琥珀色の戯言

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検証 東日本大震災の流言・デマ ☆☆☆☆


検証 東日本大震災の流言・デマ (光文社新書)

検証 東日本大震災の流言・デマ (光文社新書)

出版社からのコメント
◎チェンメ、リツイート(RT)......災害流言という人災!
◎流言やデマはどのように生まれ、どのように広がるのか?
真偽を確認するにはどうすればいいのか?
そのメカニズムを解説し、ダマされない・広めない基礎知識を伝授。


◎有害物質の雨が降る?
◎被災地で外国人犯罪が増えている?
◎あの政治家がこんな失言をした?
関西電力の節電呼びかけチェーンメール
放射性物質にヒマワリが効く?
◎トルコが日本に一〇〇億円の援助?
ヨウ素入りのうがい薬は放射性物質に効く?
天皇陛下が京都に逃げた?
◎日本では物資の空中投下が認められていない?
◎避難した被災地の子どもには教科書が配布されない?

・なぜデマが広まるのか? デマはなぜダメなのか? デマを防ぐには?


東日本大震災という未曾有の大災害では、情報の洪水にどう対応していくべきか?ということについて、あらためて考えさせられました。
関東大震災のとき、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマが広まり、それを信じた人たちによるリンチが行われたという歴史の汚点があります。
僕は小学校の頃にこの話を聞いたとき、「昔の日本人は愚かだったのだなあ」と思ったのですが、今の世の中でも、「同じこと」が起こる可能性はありそうです。


ネットは、さまざまなデマを、すごいスピードで「拡散」していきます。
ただ、その一方で、この本の著者のように「デマを打ち消そうとする人たち」もいて、さまざまなデマを収束させる力が高まってきていることも感じます。


今回の東日本大震災では、twitterが「情報を得るためのツール」としての力を発揮していて、僕は毎日かなり長い時間、twitterに張り付いていました。
でも、どんどん更新されているタイムラインを眺めているうちに、「結局、人より5分速く情報を得たところで、僕の人生に大きな影響はなさそうだな」とか「右に左にと振り回されるばかりで、結局、進んだ道は『まっすぐ』だったな」とか、そんな気分になってきたんですよね。
そもそも、世の中の大部分の人は、twitterを情報収集ツールとして利用しているわけではありませんし。


この新書を読んでいると、デマが生まれ、広がっていくのは、「悪意」によるものばかりではない、ということがよくわかります。
あの大震災のとき、僕は「自分が何もできないこと」に落胆し、ネットで正しい情報、あるいは、読んだ人を元気づけられるような話を書くことに、高揚感を抱いていました。
「結果的にデマだった情報」をリツイートした人たちの大部分は、「なんとかしてあげたい」という善意からだったのだと思います。
「デマかもしれない」という理性は、「人助け」の高揚感に、押しつぶされてしまうのです。
「もし事実だったら、どうするんだ!」
実際は、僕やあなたがリツイートしたからといって、状況が変わる可能性はほとんどゼロでしょう。むしろ、限られた情報伝達のためのルートを占拠してしまうデメリットのほうが大きいはず。
でも、「いいこと」をしようと思うと、「常識的な判断」ってできなくなりがちなんですよね。

震災直後、ウェブ上にて波紋を呼んだ一つの事件が起こりました。有名動画共有サイトの社員である一人の男性が、15時9分から15時20分にかけて、会社のサーバーラックに潰されてしまったとツイッターに書き込み、多くの人が「誰か近くにいる人、助けに行ってあげて!」と反応しました。ですが、しばらくして、その書き込み自体がそもそもウソだったことがわかりました。

 地震が起きた時、社内サーバールームにいたのだが、ラックが倒壊した。腹部を潰され、血が流れている。痛い、誰か助けてくれ。ドアが変形し、安定した情報が流されるまでは誰も動いてはならない旨が館内放送では流れている。それでは遅すぎる。腕しか動かない。呼吸ができない。助けを呼ぶことができない。

(中略)

 しかしこの男性は30分後、別のアカウントで「だから RT 嫌いなんだよ。お前等どんだけ連鎖させてんの。馬鹿だなー」「あーまた会社で怒られんのかなー」とつぶやき、「釣り」(ネット上における、レスポンス狙いの煽り行為のこと)であったことを明らかにしました。これは当然のことですが、多くの非難が寄せられました。そうした書き込みに対し、同僚の男性などが「責められるべきは災害時に真偽を確認せずに情報を流布している方」といった発言をしたことも、非難の声を増幅させる結果になりました。

