琥珀色の戯言

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知的余生の方法 ☆☆☆

知的余生の方法 (新潮新書)

知的余生の方法 (新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
知的な生活を心がければ、素晴らしい人生を取り戻せる。「知的余生」とは、年齢を重ねても頭脳を明晰化し、独自の発想にあふれた後半生のことである。健全な肉体を保ち、知恵や人徳を生む生活方式、終の住居の選択法、時間と財産の上手な使い方、先人の教えが身に付く読書法、恋愛や人間関係の実践的教訓など。あの名著『知的生活の方法』から三十四年後の今こそ、豊富な教養と体験から碩学が紡ぎ出す、人生の新しい極意。


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
渡部 昇一
1930(昭和5)年山形県生まれ。上智大文学部卒、同大学院西洋文化研究科修士課程修了。独ミュンスター大、英オックスフォード大に留学。上智大名誉教授。ミュンスター大Dr.Phil.、Dr.Phil.h.c.(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

僕は『知的生活の方法』を読んだことがありませんし、著者の渡部さんに特に思い入れもありません。
内心、「知的生活」なんて自称する人は、なんかうさんくさいなあ、とも感じており、なかなかこの本を手にとる機会はなかったのです。
しかし、最近出版される新書は、社会的な関心が高い、震災・原発に関するものがかなり多く、少し毛色の違うものを読んでみたくなって、この本を手にとりました。


読みながら、「うーん、『余生』って言うだけあって、まだ40前の僕にはちょっと早すぎたかな」と何度か後悔したんですけどね。

内容的には、「ずっと『知的』でいるには、どうすればいいのか」ということが延々と語られており、「なるほど」と思うところも少なくありませんでした。
その一方で、「これって、自慢?」とか「さすがに80歳の人の『知的生活』をいま読んでも、その頃には忘れているだろうな、そもそも、不健康な生活をしている僕は、そんな年齢まで生きられるか……」という内容もありました。


1930年生まれの渡部さんは、「95歳まで生きて、死を自然に受け容れられるようになりたい」と仰っておられます。
こういう「余裕」は、なかなか真似できるものではないですよね。

この本、内容的には、あまり目新しいところはありません。
しかしながら、この新書のなかで紹介されている歴史上の人物の言葉や行動、そして、渡部さん自身の経験談は、すごく面白いものが多かったのです。
さすがに「知的生活」をしてきた人だなあ、と。


「余生をふるさとで過ごそう」という人たちに、渡部さんは、こんなエピソードを紹介されています。

 かつて、私のドイツ時代の恩師のシュナイダー先生も、「ふるさと」に惹かれたことがあった。シュナイダー先生はミュンスター大学に長年勤められて、そこの学部長もなさった方なのだが、学部長時代に奥様が癌に罹ってしまった。悲嘆した先生は、奥様が亡くなったら気持ちの張りもなくなり、一人ぼっちの生活には耐えられないだろうと考え、郷里の田舎に帰る決心をされた。そしてある時、奥様の病床でその決意を打ち明けたのだという。すると奥様はシュナイダー先生に、
「田舎などに帰っては絶対にいけません。そこで静かに生活するなどということは単なる夢です。あなたが思い描いている田舎では、もうあなたの世話ができる親も死んでしまっていますし、身内の人もいない。知っている人だっていなくなっている。あなたはこのミュンスター大学に長年奉職して、この大学街で多くの知人・友人に恵まれているではありませんか。学生たちも慕って訪ねてきてくれる。だから、私がいなくなったからといって、この町を離れるなんて絶対にしてはいけません。この町でこれからも生活してください」
 とその死の床で戒めた。先生はこの奥様の遺言を守り、余生をずっとミュンスターの町で暮らされたのである。

