- 作者: 森博嗣
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2011/06/29
- メディア: 新書
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内容紹介
科学的無知、思考停止ほど、危険なものはない!
「横行する非科学に騙されるな!」 元・N大学工学部助教授の理系作家による科学的思考法入門。科学――誰もが知る言葉だが、それが何かを明確に答えられる人は少ない。しばしば「自然の猛威の前で人間は無力だ」という。これは油断への訓誡としては正しい。しかし自然の猛威から生命を守ることは可能だし、それができるのは科学や技術しかない。また「発展しすぎた科学が環境を破壊し、人間は真の幸せを見失った」ともいう。だが環境破壊の原因は科学でなく経済である。俗説や占い、オカルトなど非科学が横行し、理数離れが進む中、もはや科学は好き嫌いでは語れない。今、個人レベルの「身を守る力」としての科学的な知識や考え方とは何か。
もしあなたが「原子力の専門家が言っていることなんて、ウソばっかり」と決めつけているのなら、あるいは、「自分は文系だから、科学のことはわからない」と思っているのなら、書店で原発事故に関する本を手にする前に、この新書を読んでみてください。
この新書、森博嗣先生が、「いま、このときだからこそ、伝えておきたいこと」が詰まっています。
正直、森先生の話しかたや数字そのものに拒絶反応を示す人もいると思うのだけど、この新書だけは、ぜひ読んでみていただきたいのです。
「自分自身を守る」ために。
この新書は、もともと「科学」が敬遠される世の中への警鐘として、震災前から森先生が執筆を予定されていたものだそうなのですが、今回の大震災へのマスメディアの対応と、世間の反応が、「これを書いておかなくては」というモチベーションを高めたようです。
連日TVやネットで報道されている情報にもなるべく目を通し、また、必要なものは過去に遡って世界中の情報を収集した。
少し落ち着いてから考えたのは、悲観的なものから楽観的なものまで幅はあるにしても、特に国内における情報の多くが、「涙と人情」に流された感動ドラマを作ることに終始し、「まずは涙を流そう、でも最後は元気を取り戻してみんなで笑おう」というような感情に流された演出が目立っていたことだ。そういったものが無駄であるとは言わない。人間にとって「気持ち」の影響力は大きい。けれど、いくら感動しても、いくら泣いても、飢えている人を救うことはできない。いくら一時の笑顔があっても、それは「解決」ではない。まして、「人道支援」と「防災」は別問題である。
よく「自然の猛威の前に人間は無力だ」という言葉で片づけてしまうことがある。これは、「油断するな」という教訓としては正しい。しかし、自然の猛威から人間の命を救うことは、可能である。それができるのが「科学」であり「技術」なのだ。極端な言い方になるけれど、科学的な知識を持っていることが、身を守る力になる。「気持ち」だけでは人は救えない。きちんとデータを分析し、そこから予測し、次の手を打つことが人類の力なのだ。
当然ながら、科学知識のない人が被害者になった、という意味ではない。科学を妄信した、と安易に片づけることもできない。
それでも、「津波が来ても、防波堤があるから大丈夫」という言葉を信じた人は多かったのではないか。そこには、「津波」とは何なのか、どういったメカニズムで安全を確保しているのか、何メートルの津波まで想定されているのか、という「科学」が忘れられている。「難しいことはいいから、結論だけ言って」という姿勢が、「言葉だけですべてを処理してしまう傾向を助長する。そこに危険性がある。そういうことを、この災害で再認識した。
読書の楽しみを知ってもらいたい。スポーツの楽しさを感じてもらいたい。ほかの分野でも、こういった姿勢は根強い。しかし、科学の場合は、そんな悠長な問題ではない、と思うのだ。読書やスポーツが嫌いな人は、それをしなくても良いだろう。楽しみは、ほかにいくらでもある。しかし、科学を避けることは、この現代に生きていくうえではほとんど無理なのである。「僕は日本語が嫌いだから、日本語は聞きたくない」と言うのと同じレベルだといっても良い。もはや、好きとか嫌いで片づけられるものではない、ということだ。
