琥珀色の戯言

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村上春樹さんの「カタルーニャ国際賞スピーチ」への雑感


村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(上) - 毎日jp(毎日新聞)

村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(下) - 毎日jp(毎日新聞)


6月9日、スペインのカタルーニャ国際賞授賞式で配布された、村上春樹さんの受賞スピーチの原稿全文が紹介されています。
「ちょっと長い」と思われるかたも多いのでしょうが、ぜひ、10分あるいは15分だけ時間を割いて、読んでみていただきたいと思います。


以下は、僕がこのスピーチを読んで、いま考えていることです。


僕はこのスピーチ、すごく心に染みたのと同時に、「村上さんはちょっとズルいなあ」とも思ったのです。
エルサレム賞のスピーチ『壁と卵』に関しては、村上さん自身があのとき置かれていた状況もあり、「作家として、『敵地』で、よくあそこまで踏み込んだスピーチができたものだ」と僕は感動したのですが。

 なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。

 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。

 我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。

このあたりは「歴史的事実」ですし、僕は今回の事故まで知らなかったのだけれど、吉村昭さんが『三陸海岸津波』という本を書かれているように、あの地方は、古来、大きな津波の被害を受け続けていたのです。
そして、スリーマイル、チェルノブイリと大きな原発事故が続いても、「日本の原発は安全」だと、なんとなくみんな思いこんでいました。
1999年に東海村で起こった臨界事故では、「どんなに安全なハードを造っても、それを利用する人間が油断をすれば、大きなエラーは簡単に起こりうる」ことが実証されたにもかかわらず、それでも、僕たちは学ばなかった。
チェルノブイリは、「ロシアの杜撰な管理体制の問題」で、「日本のちゃんとした技術なら大丈夫」だと考え、東海村の事故も「あの当事者が危険な『裏マニュアル』に従って作業していたのが問題だった」と自分に言い聞かせていたのです。


「核は危険なものなのだ」という認識が、なんとなく薄れてしまって、有名な映画監督や学者が登場する「原発安全CM」に慣れ、「原発がある地域の人たちは、温水プールがあったり、花火大会が豪勢だったりして、ちょっとうらやましいなあ」なんて。
本当に「絶対安全」なら、そんなことする必要はないはずなのにね。


村上さんは、今回の事故のことを、「東電のせい」だとは言っていません。
ネット上では、多くの人が、「東電叩き」をして、「目の前の仕事をしていただけ」の末端の従業員までがバッシングに遭っています。
結局のところ、「誰かのせいにして、安心したがる態度」こそが、さまざまな人間の「過ち」を生んできたのかもしれません。
その「対象」があまりに大きくなると、現実的な選択として、「わかりやすい責任者」をつくらざるをえないところはあるのだけれど。
ナチスによる戦争犯罪にしても、ナチスを選挙で第一党にしたのは、ドイツの国民たちです。
でも、「ドイツ人みんなが悪い」というふうに考えて、「復讐」すれば、憎しみは連鎖していくばかり。
虐殺された側の人たちには、ずっと、忸怩たる気持ちがあるはずです。


ごく普通の人間たち(ドイツ人たち)も、ヒトラーという扇動者がつくった「流れ」にのってしまうことによって、とんでもなく残酷なことをやってしまう。
それが、「人間の抱えている、本質的な弱さ」であり、「怖さ」だと思う。

戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。


 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。


 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」


 素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。


 そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。


 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

 理由は簡単です。「効率」です。

 こんなにわかりやすく書かれているのに、池田信夫先生は、

この碑文については長い論争があり、主語のない曖昧さが日本人の戦争に対する無責任な態度をあらわす悪文の代表とされてきた。原爆について謝罪しなければならないのは日本人ではなく、国際法違反の爆撃を行なった米軍である。それを占領軍の圧力によって「核」一般の問題にすり替え、「人類の平和への願い」を説いてきたのが、大江健三郎氏に代表される戦後の「進歩的知識人」である。


村上氏はその下の団塊の世代だが、彼の核についての考え方が大江氏とまったく同じなのには失望した。彼は原爆と原発を同列において、日本の戦後を「効率至上主義」だとし、それを疑う人は「非現実的な夢想家」とされてきたという。

 と仰っておられます。(池田信夫 blog : 非現実的な夢想家 - ライブドアブログ


 僕も、広島、長崎への原爆投下は「アメリカの戦争犯罪」だという認識です。
 ただ、池田先生にも、ぜひ一度広島、あるいは長崎の原爆資料館を訪れてみていただきたい。
 あそこに遺されている「遺物」をみて、僕は「アメリカは酷いことをしやがる」という怒りより、「どうして人間はこんなことができる兵器を開発し、それを実際に使ってしまったんだ……」という絶望を感じました。
 核兵器を「単に効率よく敵を殺せる兵器」だという認識こそが、まさに「悪しき効率至上主義」ではないでしょうか。
 地球上には、人類を何十回と全滅させられる数の核兵器がいまも存在しています。
 そして、「原発」というのは、今回のような自然災害、東海村のようなヒューマンエラーだけではなく、それが戦争時に攻撃を受けたり、テロの対象となったりすれば、結果的に「核兵器」になりうるのです。
 そもそも、世界には「自国が核兵器を保有したこと」を国民が大喜びし、お祭り騒ぎになる国も存在しています。
 