「真偽を確認してから」では間に合わないような「釣り」だったから、みんな反射的にRTしてしまったのでしょうけど……
これ、ちょっと考えてみれば、「ツイッターが使える環境なら、消防署か知り合いに直接連絡すれば良いのでは……」という話ですよね。
ところが、「自分が助けてあげられるかもしれない!」と思うと、そういう判断ができなくなってしまう場合もあるのです。


あるいは、その話に出てくるものへの、自分が以前から持っている感情が反映される場合もあります。

 政府の対応の遅れやまずさを批判する流言が続く中、「日本では物資の空中投下が認められていない」という流言も広がりました。確かに、航空法89条には、「航空機から物件を投下してはならない」と書かれています。しかしその後には、「但し、地上又は水上の人又は物件に危害を与え、又は損傷を及ぼす恐れの無い場合であって国土交通大臣に届け出たときは、この限りでない」とあります。
 また、自衛隊法の第107条には、「航空法中(略)第89条(略)の規定は、自衛隊の使用する航空機及びその航空機に乗り組んで運航に従事する者並びに自衛隊が設置する飛行場及び航空保安施設については、適用しない」とあり、「日本では物資の空中投下が認められていない」というのは誤りです。
 実際、投下は既に行われているというニュースソースはいくつかありました。

(中略)

 この件についての問い合わせを受けてか、自民党河野太郎議員が、ブログに次のような文章を掲載していました。

 自民党の対策本部によく来る問い合わせの一つが「日本には空中から物を投下してはいけないという法律があるので、自衛隊のヘリから物資の投下ができない。なんとかしてくれ」というもの。対策本部にいたヒゲの隊長こと佐藤正久参議院議員(元一等陸佐)に、なんとかなりませんかと尋ねると、隊長、首をひねる。
「河野さん、なんで自衛隊のヘリから物を落とすの。ヘリが降りればいいじゃない。」
「でもよくニュースなんかで、ヘリから物を落としているシーンありますよね。」「それは固定翼、飛行機からでしょ。ミサイルで狙われるようなところは飛行機で行って上空からパラシュートで投下するけど、今回は違うでしょ。」

こうして専門家の話を聞いてみると、「そりゃそうだな」としか言いようがありません。
わざわざ投下しなくても、ヘリが着陸して、物資を搬出すればいい。
そのほうが物資の損傷も少ないでしょうし。

僕もこの「日本では空中投下できない」という話を信じていて、「こんな非常事態に、なんてバカなんだ日本政府は!」と憤ってしまったのですが……

確かに、戦場でもないのに、わざわざ「空中投下」をやる必要なんて無いですよね。
ちょっと考えてみれば、「一般常識の範囲内で」理解できることのはずなのに。
「日本政府はだらしない!」という先入観があると、けっこうアッサリと引っかかってしまうものだな、と反省せざるをえません。
人は、自分が信じたいものに、騙されやすい。


東電の「検針ができないので、料金は前月と同額で」という話もネット上では非難の嵐でしたが、これも「とりあえず今月は同額徴収し、来月分でまとめて調整します」ということだったそうです。
状況を考ると、これならば「いたしかたない処置」の範疇でしょう。
東電はろくでもないことばかりやっている」という先入観とニュースの見出しだけで反応してしまうと、反応した側もされた側も、不要なはずの労力を費やすことになってしまいます。


「絶対にデマに引っかからない方法」というのは、存在しないのではないかと思いますが、この新書のなかで、著者は、「デマを広げてしまわないための注意点」を挙げています。

 情報を取得する際には、いくつかのNGワードを頭に設定するのがよいでしょう。たとえば「拡散依頼」「みんなに教えて」といった具合に、無理やりその情報を広めようとしている人がいるケースや、多くの人が信じて行動を促しているにもかかわらず、誰もその内容を検証していないケースなどは、ひとまず流言の可能性を思い浮かべて「保留」にし、内在的チェックを働かせることを勧めます。
 というのも、これまでにも「友達にも知らせて!」と要求する数多くのチェーンメールが出回りましたし、ツイッターなどでも、「拡散希望」と付けられた情報がデタラメだった、ということはよくあるからです。特に震災直後は、「拡散希望」とつけられたツイートが、平時の数倍にも激増し、その後も多くつぶやかれていました。当然ながらその中には、数々の流言やデマも混じっていました。
「日本のメディアは報じていない」「マスゴミが報じていない」といった情報もまた、バイアスが大きく掛かっている可能性が高いので注意が必要です。
「マスコミ」といっても、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などさまざまにあるため、一つに括って議論できるケースというのは、実は思ったよりも多くはありません。単にその人がメディアで見なかっただけのケースや、メディアが取り上げないニセ情報である場合がしばしばあり、中には「メディアで取り上げてません、と叫べる自分は“目覚めた側”である」といった自己アピールも混じっていたりします。ですから、ひとまず「保留」したうえで検証するのがよいでしょう。
 どこどこで見た、というような、「再確認が困難な情報」についても、その独り歩きには注意が必要です。世の中には記憶違いということもありますし、びっくりするくらい平気でウソをつく人もいます。裁判において、誰か一人だけの発言を元に判決を下すことの恐ろしさを想像していただければ、目撃証言の一つだけを鵜呑みにする危険さはおわかりになると思います。

