琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「親の本棚」と「子どもの読書習慣」

参考リンク(1):生涯所得を数千万円変える“本当の”情報格差/若者よ書を求め街へ出よ? - デマこいてんじゃねえ!


このエントリを読みながら、僕は自分が子どもの頃の「親の本棚」を思い出していました。
僕の両親は、当時の僕からすれば、「本を読まない人」で、父親などは、夜遅く酔っ払って家に帰ってくるか、帰ってくればテレビ鑑賞。
たまに本を手にとっても、ほとんどが仕事に関する専門書か『週刊現代』みたいな雑誌でした。
ああ、そういえば、『医師会雑誌』っていうのもたまに眺めていたけれど、あれは「求人コーナー」みたいなのに「当方眼科医院経営。娘ひとり。男性医師求む、年収2千万円保証」とかいうようなことが書いてあって、けっこうインパクトがありました。
この御時世に、後継ぎのための婿探しかよ!って。
ああいうのって、今もあるんでしょうかね(僕は医師会に入っていないのでよくわからないのです)。


早速脱線してしまいましたが、子どもの頃、家の本棚には、「日本文学全集」「世界文学全集」みたいなのがズラッと並んでいました。
それはまさに「置きもの」でしかなくて、それを誰かが取り出して読んでいるところを見たことがありません。
僕も教科書に載っていた夏目漱石の『こころ』の続きが気になって引っ張り出してきたことがあるくらいで、ほとんど触ったこともありませんでした。
けっこう立派な百科事典もあったのですが、これは、中学生のころ、マクドナルドの「銀はがしクイズ」に答えるために利用した思い出があります。


記憶では、子どものころ、『ぐりとぐら』とか『しょうぼうじどうしゃ じぷた』とかは、母親に読んでもらっていた記憶があります。
その後、小学校くらいから、自分で本を買って読むようになりました。
きっかけはよく覚えていないのだけれど、『○○のひみつ』というようなマンガで科学知識を紹介するような本や、ケイブンシャの『○○大百科』が大好きで、物語よりも、そういう雑学系の本ばかり読んでいました。
幸いなことに、我が家には「本だけは買いたいだけ買って良い(マンガ含む)」というルールがあったので、僕は出かけたときに本屋に行くのが、人生で最大の楽しみでした。
マンガではなく、「雑学本」や「文庫本」を読むようになったのは、「マンガだと30分で読み終わるけど、文字だけの本なら3時間や4時間、運がよければ半日くらい本を読んでいられるから」です。


小学校高学年のとき、図書館で「マンガ日本の歴史」の「関ヶ原の戦い」の巻を読んでから歴史、とくに中国史にハマり、本当にたくさんの歴史関係の本を読みました。
あとは推理小説、とくに『怪盗ルパン』シリーズを図書館で読み、エラリー・クイーンくらいまでは読みました。
『Yの悲劇』は、当時すごく印象的で、僕のなかではいまでもオールタイム・ミステリNo.1です。
たぶん、あの話を「子どものころに読んだ」のが大きいのだと思います。
子ども心に、「いいのか、それで?」と驚きましたから。
子どもは子どもなりに、自分たちは「聖域」だと信じていたのだよなあ、きっと。


僕はひきこもり気質で運動苦手、人づき合い苦手な子どもだったので、「恋愛小説」はほとんど読みませんでしたし、いわゆる「歴史的名作」も嫌いでした。
あんなものは、子どもが読むものだと、子ども心に思っていて、ただひたすら、「歴史」と面白い本を探していたのです。


中学校まで、人口7万人くらいの地方都市で暮らしていたのですが、当時の移動手段は自転車で、行ける範囲の図書館や書店には、僕が欲しいと思っていたような本はほとんどありませんでした。
『ログイン』で紹介されていた『銀河ヒッチハイク・ガイド』や『火吹き山の魔法使い』を行きつけの書店でみつけたときの喜びといったら!
ああ、この街も、ちょっと都会になったのかなあ、なんて錯覚しましたよ。
ロードス島戦記』は、旅行先の大阪で見つけて、狂喜乱舞したものです。
(もっとも、この本はかなり売れたので、のちに近所の書店でも見かけるようになりましたが)
博多の天神コアにあった「紀伊国屋書店」は、僕にとっては天国で、あそこに行って、好きなだけ本を買ってみたいなあ、と夢見ていたものです。
地域格差」というか、「地域の書店格差」は、いまから20年くらい前までは、確実にあったし、今も多少はあるのではないでしょうか。
子どもの場合は、行動範囲も限られていますしね。


高校以降の話はさらに長くなるので書きませんが、「親のおかげで本を読むようになったのか?」と言われると、僕自身は、「少なくとも本を読むことを薦めてくれる環境にあった」ことは認めます。
でも、僕が読んできた本が、はたして、「親が望んでいたもの」か、あるいは「人生において有益なものだったか」はわからないというか、たぶん違うのだとうという気はします。


「読書習慣」は、人生を豊かにしてくれるのではないかな、そうであったらいいな、と僕は思っています。
ただ、読書は基本的に「娯楽」でしかないのだろうな、とも感じます。
中国に「人生を楽しみたければ、釣りを覚えなさい」という有名な言葉があるのですが、読書というのは、釣りと並んで、「年をとってもできるし、お金もそんなにかからないし、ひとりでできるし、同じことの繰り返しのようで、些細な変化が常にあって、飽きない」趣味です。
僕は「暇だな」と感じることがありません。
それはやっぱり、本を読む習慣のおかげだと思います。