 日本は「唯一の被爆国」だと主張してきましたが、核兵器廃絶を訴える一方で、原発導入を推進してきました。
 経済的に「弱い」地域に、お金と職場を提供することと引き換えに、多くの原発を建設していったのです。

 
 そこには、「石油がいずれは無くなる」という怖れや、水力発電ではあまりにも規模が小さく、効率が悪い、というような事情もあったのでしょう。
 そして世界は、「『唯一の被爆国』である日本ですら、原発を推進するのか」という目でみていたはずです。
 アメリカとの関係はあるにせよ、日本人は、外に向かって、「核の恐ろしさ」を積極的に主張しようとしませんでした。
 「自分の国に原爆を落とした国」に尻尾を振ってついていき、原発をつくっていった国の姿をみれば、そりゃあ世界は「核兵器を持っていたほうが得だ」って思うよね。


 「効率」とは何だろう?と僕は考えます。

原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。

 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。

 そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。

 みんな「効率のよさ」だけを追い求め、その「効率化」によって、何が切り捨てられるかを考えなくなってしまった。
 そして、既成事実をつくってしまったあとで、「現実をみろ、もう後戻りはできないんだ」と脅しをかけられ、「まあ、だいじょうぶだろう」と、その「危険な現実」を受け容れてしまった。
 いま、日本全国で行われている「節電」のための努力をみながら、僕は考えます。
 もしかしたら、いままでの日本社会のほうが、「必要ない電気」を使い続けてきただけなのではないか?
 これから、もっと暑くなってきた時期に、クーラーが使えなくなってしまえば、そんな「疑問」も吹っ飛んでしまうのかもしれませんが、とりあえずいまのところは、当初の予想以上に「節電」は行われています。


 僕は先日の菅総理への不信任案に対する騒動が、どうも腑に落ちないんですよ。
 みんなあれだけ「この時期に首相交代とか解散総選挙なんて、被災地のことなんて、何も考えていない」と言う声が、前日くらいまでは大きかったのに、いざ当日になって、鳩山元首相の働きかけなどで、菅総理の「近日中の辞任」で不信任案が否決されたとたんに「民主党の連中は勇気がない」「これじゃ面白くない」「政治ショーだ」の大合唱。
 えっ、みんなは、どうしてほしかったの?
 結局、「政治家っていう偉そうな人たちがバカなことをやって、それを批判できれば満足」なんじゃないの?
 もし、首相が交代したり、選挙をやることによって、長い目でみれば被災地、そして日本の復興が早まるのならば不信任案を通せばいいし、そうでなければ、不信任案に意味なんてない。
 ただ、それだけのことのはずなのに。


 「日本の政治や政治家なんて、こんなもんさ」という発想こそ「現実」の仮面をかぶった「便宜」なんじゃないかな。
 そういう発想は、ラクに生きるための知恵でもあるのだろうけれど、そういう姿勢こそが、自分で自分を苦しめているということを、考えてみるべき時期なのだと思います。
 もしかしたら、もう遅すぎるのかもしれないけれど。


 僕はドイツが2022年をメドに「脱原発」を目指すというニュースに驚かされました。
 チェルノブイリの記憶があるとはいえ、「遠い国で起こった事故から、ちゃんと学び、今後のことを決断する」人たちもいるのです。
 ところが、当事国では、確かに、いますぐにすべての原発を止めることは難しいとはいえ、今後の方針も定まらず、「とりあえず、浜岡原発の停止」と「みんなが不安がっているから、点検などで停止中の原発の再稼働は控えている」状態。
 灯台もと暗し、とは言いますが、あまりに暗すぎるんじゃない?


 最後に、「村上さんはちょっとズルいなあ」と思った理由。
 村上さんは、これまで原発について積極的に発言してきた人ではなかったにもかかわらず、こうして海外でスピーチをして、「原発に反対する作家としての敬意」を集めることになりました。
 でも、これまで日本にも、「反原発」の活動をしてきた人はたくさんいます。
 彼らの多くは、「カネの力」で押し潰されたり、無視されたり、嘲られたりしていました。
 こんな事故のあとでも、新聞社がこんな記事を載せるのは、ものすごく難しいことだったと思います。
 それこそ「村上春樹の海外での受賞スピーチという形だったからこそ」可能だったのではないかと。


 僕は、村上さんが、これまでの日本に「反原発」のため闘ってきた人たちがいたことを知らないとは思えません。
 だから、ひとことだけでもいいから、そういう「知られざる人たち」への敬意を払ってほしかった。
 本当に素晴らしいスピーチなのですが、それだけが、少し僕には引っ掛かっているのです。

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