原発のしくみ」を正確に理解できているのは、ごく一部の専門家だけですし、その専門家のなかでも、意見が分かれている状態なのに、「どれが正しいのか?」を素人が判断できるわけがない。
佐々木俊尚さんが、『キュレーションの時代』で、こんなことを書いておられます。

そもそも私たちは、情報のノイズの海に真っ向から向き合うことはできません。

 1995年にインターネットが社会に普及しはじめたころ、「これからは情報の真贋をみきわめるのが、重要なメディアリテラシーになる」といったことがさかんに言われました。マスメディアが情報を絞っていた時代にくらべれば、情報の量は数百倍か数千倍、ひょっとしたらもっと多くなっているかもしれません。その膨大な情報のノイズの海の中には、正しい情報も間違った情報も混在している。これまでは新聞やテレビが「これが正しい情報ですよ」とある程度はフィルタリングしていたので、まあそれをおおむね信じていれば良かった。もちろん中には誤報とか捏造とかもあるわけですが、しかし情報の正確さの確率からいえば、「正確率99パーセント」ぐらいの世界であって、間違っている情報はほとんどないと信じても大丈夫だったわけです。

 ところがネットにはそういうフィルタリングシステムがないので、自分で情報の真贋をみきわめなければならなくなった。だから「ネット時代には情報の真贋を自分でチェックできるリテラシーを」と言われるようになったわけです。

 正直に告白すれば私も過去にそういうことを雑誌の原稿や書籍などで書いたこともありました。しかしネットの普及から15年が経ってふと気づいてみると、とうていそんな「真贋をみきわめる」能力なんて身についていない。 

 それどころか逆に、そもそもそんなことは不可能だ、ということに気づいたというのが現状です。

 考えてもみてください。

 すでにある一次情報をもとにして何かの論考をしているブログだったら、「その論理展開は変だ」「ロジックが間違っている」という指摘はできます。たとえば「日本で自殺者が増えているのは、大企業が社員を使い捨てしているからだ」とかいうエントリーがあれば、自殺増加の原因についていろんな議論ができるでしょう。でもそういう議論をするためには、書かれている一次情報が事実だという共通の認識が前提として必要になってくる。つまり「自殺者が増えている」という所与の事実を前提としてみんな議論をしているわけです。

 逆に、だれにも検証できないような一次情報が書かれている場合、それってどう判断すればよいのか。たとえば、小沢一郎を起訴に持ち込むために検察のトップと民主党の某幹部が密談していた」とか書かれていた場合、それを検証することなど普通の人間にとってはほぼ100パーセント不可能です。新聞社の敏腕記者だってウラ取りするのはかなり容易ではない。

 だから「真贋をみきわめる」という能力は、そもそもだれにも育まれようがないというのがごくあたりまえの結論だったわけです。

 でも一方で、もしその「検察トップと民主党の某幹部の密談」というのが政治ジャーナリストとして著名な上杉隆さんや田原総一朗さんの署名記事に書かれていたらどうでしょう。「これは本当かもしれない」と多くの人は信頼に足る記事だ、と捉えるのではないでしょうか。

 なぜかといえば簡単なことで、過去に上杉さんや田原さんが書いてきた記事が信頼に足ることが多かったからです。

 つまり「事実の真贋をみきわめること」は難しいけれども、それにくらべれば「人の信頼をみきわめること」の方ははるかに容易であるということなのです。

ネット上でのさまざまな情報の取捨に熟練している人でも(あるいは、熟練しているからこそ)、「わからないものはわからない」。

僕は、今回の大震災で、「ネットの力」を再認識しましたし、「デマを拡散してしまう一方で、それを消火する力もついてきている」と思っています。


特別なことが書いてある本ではありません。
だからこそ、ここで触れられているさまざまな「デマ」を再確認しながら、読んでみていただきたいのです。
自分は、どんなデマを信じやすい人間なのか?
それは、有事だけではなく、平時にも存在している「心の隙間」を見つけるきっかけにもなるはず。
「自分は特別な人間じゃない」ことを認めることが、「ネットリテラシー」を高める最初の一歩なのだと、僕は考えているのです。


キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)

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