だから、この本に書いた意見は、「これで科学を好きになってほしい」「少しでも興味を持ってもらえれば嬉しい」ということではない。「科学から目を背けることは、貴方自身にとって不利益ですよ」そして「そういう人が多いことが、社会にとっても危険だ」ということである。
この新書の中で、森先生は、「実験をすれば科学的だと勘違いしている人がかなりいるようだ」と書いておられます。
僕も「実験で証明」=「科学的」という印象を持っていたのですが、「実験というのは、いろいろな要因が紛れ込むし、また測定にも、実験者の意志がどうしても介入しがち」なのです。
森先生は、「科学の非科学の境界」について、このように説明されています。
答をごく簡単にいえば、科学とは「誰にでも再現ができるもの」である。また、この誰にでも再現できるというステップを踏むシステムこそが「科学的」という意味だ。
つまり、「ある人が、ひとつの実験で起こした現象だけでは、『科学的に証明された』とはいえない」ということです。
多くの人による検証の積み重ねこそが「科学的」だということなんですね。
「科学」には数字による共通認識は不可欠なのですが、多くの人が、「簡単にイメージできるくらいの数字にまで、アレルギーを抱いてしまっている」のです。
そしてそれを問題だと感じない人が、いまの世の中にはたくさんいます。
たとえば、広い場所や、巨大な量を表すときに、「東京ドームの何倍」という表現がよく使われる。数字よりはその方がイメージしやすいらしい。しかしそれは、逆にいえば、普通の数字で大きさがイメージできない人が大勢いることを意味している。面積や体積は、身近な単位であるメートル、キロメートルで表されるのだから、数字で示してもらえば、簡単にイメージでかいるはずだ。100万平方メートルと聞けば、一辺が1000メートル、つまり1キロメートルの正方形を頭に思い描けば良い。自分が住んでいる街の、どのあたりからどのあたりまで、と想像することもできるはずだ。もちろん、1000×1000が100万だという小学校レベルの算数の理解がなければ無意味ではある。
東京ドームで大きさを示されても、東京ドームがどれくらいのサイズなのか知らないのが普通だ(広さはともかく、体積はわかりにくいだろう)。数字で示してもらえれば、1万立方メートルのビールとは、自分が飲むビールに換算したら何日分になるのか、という計算(概算)もできる。数字ほど、具体的で、はっきりと把握できるものはない。
数字というのは、それがどのくらいのものなのかを伝えることができる最もわかりやすい指標だ。ところが、多くの人は数字を拒絶してしまい、「その数字を人間(みんな)がどう感じるのか」ということを知りたがる。水道管が破裂した事故を報道するTVでは、何リットルの水が流出した、という数字を伝えればわかるところを、周囲の人たちにインタビューをして、どれくらい凄かったのか、ということを語らせようとする。そういう「人々の印象」を伝えることが「正しい情報」だと考えているようにさえ思える。マスコミの報道を見ていると、この「印象」「主観」情報の比率がどんどん高くなっているのではないかと感じる。
ああ、僕も「具体的な数字よりも、『東京ドーム何杯分』のほうがわかりやすい」と感じてしまう人間だよなあ、と思いました。
「東京ドームの正確な体積」なんて、ほとんどの人は知らないはず。
ただ、「ものすごく広い」というイメージがあるだけで。
そもそも、東京ドームを実際に見たり、中に入ったことがある人ばかりじゃない。
東京圏以外の人は、なおさらでしょう。
東京ドームの具体的な体積は、テレビで野球中継を観ただけでは伝わってきませんし。
それにもかかわらず、「わかりやすい例え」として、この表現は使い続けられているのです。
ちょっと想像力をはたらかせ、頭の中で計算することができれば、「1立方メートルの1万倍」を具体的にイメージするのは、そんなに難しくないはずなのにね。