 これは本当に、「余生を田舎で過ごすという夢」を抱いている人たちは、一度読んで考えておいたほうが良いと思います。
 実際、「住んでみると、田舎のほうが車がないと買い物にも行けないし、閉鎖的な面はあるし、けっして生活がしやすいわけではない」という人は多いのです。
 しかし、死の床でも、こんなふうに夫の心配をしてしまうというのは、美しくも哀しい話ではありますね……

 渡部さんは、「知的余生」のために「読んでおくべき本」として、パスカルの『パンセ』を勧められています。

 そういう人のために、私は敢えて、最近ではあまり読まれなくなっている、パスカルの『パンセ』をお勧めしたい。昔の旧制高校新制大学ではみんな読もうとしたものだ。当時のベストセラーの一冊といってもいいだろう。だから人生についてもう一度考え直してみようとする人はこの原点へ戻ってみるべきだと思う。

(中略)

 その言葉は非常に含蓄に富んでいて面白い。誰もが知っている「人間は考える葦である」というのも、この『パンセ』にある言葉だ。あるいは、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界は変わっていただろう」というのもそうだ。
 しかし、私の考えるところでは、こういった人間学的な断片ばかりがクローズアップされすぎたため、パスカルの本当に意図したことが薄らいでしまっているのではないかと思う。パスカルについて書かれた日本の本の多くがそうなのだ。

 そして、渡部さんは、こんなふうにも書かれています。

 パスカルのような大天才の自然科学者でさえも結局は、宗教を必要とせざるを得なくなるという点に興味を惹かれるのだ。人生の先が何となく見えてきて、心が落ち着かなくなる。このような時、何かを信じたいし、何かにすがりたいと思うのが人間だ。そんなシニアの世代に、信じることへと至る思考のプロセスや神と人間との関わり方を、パスカル自身の言葉で語ってくれる本が『パンセ』だと思う。

 さまざまな「知識人」と呼ばれる人たちが、なぜ、年を重ねると、宗教を必要としていくのか?
 なるほど……これはたしかに、「一度は読んでおきたい本」ですね。
 それも、「余生」を自覚する前に。

 この新書を読んでいると、「『余生』をうまく過ごすためには、壮年期の過ごしかたが大事なのだな、と考えさせられます。

 壮年期には、みんな一生懸命に働いている。仕事の場では常に学ぶことがある。だから壮年期によく仕事をしてきた人は、学び続けてきたという自覚がある。
 ところが、これが案外錯覚なのである。
 荘の時、壮年時代というのは、その人の人生の中で最も働き盛りで、仕事も充実している時なのだが、だからこそ、ごまかされやすい。仕事に打ち込んでいる時には、真剣になって仕事についての勉強もし、新しい情報にもどんどん接する。そして、勉強すればする程仕事も面白くなっていく。だから、「学んでいる」と思い込んでしまうのだ。だが、こうして一生懸命に働いて定年を迎え、ではこれから何をやっていこうか、と考えた時、ハタと、何も学んでいなかったことに気づく。やることが何も思いつかない。仕事中に学んだことが、その会社や地位を離れた途端に、何の役にも立たないことに気づく。こういうことが多いのだ。これでは、荘にして学んだことにはならない。忙しく仕事をしているから、学んでいるように誤解しているだけで、決して学んではいない。仕事上の勉強を、自分自身の勉強と勘違いしただけなのだ。「荘ニシテ学ベバ、則ち老イテ衰ヘズ」というのは、必ずしもそういう学び方のことをいっているのではない。必ずしも仕事上での「学ぶ」を意味しているわけではない。まずこのことに注意する必要がある。

 こういうのは、本当に身につまされる話ではあるのですが、現実の生活としては、壮年期に「仕事以外の勉強」を将来のために続けていくのは、すごく大変なことです。
 だからこそ、「意識して学ぶべき」なのでしょうけど。
 
 いま「余生を過ごしている人」よりも、「これから、どう余生を迎えていくか」を考えざるをえない人は、一度読んでみて損はしない新書だと思います。

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