でも、本というのは、読めば読むほど、「1冊あたりの効用」は薄まっていくような気がするし、人生とかいうものには、「本で得た知識だけでは、どうしようもない面がある」。
競馬にいちばんハマっていたころ、何百冊という競馬関係の本を読みましたが、結局、馬券が当たるようにはなっていません。
たぶん、本を読むより、一日競馬場にいて、パドックで馬の息遣いを感じるような経験が、必要なのでしょう。
それでも当たらないのが競馬ってものらしいのですが。

競馬という狭い世界ですらそうなのですから、相手が「人生」となれば、なおさらです。
「読書」は、なんらかのヒントにはなりうるけれども、万能ではないし、読めば読むほど、わからなくなってくることもある。


僕がドラッカーの『マネジメント・エッセンシャル版』について書いたとき、「どこが難しいんだろう?文字通りに読めばいいだけじゃん」というブックマークコメントをつけた人がいらっしゃったのですが、僕はいまだに「自分が本を文字通りに読めている」という確信が持てないのです。というか、それはすごく難しいことだな、と悩むことばかり。
翻訳の場合には、さらに「外国語と日本語のニュアンスの違い」がどうしてもあるでしょうし、古典の場合には「その本が書かれた時代との背景の差」があります。
ニーチェの「神は死んだ」という言葉について、「神が存在しない時代」を生きている今の日本人には、想像はできても「同時代の人が受けたのと同じインパクト」を味わうことは不可能でしょう。
それを「少しでも想像できるような力を養う」というのが、「読書の効用」なのかもしれないけれども。


僕が唯一読書から学んだのは、「人間というのは、みんな同じようなことで悩んでいて、その一方で、その悩みというのは、その人それぞれのものなのだ」ということでした。
しかし、そのことで「生きやすくなった」とは言い難いし、これだけ読んでも、こんなものか、と愕然としてしまいます。
ほんと、僕くらいの読書量で、実感できるのは、「まだ世の中には、読んでいない本がたくさんあるなあ」というのと、「人生で最後に勝負をきめるのは、『肉体力』かもしれないなあ」ということなんですよ。
仕事をしていて、体力的に「最後のひと押し」が効くかどうかって、本当に大きな差だから。


それでも自分の子どもに本を読ませたいか?と問われたら、親として子どもが「読書」を軽蔑してほしくない、と思います。
その一方で、「この道は、進めば進むほど、ウィザードリィのレベル上げみたいなものだ(突き詰めれば突き詰めるほど、労力のわりには見返りが少なくなってくる。しかしゴールがないので、極めようとすればキリがない)」と引きとめたくもなるのですが。


参考リンクのなかで、「年齢別おすすめの本」が紹介されていて、息子が『はらぺこあおむし』大好きであることに僕は安堵したのですが、その一方で、やっぱり、子どもというのは、親が期待しているようには本を読まないものだよなあ、と苦笑してもいるのです。
僕としては、「あおむしがきれいなちょうちょになる」ところに感動してほしいのだけれど、息子が大好きなのは、「アイスクリーム、ペロペロキャンデー、ピクルス、チョコレートケーキ……」と、カラフルな食べものが並んでいるページです。
先日『カーズ』のDVDを見せていて、前半のレースシーンに大喜びしていたのに、肝心のラスト、「友情と思いやりの心」に目覚めたライトニング・マックイーンの名場面では、すっかり飽きて、ほかの遊びをはじめてしまいました。
結局のところ、「親の思い通りに育つ子どもなんて、いない」のだよね。
思い返すと、僕もそうだった。

結局のところ、どんなに立派な本棚も、「親が期待しているようには、子どもには利用されない」ものなのでしょう。
むしろ、親が読ませたい本など、子どもは読みたくないのかもしれません。
それでも、「そこに本がある」「親が本を読んでいる」のは、子どもの読書習慣の有無には大きな影響を与えるのだとは思いますけど、「どんな本を読むのか?」は、本人が決めていくものなのだろうな、という気がします。


ちなみに「地域格差」については、僕が子どもの頃に比べれば、かなり是正されていると思います。
その立役者が、まさにインターネットなのです。
Amazonでは一部の古書店でしか手に入らないようなレアものを除けば、ほとんどの好きな本を全国で簡単に入手できるようになりました。
そして、ネット上では、無料かそれに近いようなコストで、多くの優れた作品を読むことができます。


参考リンク(2)ウェブで学ぶ ――オープンエデュケーションと知の革命 - 琥珀色の戯言
↑を読んでいただければ、その一端は理解していただけるのではないかと思います。


ここで紹介されている「オープン・エデュケーション」は、近い将来、「国境や貧富の差をこえた、機会の(比較的)平等」を与えてくれるはずです。
その一方で、「能力も意欲もない人間」にとっては、さらに生きづらい世界になっていく、そんな予感もするのです。

そういう時代では、「地域格差」よりも「個々の家庭で、親が子どもの学ぶ意欲を高めてあげられるか?」が重要になってくるのではないかと思います。
もう「田舎だから」は言い訳にならなくなってしまう。

でも、僕自身には、読書が人を幸せにする、と言い切る自信はないんですよね。
本当に幸せな人は、本なんて読まないんじゃないかな、とも思いますし。


ウェブで学ぶ ――オープンエデュケーションと知の革命 (ちくま新書)

ウェブで学ぶ ――オープンエデュケーションと知の革命 (ちくま新書)

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