そして、森先生は、マスコミがしばしば要求する「はっきりと示してほしい」という要求に対して、疑義を呈しておられます。
原発の放射能漏れの大事故では、TVの司会者やコメンテータが何度も「はっきりと示してほしい」と訴えていた。しかし、(観測数が充分とはいえないが)測定された数値は毎日示されているのだ。また、その数値がどんな危険を意味するのかも、秘密にされているのではない。情報は公開されている。「はっきりと示してほしい」というのは、数字を頭に留めず、「ただちに健康に影響が出るレベルではない」という言葉を聞いているからだろうか。はっきり示すことは、むしろマスコミの責任ではないのか。
放射線量の責任測定値の変化を、自分でグラフに描いた人も中にはいたはずだ。残念ながら、たしかにリアルタイムで刻一刻と変化する数値データは、沢山は公開されていなかった(測定には人員も設備も時間もかかるからだ)。「目に見えないから怖い」という気持ちも当然ではあるけれど、少なくとも測定ができるのである。測定ができるものを、「目に見えない」と表現するのは言いすぎだろう。そんなことをいったら、力だって、重さだって、目には見えない。多くのものは測らなければわからない。
測定値をきちんと捉え、それによって各自が判断することが大事だし、それしかないのである。こんな事態になっても、数字から目を逸らし、「数字なんて当てにならない」なんて言う人がいるのだ。やはり科学を遠ざけることの「危険」を感じずにはいられなかった。
マスメディアでの専門家の「いろいろな条件を想定し、数字をあげての長い答え」って、「ああ、専門バカが、相手のことも考えずに自分の世界に入って、わけのわからんことを言ってるぜ」と思いがちです。
でも、「数字」ほど、明確で普遍的な「指標」はないのです。
むしろ、「わかりやすく」安全です、とか、心配ありません、なんて、簡単に言う人のほうが、「科学的ではない」。
放射線には「100%の人が死に至る(であろう)量」はありますが、そこまで至らない場合には、「影響が出る人もいるし、出ない人もいる」そして、その人の年齢や健康状態によっても、影響が出る可能性や健康被害の程度は異なります。
もっとも、専門家としては、パニックを防ぐために、やむをえず「わかりやすい説明」をせざるをえない場合もあるのでしょう。
どんなに森先生が啓蒙しようとしても、この新書すら「読まない」あるいは「読めない」人のほうが、世の中には多いのだし。
科学者・技術者は、今回の震災で何をしなければならないだろう。もちろん、お見舞いもしたい、復興もしたい。しかし、こんな時期にと言われるかもしれないが、最も考えなければならないことは、「次に起こる地震」であり、「次に来る津波」である。
そもそも、今回の被害は、科学や技術を結集して行われていたはずの「これまでの備え」の結果である。「結果」と描いたのは、救われたものと、失われたものを含めているからだ。
たしかに備えは充分ではなかった。しかし、なにも備えていなかったら、何十倍もの被害があったかもしれない(たぶんあっただろう)。これまでの努力の結果が今現れたのである、したがって、これからは、次に備えることに全力をあげなければならない。
沢山のデータが得られたのだから、備えはもっと良くできるはずだ。より合理的に、的確になるはずだ。それが「科学」の仕事、技術の目的である。「一度地震があれば、当分は大丈夫」という理屈はない。備えるためには時間も費用もかかる。すぐに着手した方が良い。
「科学は必ずしも人間を幸せにしない」のではなくて、「そもそも、人間を幸福にしないものは、科学ではない」
それが、森先生の「科学」へのスタンスであり、僕たちへのメッセージです。
「自分は文系」「数字が苦手」「科学は人間を不幸にする」
繰り返しになりますが、そう思い込んでしまっている人にこそ、ぜひ一度読んでみていただきたい本です。
難しい数式や設計図を理解しなければ「科学的」になれないわけじゃない。
「東京ドーム何杯分」といわれて、なんとなくわかったような気分になり、「思考停止」する習慣をやめることが、「科学的な態度」の入り口なんですよね、きっと。
それはきっと、「みんなできるのに、めんどくさがってやっていないだけのこと」だから。