琥珀色の戯言

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嘘みたいな本当の話 [日本版]ナショナル・ストーリー・プロジェクト ☆☆☆☆


内容紹介
泣いた、笑った、驚いた!
日本中から届いた149の実話たち

「人生にはいろんなことがあるよねって僕は読んでてホッとしました」
──内田樹

ほしよりこの楽しいイラストに、
柴田元幸×内田樹による〈特別対談〉も収録!

ひとはいつだって、それぞれの現実を生きている
◎スリに遭い、大事な写真がなくなった!でもある日、郵便受けを開けたら……(「写真」)
◎死のうと思った。二歳の息子と車に乗ってエンジンをかけたそのとき……(「死のトンネル」)
「あるある」から「まさか!」まで、どこかの誰かの身に起きた、本当にあったストーリー。

ポール・オースターが呼びかけ、全米から体験談が寄せられた
『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』。
いきいきとアメリカの姿を描き出した、感動のプロジェクトを日本でも。

この本、あの『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』の日本版、そして、選者が内田樹先生と高橋源一郎さん。
これで面白くならないはずがないだろう、と思いながら読んだのですが、やはり「実話」には、「小説より奇なり」の面白さがありますね。


東京都・サトゲンさんの「さかさまな世界」という話。

 狭い個室のなかで僕は格闘していた。冷や汗が止まらない。
 段差ぎりぎりに踏み込む足裏が痛い。
 右手をそっと後ろへ伸ばす。もっと伸びないものかと、左手で右肩を後方へ押しやる。
 指先がそいつの先端にやっと触れた。
 大学に入学して初めてのバイト先。苛立った僕はその後、事務員の女性たちに愚痴をこぼした。
「あそこって不親切なつくりですよね。手を思いっきり後ろへ伸ばさないと届かないんですもん。ただでさえ洋式のスタイルに慣れきっているので、和式はたまらなくつらいんですよ」
 僕の話を一通り聞いたあと、事務員たちは顔を見合わせる。
 ひとりの事務員が切り出した。
「あの……トイレットペーパーなら、後方ではなく前方にあるはずなんですが……」

 この本を読んでいると、ごくふつうの人の日常生活のなかにも、『嘘みたいな本当の話』は転がっているのだと思えてきます。
 でも、それを切り取ることができる人と、いない人がいるのだよなあ。


 そして、その一方で、この本からは、日本の「深夜ラジオや雑誌への投稿文化」の影響を感じずにはいられません。
 こういう企画で、同じ人からの投稿がいくつも載っていると、「この人の作品は上手いけど、この話はほんとに実話なのかな……」とか、「いかにも選者の高橋さんや内田先生が好きそうな話だよなあ」なんて、素直に読めなくなっていってしまうのです。
 なんだか、「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」というより、「オールナイトニッポン」や「ジャンプ放送局」の常連投稿者の冴えたワザを見せつけられているような気分になってきます。

「巻末対談」では、選者の内田樹さんと柴田元幸さんのあいだの、こんなやりとりが収録されています。

柴田元幸<日本版>には、「私個人の物語」という構えで語られたものが少ないですね。


内田樹「私の」というより、「この体験は誰の身に起きてもおかしくなかった」という意識で綴られているもののほうが圧倒的に多いですね。<アメリカ版>のほうは、意識もそうだけど、何より書き手の属性、人種だったり住んでいる環境だったりといった要素がストーリーに反映されています。たとえば、ユダヤ人であるとか移民であるとか。


柴田:あるいは刑務所で服役中だとか。


内田:すごく貧しい家庭で育ったとか。家庭内暴力を受けていたとか。ひとつひとつが、かなり特殊で、パーソナルな背景をふまえている。でも、<日本版>のほうはそうじゃないんです。書き手ひとりひとりの属性の違いというものがほとんど感じられない。本文を読んでいる限り、性別も、年齢も、職業も、居住地も、よくわからない。むしろ「ああ、そういうことって、あるよね!」っていう、「共感を呼ぶ物語」が多かったです。おかしいんだけど、誰かと誰かを間違えたとか、別人に間違えられた話がたいへん多いんですよ。恋人からの電話だと思って夜中に延々知らない人としゃべっていたとか(「真夜中の甘い電話」)、酔っぱらって乗った電車で、後輩の女の子に介抱されていたはずが、実は全然知らない人だったとか(「気の利く後輩」)。あとは親が亡くなって悲しんでいるところに、その日生まれた子犬が偶然やってきた(「黒い瞳」)とか。つまり「入れ替え可能」という話型ですね。こんな話、ポール・オースターのほうにはほとんどなかったと思うんです。これは日本社会の構成メンバーが「代替可能」であるという、ある意味「そう言われればそうか……」的事実を映し出しているんじゃないですかね。そして、おもしろいのは、そういう「人間は入れ替え可能」という話を読むと、個性的でオリジナルな人間じゃない悲しみを感じるよりも、むしろなんだかホッとする……。

このやりとりは、「日本人の民族性」みたいなものを感じさせてくれるのと同時に、この「日本版」が僕にとって物足りなかった理由も説明してくれています。

アメリカ版は、全部で4000通、日本版は1500通くらいの応募があったそうなのですが、ラジオで放送されたアメリカ版に比べて、Amazonの『マトグロッソ』というWebマガジン(今回僕も存在をはじめて知って読んでみたのですが、けっこう面白かったです。直接リンクはできないみたいなのですが、このページの右側から入れます)で公開されただけの日本版は、応募者が「本好き、文学好き」の層に偏ってしまったのではないかと思います。
「一生にひとつの物語」を「一般人」たちが精一杯書いて伝えようとしたアメリカ版と、「日常のヒトコマ」を「投稿職人」たちが、自分のセンスのよさを示すように切り取った日本版。
「ああ、そういうことって、あるよね!」
「これに気づいて、こうして文章にできるのってすごいなあ!」
それはそうなのだけれど、日本版は、物語の「大きさ」とか「重み」が、少し欠けているような気がします。


 いや、これはこれで面白いんですけどね、本当に。
 これで税込み1050円なら、安いと思うし。


ナショナル・ストーリー・プロジェクト〈1〉 (新潮文庫)

ナショナル・ストーリー・プロジェクト〈1〉 (新潮文庫)

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