- 作者: 吉村昭
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2004/03/12
- メディア: 文庫
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内容(「BOOK」データベースより)
明治29年、昭和8年、そして昭和35年。青森・岩手・宮城の三県にわたる三陸沿岸は三たび大津波に襲われ、人々に悲劇をもたらした。大津波はどのようにやってきたか、生死を分けたのは何だったのか―前兆、被害、救援の様子を体験者の貴重な証言をもとに再現した震撼の書。
この本、吉村昭さんによって1970年に書かれたものですから、もちろん、2011年3月11日の津波のことについては、全く書かれていません。
しかしながら、まだ生々しい記憶である「あの震災」について書かれていないことで、さまざまなことを考えてしまう面もあるのです。
僕は今回の大震災まで、東北・三陸地方が、こんなに何度も津波に襲われているということを知りませんでした。
日本では、ことに三陸沿岸に津波の来襲回数が多い。それは、海岸特有の地形によるものである。
北は青森県の八戸市東方の鮫岬から南は宮城県緒が牡鹿半島にわたる三陸沿岸は、リアス式海岸として、日本でも最も複雑な切りこみのおびただしい海岸線として知られている。(中略)
三陸海岸を襲う津波は、例外なく地震と密接な関係をもつ。沖合は世界有数の海底地震多発地帯で、しかも深海であるため、地震によって発生したエネルギーは衰えずそのまま海水に伝達する。そして、大陸棚の上をなんの抵抗もなく伝って海岸線へとむかう。
三陸海岸の鋸の歯状に入りこんだ湾は、V字型をなして太平洋にむいている。このような湾の常として、海底は湾口から奥に入るにしたがって急に浅くなっている。
巨大なエネルギーを秘めた海水が、湾口から入りこむと、奥に進むにつれて急速に海水はふくれ上がり、すさまじい大津波となる。つまり三陸海岸は、津波におそわれる条件が地形的に十分そなわっているのだ。
著者の吉村さんは、三陸海岸を襲った津波が、西暦869年から、この本が書かれた1970年までに「記録に残った、主だったもの」だけでも20回以上あったと書かれています。
それも、最初の記録が869年で、2つめは1585年ですから、おそらく、この間にも「記録には残っていない津波」が何度かはあったはずです。
ある程度記録がきちんと残るようになった1585年以降で考えると、この地方は、20年に1回くらい、津波の被害を受けていることになります。
この本を読んでいて、僕が最初に感じたのは、不躾ながら、「なんでこんな津波の多い地方に、人が住んでいるのだろう?」ということでした。
なにも、こんなに危険な場所に、あえて住むことはないはずだ、と。
もちろん、「日本人」が自由に国内を自由に引っ越しできるようになったのは、1585年からの500年あまりの年月のうちの、100年足らずくらいなのだとしても。
吉村さんは、三陸海岸の海がすごく好きだったそうなのですが、こんなことをこの本のなかで書いておられます。
三陸沿岸の海は土地の人々のためにある。海は生活の場であり、人々は海と真剣に向かい合っている。
海は、人々に多くの恵みをあたえてくれると同時に、人々の生命をおびやかす過酷な試練をも課す。海は大自然の常として、人間を豊かにする反面、容赦なく死をも強いる。
岩手県の三陸海岸を歩く度に、私は、海らしい海をみる。屹立した断崖、その下に深々と海の色をたたえた淵。海岸線に軒をつらねる潮風にさらされたような漁師の家々。それらは、私の眼にまぎれもない海の光景として映じるのだ。
三陸地方の人たちは、何度も津波の被害にあいながらも、ここで、海とともに生きることを選んだ、あるいは、そうせざるをえなかった人たちなのです。
海は、恐れの対象であるの同時に、はかりしれない恵みを、人間に与えてくれます。
こんな大災害が起こるまでは、僕だって、「魚が美味しそうでいいなあ」なんて思っていたくらいです。
そして、この地方の人たちは、「忘れていた」のではなく、高い堤防を築き、避難訓練をして、津波に備えてもいたのです。
この本では、明治29年、昭和8年、そして、昭和35年のチリ地震津波のことが、詳しく紹介されています。
いずれも多くの被害者を出した大災害なのですが、吉村さんは、語り手として、極力自分の感想やお涙頂戴的な描写を省き、当時津波を体験した人たちへのインタビューや、津波について子どもたちが書いた作文を引用しています。
