琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

日本人の9割に英語はいらない ☆☆☆


日本人の9割に英語はいらない

日本人の9割に英語はいらない

内容紹介
英語ができても、バカはバカ。

「社内公用語化、小学校での義務化、TOEIC絶対視……ちょっと待った!」
マイクロソフト元社長が緊急提言

「英会話に時間とお金を投資するなんてムダ」
「頭の悪い人ほど英語を勉強する」
楽天ユニクロに惑わされるな」
「ビジネス英会話なんて簡単」
「英語ができても仕事ができるわけではない」
「インターナショナルスクールを出て成功した人はいない」
「早期英語学習は無意味である」

――元外資系トップだからここまで言える!
挑発的かつ実践的な、真実の英語論

著者の言いたいことは、すごくよくわかる。
でも、読んでいてなんとなく、「お前らは所詮バカなんだから、英語なんて勉強する必要ないんだよ」と言われているような気分になるのもまた事実。

いやまあ、そんなふうに考えてしまうのは、僕が「平等教育」の影響を受けすぎているためなのかもしれないけれども。


著者は、本当に英語が必要な人は1割、という根拠を、こんなふうに計算しています。
「海外長期滞在者(3か月以上外国に滞在)のうち、英語圏に住んでいる人たちの、最近20年間の平均が56万7000人。
 彼らが平均4年間海外に住んでいると仮定すると、のべ1077万人が、海外長期滞在者となる。
 それに、外資系企業の従業員や大型ホテル・旅館業・観光業に従事する人などを加えると、1279万人。
 これは、現在の日本の人口の、約1割。

 なるほど、そんなものなのか……という数字ではあります。
 「本当に必要な人が1割」っていうのは、僕の実感より少し多いのだけれども、都会で暮らしている人は、「1割じゃ少ない」と思っているかもしれないので、平均すればそんなもの、なのかもしれませんね。


 いまは「グローバル化」の時代とされていますが、著者はこう書いています。

 そもそもグローバル化が進んでも、市民レベルで日本人が外国人と交流する機会が増えることなどない。外資系企業とつきあいのある私ですら、この1年間で外国籍の人と交流したのは数えるほどである。外国人はおろか、九州の人とも北海道の人ともさほど交流などしていない。北関東の人とですら、ゴルフ場で言葉を交わす程度である。同じ国民同士ですら交流をもたないのに、なぜグローバル化が進むと、アメリカ人やイギリス人と交流するという発想になるのか不思議でならない。それは一部の限られた人の間での話であり、普段の生活にいきなり外国人が入り込んでくることはないだろう。

 たしかにそうですよね。
 英語というのは、学ぶためのコストに比べると、使う機会は少ない。
 僕も英語を使うのは、論文を読むか書く、あるいは、海外の学会に行くときくらいです(と、カッコつけて書いてみましたが、海外の学会に行く機会なんて、一生のうちに数回くらいのものです)。
 僕が「英語で書いた」論文など、校正に出すと、真っ赤になって返ってきて、元々の僕の英語はほとんど残っていません。
 現場では、「意味が通じる」だけではダメで、「その場のふさわしい英語」が求められます。
 この本のなかで印象的だったのは、著者が、「英語のビジネスの場での敬語は、日本語の敬語よりもややこしい」と述べていたところでした。

 私も最初の年は、アメリカ人の営業マンが顧客に接するときの物腰や言葉遣いを注意深く聞いていた。ときには会議の内容はそっちのけで観察していた。
 たとえば、コーヒーを出すとき"You like coffee?"(コーヒーをお飲みになりますか?)といえば十分のところを"Would you mind if I serve you a coffee?"(私がコーヒーを出したら、あなたは気になさるでしょうか?)と言うのである。日本語に訳したら噴き出しそうだが、これが最低ラインの敬語なのだという。
 アメリカ人は偉い人の前では徹底的にへりくだり、意向を聞く場合には「Yes」ではなく「No」と言わせるように質問をする。それがビジネス界の敬語の鉄則であり、出世には欠かせない技術なのである。

 イチロー選手や松井秀喜選手は日常会話レベルの英語は使えるらしいのですが、「微妙なニュアンスの部分で誤解される可能性も考慮して」公の場では通訳を介しているそうです。
 結局のところ、通訳くらいの「言葉のプロフェッショナル」にならないと、「完璧に近い英語」は使いこなせないのでしょう。
 極論すれば、海外旅行レベルでは、身振り手振りと単語で伝わるし、本当に重要な場面では、通訳が必要。では、実際に自分で喋らなければならないケースは、どのくらいあるのか?


 「日本の翻訳はレベルが高い」といわれています。

 僕は昔から、「本を英語の原書で読むこと」について、こんなことを考えていました。
 英語で読んでも、『何が書いてあるのか?』の概略はわかっても、細かいニュアンスは理解できない。
 それなら、わざわざ原書で読むことに、「即時性」以外のメリットがあるのだろうか?

 英語が苦手な人間が「原書で読む」のと、英語が得意な人の手によるものとはいえ、「翻訳というバイアスがかかっているものを日本語で読む」のと、どちらがより、「もともと書いてあること」に近いのか?
 とくに小説などの「ニュアンス」に属する部分は、結局のところ、その母語を共有する人たちにしか、正確には伝わらないのではないか?

 ジョブズの自伝は、原書で読んでみたいなあ、なんてことを考えていたわけですが、それは「即時性」を求めて、あとはカッコつけて、ですし。


 でもまあ、その一方で、日本の高度な「翻訳文化」というのも、大部分の人にとってはムダなのかもしれない英語教育で底上げされている部分もあるとは思うんですよね。
 学校の授業で英語が好きになって、英語を仕事にしていく人というのは、けっこういるし。


 ちょっと脱線してしまいましたが、たぶん、こういう本を買って読むのは、「自分は残りの『英語が必要な1割』に入っている、あるいは入りたいと考えている人」だと思います。
 で、残念なことに、「本当に英語が必要ない人」は、この本に1470円は出しません。


 正直、後半の「著者による英語勉強法」は、大部分の読者(僕も含めて)には、役に立ちません(だって、「とにかく現地に行って生活してみろ!」なんていうのは、その通りだけど、「参考」にはなりにくい。英会話教室はマンツーマンじゃないと身につかない、というのは大事なアドバイスですが)。
 むしろ、散りばめられている、著者の「英語についての蘊蓄話」のほうが面白い。


 「英語を勉強したくない人」は、こんな本を読んで自分の信念を強化しても時間のムダなので、さっさと勉強をやめてしまえばいい。
 「英語の勉強のしかたを知りたい人」は、この著者は「頭が良すぎる人」なので、参考にはしにくい。


 で、結局のところ、この本が対象としている読者は、「英会話スクールに週1回くらい通って勉強している人たちを見て苦笑している、ある程度英語を使いこなせる人たち」なんじゃないかな、と思うのですよ。
 
 

アクセスカウンター