琥珀色の戯言

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暴力団 ☆☆☆☆


暴力団 (新潮新書)

暴力団 (新潮新書)


暴力団」というと、やたらと「任侠の世界」を美化したものか、映画『仁義無き戦い』のような抗争を採り上げたもの、あるいは、その凶暴性を中心に描いたものが多いのですが、この新書では、簡潔かつ俯瞰的に、「暴力団の日常」や「いまの日本で、暴力団が置かれている状況」「これから、暴力団はどうなっていくのか」が書かれています。
いわば「暴力団の基礎知識」。
僕だって暴力団にかかわりたくはありません(それでも、病院に勤めていると、否応無しに診なければならない、という機会はあります)。
暴力団に関する本を読むのも敬遠したい気持ちと、まあ、このくらいの新書だったら、ものは試しに読んでみてもいいかな、という気持ちが半々で、手にとってみたのです。
「興味本位で知りたい人、大歓迎」と、著者はまえがきに書いており、「実話系週刊誌」を精読している人たちが喜びそうな実例はありませんが、長年「暴力団ウオッチャー」と言われてきた著者ならではの良心的な新書だと思います。


 僕は長年、暴力団って、悪いことをしているとわかっているのに、なぜ存続が許されているんだ?と疑問でした。
 世の中には「暴力団でも、上のほうには立派な人もいる」とか「ああいうふうに、社会の落ちこぼれを吸収するための組織は必要悪なのだ」という人もいます。


著者は、暴力団を取り締まる立場であるはずの警察との「馴れあい体質」を、こんなふうに紹介しています。

 ほんの少し前まで、警察は暴力団と取引をしていました。たとえば拳銃摘発月間に入ると、かねて目をつけていた暴力団幹部にこう持ち掛けます。
「シャブ(覚醒剤の意味)商売でだいぶ儲けたいう話やないか」
 と、まず牽制球を投げます。お前が覚醒剤に触っていることは掴んでいるぞ、という脅しです。その上で、「覚醒剤はこの際、目ェつぶったったる。そのかわり拳銃出せや。首なしでええから:などとやります。
「首なし」拳銃とは誰が持っていたか、所有者が分からないが、とにかく拳銃が押収されたという拳銃のことです。警察との取引を承知した組員は駅のロッカーや公衆トイレなどに紙袋に入れた拳銃を置き、取引相手の警官に「今、置いたから」と電話を入れます。警察はすぐ現場に行き、拳銃を発見して押収するわけですが、その拳銃に関しては、誰一人拳銃不法所持で逮捕しません。持ち主はあくまでも不明なのです。
 しかし、拳銃を何丁押収したという数字は残り、無事に拳銃摘発月間をクリアできます。取引を成立させるため、わざわざ拳銃を新規に買い込んでから、警察に押収させる組員までいました。組員にとっては警察に押収させるため、拳銃を買うことが覚醒剤商売の必要経費になったわけです。
 一事が万事この調子でした。

 著者は指摘します。
 警察は、もちろん暴力団と強く癒着しているわけではないが、「暴力団対策」のための部署で多くの警察官が働いているのも事実。
 もし、暴力団が「絶滅」してしまえば、これらの警察官は、人員削減か、慣れない仕事への配置換えの対象になる。
 それでも、全身全霊をかけて、「暴力団絶滅」のために働く人が、どのくらいいるだろうか?と。

 それでも、いまの警察の偉い人が、暴力団に厳しく対応する方針を打ち出しているため、暴力団への取り締まりは、かなり強化されているようです。
 もっとも、「トップの意向によって、警察の暴力団への姿勢が変わってしまうということは、穏健派が権力を握れば、また甘くなってしまう可能性もあるということですが。

やはり暴力団現代社会の必要悪ですから、なくせないのでしょうか。政・官・財で権力を握っている人たちが暴力団を便利に使っているから、今もって存続しているのでしょうか。
 いえいえ、そうじゃないはずです。政治家などは暴力団幹部とのツーショット写真が出回るくらいでスキャンダルになってしまいます。芸能人も暴力団幹部主催のゴルフコンペに顔を出しただけで、大晦日の紅白歌合戦に出場できなくなります。
 しかし、暴力団と芸能人の交際は双方にメリットもあり、跡を断ちません。たとえば、ディナーショーのチケットが売れ残ったとして、短時間で捌けるのは暴力団です。プロダクションや芸能人は空席で残るよりよいと、捨て値でチケットを暴力団に卸します。暴力団は日ごろつき合いのある地場の会社社長や商店主に半ば押しつけ販売して儲けます。
 歌や芝居、相撲などの興行は事故なく円滑に進めなければなりません。そのため戦前にはほとんど地域の有力暴力団に興行を任せました。「グズリ押さえ」(不平客を力で押さえつける)や場内整理に便利だからです。
 暴力団は芸能人を連れ歩くのも大好きです。街の人々はその姿を見て、「芸能人の誰々さんと仲がいいなんて凄い」「芸能人に高級店でご馳走するなんて、相当なお金持っているんだ」と思いがちです。暴力団とすれば、自分の財力や顔の広さ、器の大きさを世間にアピールできるチャンスなのです。自分まで有名になったような気がするのかもしれません。
 人気タレントの島田紳助も、山口組幹部と長年交際していたことが明るみに出て、2011年8月、芸能界から引退すると記者発表しました。

