30本近い原稿を読んでいるわたしが言うのだから間違いありません。つまり極端な話、粗筋と引用だけで成立していて、自分の読解をまったく書かない原稿があったとしても、その内容と方法と文章が見事でありさえすれば立派な書評だと今のわたしは考えているのです。

僕はこれまで、「書評」と「批評」の違いなんて、ほとんど考えたことがありませんでした。
しいていえば、「書評」は好意的な紹介が中心、「批評」は出来不出来の評価が中心、というイメージです。
この豊崎さんの定義でいけば、僕が知るかぎり、日本の小説で「批評」が行われているのは文学好きだけが読む「文芸誌」や一部のマニアックなブログだけで、ほとんどは「書評」であるということになります。
そもそも、これまでのメディアでの「本の紹介」というのは、褒めるか、ベストセラー、あるいは有害図書として話題にされることばかりで、「素人」が多くの人の前で堂々と「悪口」を書けるようになったのは、「インターネットのおかげ」なんですよね。
実際は「つまらない作品を採り上げる」というのは、書く側にとっても苦痛なのです。「つまらない」以外に書くこともないし。
「こんなのは読んでもムダ!」と、愛情を持てない対象を罵倒してみたところで、「おかげで地雷を踏まないですみました!」なんて喜んでくれる人はほとんどいません。
その一方で、『KAGEROU』騒動のように「みんなと一緒に罵倒するための読書」みたいなのが成立してしまうのも、この「ネット書評の世界」ではあるんですよね。
でもまあ、基本的には「つまらない本を罵倒するだけのブログの大部分は、自然に淘汰される」ことになるでしょう(というかすでに、そうなっています)。


豊崎さんは、

 批判は返り血を浴びる覚悟があって初めて成立するんです。的外れなけなし書評を書けば、プロなら「読めないヤツ」という致命的な大恥をかきます。でも、匿名のブロガーは? 言っておきますが、作家はそんな卑怯な”感想文”を今後の執筆活動や姿勢の参考になんて絶対にしませんよ。そういう人がやっていることは、だから単なる営業妨害です。

と仰っておられます。
いやまあ確かに「まともなリテラシーを備えないブログ読者も多々存在する」のは事実でしょう。
でも、僕は思うのです。
「そんな連中は、どうせベストセラーを斜め読みするか、人気作家にケチをつけるだけなんだから、『書評』なんて読まない」のではないか?
むしろ、「作者が直接そういう卑怯な”感想文”を読んでしまい、気が滅入ってしまう」という被害のほうが大きいのではないか?


もちろん僕だって、あのAmazonの『KAGEROU』祭りが正義だなんて思いません。
ネット上の悪口って、「便所の落書き」なんて言われますけど、そこに自分のことが書いてあったら、けっこう精神的につらいんじゃないかなあ。
学生時代、学校の便所に、自分の悪口が書かれてたら、それが他愛のない噂話でも、ものすごく嫌だったから。
でもまあ、「商売」という面では、「無視される」よりも「悪口がズラッと並ぶ」ほうが、はるかにマシなのかもしれませんよね。
KAGEROU』よりも魅力的な小説はたくさんあるけど、誰も読んでくれなければ、それはやはり「存在しない」のと同じだから。


あと、「粗筋」「引用」も、「書評」の一部と考えている、という文章を読んで、そうか、うちも「書評ブログ」を名乗っていいのか!と、ちょっと嬉しくなってしまいました。
「粗筋をまとめる」とか「どこを引用するか決める」って、そんなに簡単じゃないんですよ。
ある意味、「自分はどう思ったのか?」を書き続けるよりも、「書評」としては役に立つ場合も多いはずです。

参考リンク:「それであなたは何と思ったのかな?」という「文学的指導」の嘘(活字中毒R。)
「書評」の話ではないのですが、僕は、清水義範さんのこのエピソードを思い出してしまいました。


「ネタばれ」についての悩ましさとかは「ああ、こういうのはあるなあ」と考えずにはいられませんでした。
 スマイリーキクチさんの本(『突然、僕は殺人者にされた』)の感想に関して、何人かの方が指摘してくださったように「あの感想を読んだだけで、もう紹介されている本は読まなくて良いような気分になってしまう内容」だったのではないかと後悔しているのです。実際はあの本の魅力の100分の1も伝えきれていないのだけれど。
 豊崎さんが書かれているように「ネタばれ」というのは、すごく難しいところがあるんですよね。
シックス・センス』という映画があります。
あの映画の「どんでん返し」が最も効果的な観客は、「何の予備知識もない人」です。
ところが、「宣伝」「集客」として考えると、やっぱり、「すごいどんでん返しがある映画なんです。最後に裏切られますよ!」ってアピールせざるをえない。
そういう先入観を持って用心深く接すると、大概の「どんでん返し」は、「想定内」になってしまうし、「驚く」よりも「巧さに感心する」だけです。


 僕は、とくに☆を4個、5個つけて、長々と感想を書いているような作品は、みんなにぜひ見てもらいたいし、それを書いたりつくったりした人たちが報われてほしいと願っています。
 僕がただ「面白いですよこれ! さあ、書店に走れ!」とか書いても、全然効果がないことは自明の理なので、ある程度「具体的に」紹介したくなるのです。
 それが結果的に「ネタばれ」としてマイナスになる場合も多々あるでしょうし、本当に「適切なライン」というのは難しい。
 僕が小泉今日子柴咲コウだったら、「泣きながら一気に読みました――」だけで済むのかもしれませんが。


 ほんとうは、村上春樹さんの『1Q84』の書評の話とか、もっと書きたいことはたくさんあるのですが、すでに「長くて自分語りばかり」という「ダメ書評大連鎖」になっているので、このくらいにしておきます。
 
 最後にひとつ。
 豊崎さんが728字で書かれた『1Q84』の書評が、この新書には掲載されているのですが、なんというか、この書評は豊崎さんの書評としてはものすごく出来が悪いと感じました。
 字数が短いこともあるのでしょうが、「型通りで、引っかかるところがない」。
 酷いネタばれ書評を批判した直後なので、まさに「教科書的な書評」を意識して書いているのかな、とは思うのですが、僕はある意味、書評の面白さって、「本を主役にして語ろうとしているにもかかわらず、ついつい出てしまう、書き手のイビツな好みや自己顕示欲」だという気がするのです。
 もちろん、それが「万人にとっての正解」だというつもりはないけれども。

 
 この新書を読みながら、ずっと考えていたのです。
「どういう人が、これを買って読むのだろう?」って。
 こういう「書評についての新書」の読者って、間違いなく、インターネットを通じて、「書評」を発信している、あるいはしたいと思っている人たちが多いはず。
 こんな新書が出るくらい「書評の裾野」が広がっていることは、すごいことなんですよね。


最後に、豊崎さんのこんな言葉を紹介して終わりにします。

 書評というものは、まずはなによりも取り上げた本の魅力を伝える文章であってほしい。読者が「この本を読んでみたい」という気持ちにさせられる内容であってほしい。自分の考えを他者に伝えるための容れ物として対象書籍を利用してはならない。書評は作家の機嫌をとるために書かれてはならない。自分自身への戒めとして記しておきます。

 これが「唯一の正解」じゃないと思います。
 でも、ネットで「書評」を書いている人たちは、長い間「書評」を受け継ぎ、護ってきた「紙の時代の書評家」たちに敬意を表しても、バチは当たらないんじゃないかな。

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