琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「島田紳助的な人心掌握術」は引退しない。


 僕は島田さんの、子分を集めて濃密な人間関係をつくり、そのなかで「絆」や「感動」をどんどん生産していく手法が好きじゃないので、引退については、「そうか、もう観なくてすむのか」という感じです。
いや、そんなこと言う前に、最近テレビで観ているのは、スポーツ中継とCSの『ゲームセンターCX』くらいなんですけど。

 でもまあ、あの会見をみながら、いろいろ思うところはありました。
 そりゃもう、逮捕されるレベルの「犯罪」なら、致し方ないのでしょうが、「そういうことじゃない、社会的通念上の問題」であるのなら、こういう形での「引退劇」って、ちょっとやりすぎなんじゃないか、と。
 こんなに突然にやめるんじゃなくて、もっとゆるやかに「引退」していっても、誰もそんなに文句は言わなかったはずです。
 これは「潔さ」の演出であり、最後に「どうだ、俺がいないと、みんな困るだろう」ということを再確認したかったんじゃないかな。
 しかし、たぶん島田紳助というひとつの才能がいなくなっても、みんな1年もすれば忘れてしまうだけなんでしょうけど、


 ところで、僕がいちばん気になっていたのは、「暴力団との親密なつきあい」に対する社会の見解でした。
 まあ、「親密になって、犯罪行為の手助けをしたりされたりしていた」のなら論外ではあるのでしょうが、世間は、「暴力団幹部と仲良くしている」ことに、そんなに強い嫌悪感を抱くのでしょうか?


 僕は暴力団大嫌いです。
 そもそも、弱いので暴力嫌いだし、以前、街で因縁をつけられ、絡まれたときには、本当に怖い思いをしました。
 なんでああいうことをする人たちが大手を振って歩いているのか、理解しがたい。
 でも、実際に目の前で暴力をちらつかせられると、それだけで「すみませんでしたー」とか言ってしまう自分がまた情けない。
 世間は、暴力団に対して、基本的には厳しく接しているはずです。
 住んでいるマンションに暴力団の事務所ができれば立ち退きを訴えるし、なるべく関わらないように生活している人が大部分でしょう。


 しかしながら、その一方で、「下っ端はどうしようもない連中ばっかりだけど、幹部は立派な人が多い」とか、「本当はいい人もいる」なんて、日常会話のなかで話している「一般人」は、けっして少なくありません。


 「ヤクザやマフィアの抗争」を題材にした映画やドラマは世界中でつくられているし、コンビニに置いてある週刊誌の表紙には、「暴力団の内部を暴露した記事のタイトル」が大きく印刷されています。
 そんなの、誰が読むのだろうか?
 そう思うのだけれど、その週刊誌は、僕が目にする10年くらいは、ずっとそういう内容を書き続けていますから、「業界内の人たちだけが読んでいる」とは思えません。
 目の前にいる暴力団員が好きな人って、ほとんどいないと思うのだけれど、フィクションのなかの「任侠の世界」みたいなのに憧れている人って、けっこういるのかもしれません。


 僕自身も、何年か前にあるゲームをやっていて、妻に呆れられたことがあります。
 「あなたは常日頃から、『ヤクザなんて大嫌いだ』って言っているのに、なんでそんなゲームを楽しそうに遊んでいるの?」

 そのゲームの名は『龍が如く』。
 シリーズ作品が毎回大ヒットしている(もう「完結」らしいので、「していた」でしょうか)、ヤクザの世界を描いた作品です。
 このとき、僕は妻の問いに、うまく答えることができませんでした。
 「いや、桐生一馬は、良いヤクザだからさ」って言うのは、さすがに無理があるし。
 結局、「自分でもおかしいと思うのだけれど、なんかこのゲーム『面白い』んだよね……」という返事しかできませんでした。


 芸能人が、暴力団員(しかも幹部!)と親しくするなんて……と言うけれど、その一方で、ごくふつうの人たちが、「暴力団員も、上(幹部)のほうは筋が通った、まともな人が多い」なんていう「イメージ」もある。
 暴力団という組織で「幹部」になるためには、どんな「実績」が必要かを考えれば、「上のほうは、立派な人」なんていうのは、間違いに決まっているのですが……


「芸能人と暴力団員の黒い交流」に嫌悪感を抱く一方で、「芸能人って、みんなそんなものだろ」と、多くの人が「知っている」。
 今回、島田紳助さんがこの幹部と親密になったのは、あるテレビ番組での発言で、紳助さんが右翼に攻撃されていた際に、間に入って「ことを収めてくれた」ことがきっかけだったそうです。
 本当に悲しいことなのだけれど、「話し合いや法律の世界では、解決しがたい暗い圧力」みたいなのがこの世の中にはまだまだ存在していて、それから短期間で逃れるためには、別の「黒い力」が必要になってしまうのです。
 そして、その黒い力のあまりの便利さに、人は、罪悪感を忘れてしまう。
 ある暴力団が誰かを攻撃すると、別の暴力団が、攻撃されている人を助ける。
 困りはてているなかで助けられた人は、「闇社会の力は必要悪なのだな」と思い込む。
 最初のきっかけとなる暴力団さえいなければ、そもそも、助けてもらわなくてもよかったのに。
 暴力団は、自ら火をつけて、それを消してみせ、「どうだ、俺たちがいなければ、この火事を消せなかっただろう」とアピールするのです。

 暴力団側にとっては、そうやって有名人を取り込むことで、自分たちの存在を肯定することができる。
「俺は、こんな有名人とも親友なんだ」って。
 利害関係で結びついているだけなのに、有名人の側も、いつの間にか、「そんな危険な立場の相手と『損得勘定抜きでの、男と男のつきあい』をしている俺って男らしい!」なんて勘違いしてしまう。


 そういえば、「紳助ファミリー」って、「徹底した上下関係」や「上は下に絶対的な服従を要求し、自分のいいように使うかわりに、下を責任もって引き立ててやる」という、まさに「ヤクザ的な組織」なんですよね。
 どのくらい意図的にやっていたのかはわからないけれども、そういう「ファミリー・システム」を、多くの人たちが、「美しい家族関係」のような目でみていて、肯定的にとらえていたのです。

 21世紀になって10年が経った、日本という国でも、「ヤクザ的なシステム」は十分通用することを、島田紳助さんは証明しました。
 それが、「おバカ」の仮面をかぶっていたのだとしても。


 たぶん、紳助さんが「潔く、美学を貫いて引退した」ことばかりが、みんなの印象として残ってしまうんだよね。
 彼が、暴力団の幹部とどんなことをしたかは、追及されることもなく。
 もしかしたら、いままでは、そういう関係すら、「広い人脈」として、「評価」されていたのかもしれません。

 この引退劇で、「アンチ紳助」の人たちは快哉を叫んでいるけれど、忘れてはならないのは、「島田紳助を支えていたのは、彼の番組やシステムを愛する、大勢の人たちだった」ということです。
 そして、島田紳助が「引退」しても、遠からぬ未来に、「次の島田紳助」が登場してくることでしょう。

 島田紳助が引退しても、「島田紳助的な人心掌握術」は、けっして死なない。

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