先日の島田紳助さんの引退を引き金に、さまざまなメディアで「芸能人と暴力団との交際」が報じられるようになりました。
しかしながら、最近になって急にそういう交際が盛んになったとは考え難いので、「黒い交際」を嬉々として報じているメディアも、これまでは、そういう関係について、口をつぐんでいたのだと思われます。
「解禁」になったとたんに、いままで「自粛」していた自分たちのことは顧みずに「暴露記事」を書きまくるというのも、それはそれで品がない話です。

 それにしても、「暴力団は必要悪」だと考えている人は、まだまだ少なくないように思われます。
『とくダネ!』の小倉キャスターは、島田紳助さんの引退について、視聴者に「あなたたちも裏社会の人たちに助けてもらう機会があるはずだ」とコメントしていました。
僕はテレビの前で、「ないよ!」と呟いてしまいましたけど。

 「暴力団Aが因縁をつけて起こしたトラブルを、暴力団Bが解決した」からといって、「暴力団が必要」だというのは、なんてバカバカしい話なんでしょうか。
 暴力団Bを擁護するのではなく、暴力団そのものがなくなれば、そんなトラブルは起こらなかったはず。
 こういう人たちが、暴力団を「延命」させているのです。

 その一方で、暴力団がかかわっている産業廃棄物処理会社が「安く処理してくれるから」という理由で利用されているという現実もあります。
 もちろん、その会社は「不法投棄している」ことを公言しているわけではありませんが、それを薄々察しながらも、「安さ」に負けて、仕事を頼んでしまうのです。


 それでも、不況で地上げの需要が少なくなり、警察の取り締まりも厳しくなった暴力団は、経済的にかなり行き詰まってきています。

 暴力団に入らずに少人数の集団で不法行為を行う「半グレ集団」についての章のなかで、著者は、いまの若者からみた暴力団員について、こう書いています。

暴力団に入ったとします。
 なぜ親分ばかりか、兄貴分や叔父貴にまでへいこら頭を下げなければならないのか。組員として一人前になっても、稼ぎはたかが知れています。そのくせ組には月々会費を納めなければならず、警察には組員というだけで目をつけられ、ちょっと店からみかじめなどを取ろうものなら、すぐ「署に来い」と引っ張られます。
 おまけに組員であると、銀行から新規口座の開設を断られます。水道光熱費の自動引き落としも利用できず、貸金庫を借りたくても貸してくれません。公共工事の下請けに入りたくても、都道府県の条例があって、入れてくれません。
 暴力団に入ると不利なことばかりですから、わざわざ組員になって、苦労する気になれません。

今後、暴力団の命数はかなり短いのではないかと思われます。まだまだ上層部は富を誇っていますが、中堅層以下が経済的に疲弊していますから、そう長くは上層部の贅沢を支えきれません。暴力団は土台から崩れ始めています。

 僕はこの新書を読んで、ちょっと安心しました。
 暴力団という組織は、確実に、崩壊しはじめています。
 若者が魅力を感じていないのに、上層部は旧態依然として、以前と同じように若者から搾取を続けているような組織は、いずれ、立ち枯れてしまうでしょう。
 著者が書いているような、暴力団に入らずに、少人数でカタギとして不法行為を行う人たち「半グレ集団」など、不安な要素はあるとしても。


 いまでも、暴力団に脅されたり、困らされている人たちはいます。
 映画やドラマで見る暴力団はカッコいいかもしれませんが、僕はカッコいい暴力団員に接したことは一度もありません。

 暴力団は必要悪だからなくならないと多くの人が信じていたはずですが、暴力団という形のままでは怪しくなってきました。
 改めて問います。暴力団は日本の経済を回していく上で絶対必要な存在なのでしょうか。

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