昭和8年の津波を体験した、当時尋常小学校6年の女の子の作文の一部。
私は、死体が海から上がったという事を聞くたびに胸がどきどきします。私は、一人であきらめようと思っても、どうしてもあきらめる事は出来ません。三度三度の食事にも、お父さんお母さんのことが思い出されて涙が出てきます。
町を通るたびに、家の跡に来ると何んだかおっかないような気がします。近所の人々は、
「アイちゃん、何してお父さんをひっぱって馳せないよう(どうして無理にもお父さんをひっぱって走らなかったんだよう)」
といって、眼から出てくる涙を袖でふきながら、私をなぐさめて下さいます。
私は、ほんとに独りぼっちの児になったのです。
この作文を書かれた牧野アイさんは、同じく津波で両親・兄弟を失った荒谷さんと結婚されました。
荒谷氏とアイさんの胸には、津波の恐ろしさが焼きついてはなれない。現在でも地震があると、荒谷氏夫妻は、顔色を変えて子供を背負い山へと逃げる。豪雨であろうと雪の深夜であろうとも、夫婦は山道を必死になって駆けのぼる。
「子供さんはいやがるでしょう?」
と私が言うと、
「いえ、それが普通のことになっていますから一緒に逃げます」
という答えがもどってきた。
荒谷氏夫妻にとって津波は決して過去だけのものではないのだ。
これが、40年前の話。
この本を読むと、津波で生き残った人たちの多くは、前触れとなった地震のあと、しばらく津波の兆候がなくても、「服を着たまま横になっていた」そうです。
今回の大震災は、日中に起こっていますが、この地方の人たちは、九州に住む僕たちに比べて、はるかに「津波に対する警戒心」を持っていたはず。
あれだけの甚大な被害が出てしまったけれど、先人の教えがなければ、被害はもっと大きかったのかもしれません。
しかし、年月が人々の警戒心をやわらげてしまうのもまた事実。
明治29年の大津波後には、高所への住宅の移転が目立ち、昭和8年の大津波後にはこの傾向はさらに増して、町はずれの高台にあった墓所がいつの間にか住宅地になった所さえあった。
しかし、この高所移転も年月がたち津波の記憶がうすれるにつれて、逆もどりする傾向があった。漁業者にとって、家が高所にあることは日常生活の上で不便が大きい。そうした理由で初めから高所移転に応じない者も多かった。
一例をあげると、明治29年の大津波で大災害を受けた岩手県気仙沼郡唐丹村では、山沢鶴松という人が海岸から300メートルほどはなれた高台にある自分の土地を提供して、熱心に被災者の住居移動を説いて歩いた。が、それに応じたのはわずかに四戸で、これもいつの間にか海岸近くにもどってしまっている。
つまり稀にしかやってこない津波のために日常生活を犠牲にできないと考える者が多かったのだ。
これは本当によくわかります。
いまはまだ生々しい記憶があるけれど、10年、20年と経っていけば、「いざというときのための備え」のために、「日常生活の不便」を受け入れるのは、どんどん難しくなっていくでしょう。
最後の「津波との戦い」という項で、吉村さんは、こんなふうに書かれています。
津波は、自然現象である。ということは、今後も果てしなく反復されることを意味している。
(中略)
しかし、明治29年、昭和8年、昭和35年と津波の被害度をたどってみると、そこにはあきらかな減少傾向がみられる。
死者数を比較してみても、
と、激減している。
明治29年の大津波以来、昭和8年の大津波、昭和35年のチリ地震津波、昭和43年の十勝沖地震津波等を経験した岩手県田野畑村の早野幸太郎氏(87歳)の言葉は、私に印象深いものとして残っている。
早野氏は、言った。
「津波は、時世が変わってもなくならない、必ず今後も襲ってくる。しかし、今の人たちは、いろんな方法で十分警戒しているから、死ぬ人はめったにいないと思う」
この言葉は、すさまじい幾つかの津波を体験してきた人のものだけに重みがある。
人間の知恵と技術は、津波の被害も超えていけるはず。
しかし、今回の震災は、そんな人間の「希望」を打ち砕くものでした。
また、「原発」という「人間の知恵が生んだもの」が、人間を苦しめてもいるのです。
しかし、こんな地震や津波が多い地域に、どうして原発を造ったのかというのは、非常に理解に苦しむところではあります。
「記録」に徹しているだけに、40年前に書かれたものでも色あせない、すばらしい本だと思います。
「津波は、時世が変わってもなくならない。必ず今後も襲ってくる」
「復興」と同時に、今この場所から未来に伝えなければならないことが、僕たちにも、きっとあるはずです。